沢木 耕太郎(さわき・こうたろう):作家。1947(昭和22)年、東京生れ。横浜国大卒業。ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。『若き実力者たち』『敗れざる者たち』等を発表した後、1979年、『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、1982年には『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。常にノンフィクションの新たな可能性を追求し続け、1995(平成7)年、檀一雄未亡人の一人称話法に徹した『檀』を発表。2000年に初めての書き下ろし長編小説『血の味』を刊行。2002年から2004年にかけて、それまでのノンフィクション分野の仕事の集大成『沢木耕太郎ノンフィクション』が刊行され、2005年にはフィクション/ノンフィクションの垣根を超えたとも言うべき登山の極限状態を描いた『凍』を発表、大きな話題を呼んだ

三島由紀夫、モハメッド・アリ、向田邦子、山本周五郎。未知の人物との遭遇が、心躍らせる物語への熱中が、いつだって私を豊かにしてくれた――。

そう語るのは『深夜特急』『キャパの十字架』など数々の作品で知られる、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さん。

その沢木氏が幼少期から現在に至るまでに出会った無数の本との出会いについて綴ったのが『夢ノ町本通り:ブック・エッセイ』です。『深夜特急』の直前、26歳の時に書いた単行本未収録のエッセイ「書店という街よ、どこへ?」も初収録した本書より、「立ちすくむ  松下竜一その仕事18 久さん伝」を抜粋してご紹介します。

松下竜一が和田久太郎を描こうとした理由

松下竜一の『久さん伝』は、大正時代のアナキスト和田久太郎の生涯を描いたものである。だが、「生涯を描く」といっても、和田久太郎にさほど多くの資料があるわけではない。彼が残した書簡と、アナキスト系の紙誌に書き残したいくつかの文章と、運動の周辺にいた人が和田をスケッチした文章くらいであり、それも量的には限られたものでしかない。

しかし、にもかかわらず松下竜一は和田久太郎を描こうとした。実は、その理由は明確には述べられていない。

《大杉栄と伊藤野枝の四女ルイズこと伊藤ルイさんを主題にして、私は二年前(一九八一年)に『ルイズ─父に貰いし名は』(講談社)という作品を書かせていただいたのだが、その執筆にあたって眼を通した関係文献の一つに、和田久太郎の獄中書簡集『獄窓から』があった。アナキズムの研究をしたこともなかった私は、そのときはじめて和田久太郎を知り、深く心を惹かれるものがあった》

だが、なぜ心を惹かれたのかについては明瞭に書かれていないのだ。いや、この『久さん伝』一冊でそれを説明しているのだという言い方もできないではないが、読み手にとっては必ずしも十分とは言えない。人によっては、「ここにこのような人がいた」という書物の域を出るものではないと思うかもしれない。

この『久さん伝』が「ここにこのような人がいた」という驚きから出発していることは間違いない。しかも、その叙述のスタイルは平明であり、奇を衒った新説などまったく提出されておらず、重要な発見資料と思われる「福田大将狙撃事件記録」もさりげなく挿入されているため、読み手は、単に和田久太郎を紹介するという情熱以上のものを感じ取れないまま終章まで頁を繰ることになるかもしれない。だが、その終章で、『久さん伝』が「ここにこのような人がいた」という紹介以上のものになる瞬間が訪れることが誰の眼にも明らかになる。

それは、和田久太郎の敬愛する望月桂夫人の妹であり、和田久太郎が獄中にあっては、形式上の妻となるまでしてその手紙の受け取り手となった望月しげと、筆者である松下竜一との取材をめぐるやりとりによってである。取材を依頼し、断られ、さらに手紙での質疑応答を依頼した松下竜一に対して、しげと同居している望月桂の長男、つまりしげの甥が、代筆というかたちで返事をよこす。その手紙の文面が、それ以前の『久さん伝』全六章に拮抗する重さで登場してくるのだ。とりわけ、なぜ取材に応じたくないのかを説明した文章に含まれる次の数行が、それまで松下竜一が多くの努力の末に述べてきたことを粉砕するかのような力を持って迫ってくる。

アナキストとして生きることの困難さ

《アナキストにはアナキストのもつ、それなりの過去から現在に至る過程から生じた意地みたいな「緘黙」がそうさせているのかも知れません。而もそれは当人達にとって大切なものなのです。御理解いただければ幸いです》

ノンフィクション、とりわけ他者を描こうとするノンフィクションにおいて、取材を拒絶する言葉を投げかけられることは必ずしも珍しいことではない。だが、この数行には、単に被取材者の取材者に対する拒否というだけではない、重いものがこめられていた。

戦前の日本において、アナキストとして生きることの困難さは、ほとんど現在の私たちには想像もつかないほどのものだったろう。それは運動の前面に出ている、いわゆる「主義者」だけでなく、その彼らを物心いずれかの面で援助していたシンパサイザーにとっても同じだったはずだ。

ある深い覚悟を持って関わっていったのだろうことは、この『久さん伝』からだけでもうかがい知ることができる。第二次大戦が終わるまで、あるいは、終わってからも、アナキストのシンパサイザーとして、周囲に対して身を固くして生きていかなければならなかった。彼らにとっては、アナキストとしての、あるいはアナキストのシンパサイザーとしての行動は、自らの良心に従ってのことだったに違いない。

その過去の行動が、罪悪視されないどころか、称賛されるような時代になったとしても、それはかくべつ人に誇るべきものではなく、他に知らしめるべきことでもなかった。それについて取材したいという申し出があったとき、たとえその相手がどのように良心的な書き手であっても、断りたいという答えは彼らの過去の行動から出てくる必然的な帰結でもあったのだ。

それは、望月桂の長男が言う「意地」というよりもう少し硬質のものであるように私には思える。心をコーティングする透明で硬質のおおいがなければ、恐らくは最後までアナキストとして、またそのシンパサイザーとしての立場を貫くことはできなかったろう。

つまり、この「緘黙」というたったひとつの言葉に、和田久太郎をはじめとするアナキストとその周辺にいた人々の、拠って立つところの最も本質的な精神が込められていたともいえるのだ。

ノンフィクションを書かせる最も素朴で強い力

では、そのような拒絶の手紙を受け取った松下竜一はどうしたらよかったのか。書くことを断念すべきだったのか。それもひとつの選択肢としてあっただろう。だが、松下竜一はそうしなかった。その言葉の重さを十分に理解した上で、自らの作品が粉砕されることを覚悟しつつ、最も重要な場所で「引用する」という方法を選んだのだ。

もし、私だったら? 私も書くことを断念はしなかったろう。なぜか。それは、まさに、「ここにこのような人がいた」からである。そのことに心を動かされたからである。


人にノンフィクションを書かせる最も素朴で、最も強い力は、ここにこんな人がいた、ここにこんな出来事があった、という驚きである。たとえそれが、その人の生涯に添えられた一本の接線に過ぎなくとも、あるいは、その出来事に対するひとつの注釈に過ぎないとしても、その驚きを表現したいという願望の前にはなにほどのものでもないのだ。

その意味では、「後記」の《ペンを擱いたいま、けっきょく『獄窓から』の解説に終始したのではないかという気後れを拭えない》という謙遜は無用のものと思える。「解説」になることを喜んで引き受けるところにこそ、「ここにこのような人がいた」という心の昂ぶりを作品化することは許されるのだから。

しかし、それでもなお、「緘黙」の前に立ちすくむ「松下竜一」を、だから「私」を思わないわけにはいかない。

(2000年4月)

(沢木 耕太郎 : 作家)