徳川家光とゆかりがある金王八幡宮(写真: イデア /PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第51回は親の愛情不足で育った3代将軍家光を救った、春日局や家康とのエピソードを紹介する。

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跡継ぎなのに両親に疎まれた家光

徳川家康は、自分の死後のことを考えて、息子の秀忠を早めに将軍に就任させた。自らは大御所となり、秀忠と二人三脚で政務にあたることで、秀忠に「将軍見習い期間」を与えたのである。

しかし、家康はさらにその先のことまで考えていた。秀忠の次に誰を将軍にするかである。順当にいけば、秀忠の長男・家光が後を継ぐことになるはずだが、秀忠の考えは違ったようだ。秀忠は長男の家光を疎んじて、次男の国松を可愛がったという。

もちろん、最初は秀忠も、家光を後継者にと考えていた。幼名に「竹千代」とつけたことからも、その期待の大きさが伝わってくる。

だが、家光の誕生から2年後に国松が生まれると、両親は国松を溺愛。家光は跡継ぎのはずながら、多感な時期に親の愛を受けることができなかった。

父の秀忠の小姓が変に気を利かせて、秀忠が2人を召し出すときには、いつも国松のほうを先に呼んでいたという史料もある。それに気づいた家光は泣きながら、近習の者につらい出来事として話していたという。

幼き家光は将軍の長男でありながら、非常に不安定な幼少期を送ることとなった。

家光がお守り袋に入れていたモノ

親の愛情を受けられなかった家光が、心を深く傷つけられたことは想像に難くないが、それだけに味方になってくれる人の存在は、涙が出るほどうれしかったことだろう。乳母のお福(のちの春日局)や、家光にとっては祖父にあたる、大御所の徳川家康らのことである。

家康はあくまでも後継者は家光とし、重臣の土井利勝にも遺言として「天下は竹千代に」、つまり、家光にと伝えている。

この家康の介入の裏には、家光に同情した乳母のお福が、伊勢神宮参内を理由にして、駿府まで出向き、家康に実情を伝えたともいわれている。


徳川家光の乳母である春日局の菩提寺である麟祥院 (写真: Elmo px. / PIXTA)

よほど腹に据えかねたのか、お福が作成に関与したと伝わる『東照大権現祝詞』には、次のように書かれている。

「崇源院様は家光を憎み、悪い印象ばかりを持ったので、台徳院様も同じ気持ちになり、2人の親ともどもが家光を憎んだ」

崇源院とは家光の母、お江のことで、台徳院とは家光の父、秀忠のことである。本来であれば、長幼の序を守って、年長の家光が世継ぎとして厚遇されるはずが、両親が国松ばかりを可愛がるので、諸大名も進物を献じる際、2人に区別をつけなかったようだ。

例えば、加賀金沢城主の前田利長は使者を派遣した際に、家光と秀忠に同額の金50枚ずつを与えている(『当代記』)。また「菊の節句」とも呼ばれる重陽のご祝儀でも、阿波徳島の蜂須賀家では、2人に同額の呉服が与えられたようだ(『蜂須賀家文書』)。

母は、国松のところだけに夜食を届けたというエピソードまで囁かれている。もし、乳母のお福が家康に掛け合わなければ、聡明と伝わる国松が後継者に選ばれていたとしてもおかしくはなかった。

それだけに、家光は生涯、家康への恩を忘れなかった。将軍就任から約10年後の寛永11(1634)年には、家康を祀る日光東照社の大造営に着手。豪華絢爛な建造物に改築し、その費用はすべて幕府が負担している。

それだけではない。家光は朝廷に対して、日光東照社への宮号宣下や日光例幣使の創設を要請。いずれも、日光東照宮の地位を高めることが目的だ。

さらに、よほど家康への崇敬が強かったのだろう。家光はお守り袋に、こんな旨が書かれた紙まで入れていた。

「東照大権現 将軍 心も体も一ツ也」

つまり「家康と自分は心身ともに一体である」ということだ。それほど祖父の家康をリスペクトしたのは、同時に父の秀忠との関係が希薄だったことの裏返しかもしれない。

自らの権限を強化して大名を監視した

家光は、自らを頂点と立ち、すべての職を直轄する独裁体制を敷く。そのために、まずは自分の権限を強化し、大名たちを厳しく監視した。

家光は慶長20(1615)年に父、秀忠によって制定された「武家諸法度」を、寛永12(1635)年に大幅に改定。もともと13カ条だったが、そのうち9カ条を実情に合わせて変更。さらに3カ条を削って、9カ条を新たに加えた。

この改定によって、大名は譜代、外様を問わず「1万石以上」とし、参勤交代が義務づけられた。参勤交代は、それまでも行われていたが、江戸の滞在期間や交代期などを細かく定めるなど、より徹底させている。

厳しい処分として、家光は手始めに加藤清正の三男である加藤忠広を改易。家光は、外様大名の伊達政宗、前田利常、島津家久、上杉定勝、佐竹義宣らを江戸城に呼びつけて、改易の理由をこう説明した。

「御代始めの御法度であるから厳しく処罰する」(『大日本近世史料 細川家史料四』)

つまり、加藤家を厳しく処罰することで、将軍としての威光を示そうとしたようだ。その後、譜代大名が大幅に九州に進出している。

父の秀忠の場合は、家康が亡くなった途端に、弟の松平忠輝と豊臣系の福島正則を処分した。子の家光も同じように、秀忠が亡くなった途端に、弟の忠長とやはり豊臣系の加藤忠広を処分したことになる。

大名たちを弱体化させることで、自らの権勢を強めた家光。重臣たちとはどんな人間関係を築いたのだろうか。

父の秀忠の場合は、家康の側近を排除し、自分のお気に入りを新たな側近にした。だが、家光は、幼少期から自分の守役を務めた酒井忠世や土井利勝らをすぐに外さなかった。

その代わりに、自分のお気に入りを「六人衆」として政務に取り入れている。松平信綱、堀田正盛、阿部正秋、阿部重次、三浦正次、太田資宗らのことである。

家光は六人衆について「少々御用の儀を取り合う者として起用した」(『江戸幕府日記』)として、年寄衆が持っていた権限を六人衆に移行させた。さらに、春日局の子である稲葉正勝や、実弟の保科正之らにも政治に参加させている。

将軍の独裁体制が機能しなくなる

そうして六人衆など子飼いの家臣に政権運営に慣れさせておいてから、家光は徐々にベテランを排除していこうとしたのである。

ところが、1年半ほど実施して、この政治機構の問題点が出てくる。トップ不在時にまるで機能しないのだ。実際に、トップの家光が健在なときこそうまく機能したが、家光は病気がちで、政務をまるで執れない時期が1年あまり続くこともあった。

そんなとき、将軍の独裁体制では何一つ物事が進まない。この失敗から、数名の老中により統括していく行政システムを、家光は構築していくことになる。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
福田千鶴『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』(新人物往来社)
山本博文『徳川秀忠』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)