茶々(淀殿)は幼いころに親と兄を失い、頼るべき存在がありませんでした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第46回「大坂の陣」では14年ぶりの大戦・大坂冬の陣が勃発し、それを早期に終わらせるべく家康の大筒が大坂城を襲いました。第47回「乱世の亡霊」では和議が成立したものの、乱世という生き場を望む武士が豊臣方に集結したため再び大坂城を攻めることに。その大坂城で散った茶々の生涯について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

茶々、のちの淀殿は1569年に生まれました。母は織田信長の妹・お市、父は信長が同盟した浅井長政です。長政とお市は夫婦仲もよく、茶々を含め一男三女に恵まれます。しかし、その幸せも長くは続きませんでした。

長政が信長との同盟を破棄し敵対したことから、1573年に浅井家は織田家に滅ぼされます。父の長政は自害、兄である嫡子・万福丸は羽柴秀吉によって処刑。このとき茶々は4歳でした。

兄は処刑され、父と母は自害

その後、茶々は、母と妹2人とともに叔父・信長の保護下に置かれます。

その信長が本能寺の変で討たれると、母のお市は、織田家の筆頭家老の地位にあった柴田勝家と再婚。茶々13歳のときのことです。

この婚姻は信長、そして後継者だった信忠が討たれたことによる織田家の混乱を少しでもおさめるべく行われたものでした。しかし勝家と秀吉の間で権力争いが激しくなり、結局、勝家は秀吉に滅ぼされてしまいます。

このとき勝家は、お市と茶々ら3姉妹に城から退去するよう言いましたが、お市はこれを拒否。娘たちだけ退去させ、自身は勝家とともに自害します。信長の命とはいえ秀吉は父・長政や兄・万福丸を死に追いやった当事者なので、茶々にとっての秀吉は、2度も家族を奪った仇敵ともいえる存在でした。このとき茶々は14歳です。

茶々、そして妹の初と江は、秀吉に保護されたあと、織田信雄によって世話をされていたといわれています。しかし、この時期の3姉妹の動きは資料が残っておらず、たしかなことはわかりません。

茶々の存在が再び世に出るのは1588年あたりです。この時期には秀吉の側室になっています。茶々は19歳でした。

秀吉はこの時期、手当たり次第に側室をもうけており、そのなかには主君・信長の娘も、古くからの盟友・前田利家の娘もいるというありさまです。茶々も、そうした秀吉の好色の餌食になったのかもしれません。しかし彼女がほかの側室と決定的に違ったのは唯一、秀吉の子を身籠ったことです。

天下人の後継者を産んだ側室に

1589年、茶々は秀吉とのあいだに第一子・鶴松をもうけます。秀吉にとっては待ちに待った世継ぎでもありました。秀吉は茶々に淀城を与えます。このことから茶々は「淀殿」と呼ばれるようになりました。

しかし鶴松は、すぐに亡くなってしまいます。気落ちした秀吉は、甥の秀次を後継者に定めますが、なんと茶々はまた身籠り、お拾い(秀頼)を産みました。

茶々は秀吉の嫡男の母として、おおいに権勢を奮うことになります。大蔵卿局、饗庭局らを重用し、政治的な発言権も持つようになっていきました。

そんな茶々の行く末に暗雲が垂れ込めます。まずは秀吉に死が訪れました。後継者である秀頼は幼く、秀吉の死の直後から五大老筆頭・徳川家康が存在感を増し、これに石田三成が対立するなど政情は不安定に。こうした事態のなか、本来は豊臣家の柱となるはずの秀吉の正室・北政所(寧々)は、1599年に大坂城を退去してしまいます。その北政所のいた西の丸に入ったのが家康です。

それまでも茶々は北政所とことあるごとに対立してきましたが、北政所は家康を含め、加藤清正、福島正則など豊臣恩顧の諸将にも信頼を置かれる政治的にも重要な存在でした。北政所を失ったことは、豊臣家にとって政治的には痛恨の失策となります。

関ヶ原の戦いを静観した茶々

その後、家康による上杉征伐の隙をついて石田三成が挙兵をし、いわゆる関ヶ原の戦いが勃発します。この戦いにおいて、茶々は三成を表立って支持することはなく、三成が要求する秀頼の墨付きの文書や出陣などもいっさい受け付けませんでした。とはいえ家康を積極的に支持することもなく、天下をふたつに分ける事態のなか、あくまで傍観者の立場を通します。

結局、三成は敗れることになり、家康が事実上の最高権力者に。関ヶ原の戦い直後に茶々は家康をねぎらい、秀頼の父親代わりになることを依頼します。家康はそれを上機嫌で受け入れましたが、実際に行ったのは、論功行賞で豊臣家の直轄地を勝手に削減し、おのれの所領を増やし豊臣家を一大名の地位に落としたことでした。しかし、これはかつて秀吉が主家であった織田家に行ったのと同じことでもあります。

このころから茶々は「気うつ」が激しくなります。現代で言うところのうつ病で、おそらく将来の不安から生じたものだと思われます。彼女は頼るべき人が誰もいませんでした。

2度の落城を経験した彼女にとって、秀吉がつくった難攻不落の大坂城と自身の存在価値の源である息子・秀頼だけが信じられるものだったのです。

結果、彼女は秀頼を大坂城から一歩も出させず、天下の情勢からも目をそむけることになります。茶々にとっての「天下人」は自分と秀頼の安全を保障するものでしかなく、そこには何のビジョンもありません。孤独な茶々の心情を想うと胸が痛みます。

不安が誘う破滅への道

一方の家康は、基本的には豊臣家との融和姿勢をみせていました。秀吉の遺言通り孫娘の千姫を7歳で嫁がせ、当初は徳川政権内での豊臣家の存続を考えていたようです。しかし、そのためには豊臣家が正式に徳川に臣従し、また豊臣の天下の象徴である大坂城から出ることも必要でした。

しかし、大坂城は茶々にとって安全の証しであり、それは受け入れられないことです。つまり大坂の陣を通じて彼女の政治的姿勢は「大坂城から一歩も出ない」。これしかありませんでした。

結局、彼女は不安のあまり、大坂城の安全をさらに強化するために、真田信繁、後藤又兵衛、長宗我部盛親など著名な牢人を大量に抱えます。大坂城に武力を加えることによって安全を確保しようとしたのです。結局、これが家康に大坂攻めを決意させる要因になりました。


茶々は妹である江と対立し、さらに初の説得にも応じませんでした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

大坂冬の陣では奮闘をした大坂方でしたが、実際の戦闘では茶々の忌まわしい記憶を呼び起こします。また互いの兵糧も尽きたことから、いったん和睦となります。ここが最後のチャンスでした。

家康の要求は「牢人の解雇」「大坂からの国替え」「淀殿の人質」。

これらの条件さえのめば、少なくともしばらくは豊臣家の命脈は保てた可能性はありました。しかし大坂方は拒否します。

茶々をのみ込む3度目の落城


これは私の推測ですが、この拒否は茶々の意見というより、牢人たちの強い反対にあい、彼らを制御できなかったのが原因ではないかと思われます。

無理に牢人たちを解雇すれば、彼らが茶々や秀頼の命を奪うことを懸念していたのではないでしょうか。

武士として生きた証しを刻むための最後の勝負に出る牢人たちの夢に引きずられるように、茶々は大坂夏の陣で3度目の落城に遭い、命を落とします。

茶々の遺体は秀頼とともに炎に包まれ、発見されることはありませんでした。彼女もまた、秀吉の「浪速の夢」だったのかもしれません。


太融寺境内の淀殿の墓(写真:けんじ/PIXTA)

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)