いまや誰もが知る大手航空会社となったANAですが、設立直後の社史がかなり特徴的で、赤裸々かつ自虐的な切り口なものとなっています。どういったもので、その意図はどこにあったのでしょうか。

「現在窮乏・将来有望」

 いまや国内大手航空会社の双璧にまで成長したANA(全日空)。もとをたどると、1957年12月1日、日本ヘリコプターと極東航空の合併登記が完了して設立された会社です。ANAでは、この頃のことを10年史『大空へ十年』と20年史『大空へ二十年』に残していますが、多くの会社では事業の記録や社業のトピックをそつなく残す社史が多いなか、これが赤裸々かつ自虐的な切り口となっているのが特徴です。

 同社は誕生早期の2冊の社史を、なぜこのような形で残したのでしょう。


ANAの旅客機(乗りものニュース編集部撮影)。

 『大空へ十年」と『大空へ二十年』では、設立当時のANAは、日ヘリをもじって「日減り」、「極東」から「極道航空」と呼ばれるほど資金面で苦労し、金策に汲々としていた頃が回顧されています。

 現在はライバルとなるJAL(日本航空)が政府主導でスタートしたのに対し、民間から興った日ヘリと極東航空、そして合併後のANAは機材も小さく、乗る人を不安がらせ、集客も苦労しました。ANA初代社長となった美土路昌一氏が「現在窮乏・将来有望」と社員へメッセージを送り、士気を鼓舞したのもこの頃でした。

『大空へ十年』は、この「窮乏」を、いたるところに残しています。それも、「唯の一回も給料の遅配を出さずに済んだことがせめてもの慰み」「(荷物)搭載用の車両など考え付かず、(冬は荷物を)運ぶ手に次第に汗がにじみ、マツ毛にたまった雪がしずくになって目にしみる」などとため息交じりに、時に自虐的に、そして感情豊かに振り返っています。

「自虐多すぎ社史」に隠された信念とは

『大空へ二十年』になると、有名イラストレーターの絵を用いて歴代使用機を紹介するなど、凝ったつくりにもなりましたが、それでも苦労話は顔をのぞかせます。

 JALの社史『日本航空10年の歩み』が、創立・創業期の基礎固め、路線展開、就航地の風景などを社史らしい冷静さで記録しているのと対照的です。しかし、これはANAの編集者自身が、巻末に「無味な出来上がりを避け、主観によってかなり偏った色に染めた」と残していることからも、意図的だったと分かります。


ANAの前身、極東航空のハンドレページ「マラソン」(画像:ANA)。

 社史編集者はなぜ「偏った」社史を残したのでしょうか。

 めくるページから浮かび上がるのは、会社の成長よりも、育て上げるのに奮闘した同僚の日々の姿を後輩へ伝えたかったのかもしれません。当時の旅客機は今ほど安全率が高くなかったことからも、外部の批評も真摯に受けながら、安全運航を常に銘じ続けなければいけないことも伝えようとした――「記録よりも記憶を残す」に、こだわったと思います。

『大空へ二十年』では「喜びも悲しみも 笑 涙!」と題して社員の顔写真を表情豊かに並べ、有名人の辛口の評や苦言を残し、事故で客室乗務員の娘を亡くした母の現況を載せて弔いとしていることからも、このコンセプトが採用されていることを濃く想像できます。

 社史に残された「現在窮乏・将来有望」は、リーマン・ショック後の2009年などの社員向けメッセージに今も使われ、コロナ禍でも経営陣がこの言葉を使っていたほか、ANAホールディングスの芝田浩二社長の2023年の年頭所感でこの言葉を述べています。設立から半世紀以上たった現在も、このコンセプトや奮闘が語り継がれているということでしょう。