黒田日銀の轍を踏みつつある植田日銀(撮影:今井康一)

日銀は10月31日に四半期に一度の経済見通し(展望レポート)を公表した。

「わが国の景気は、緩やかに回復している」との見通しを維持し、賃金については「上昇圧力は強まっていくと考えられる。このことは、コスト面では人件費の上昇圧力をもたらすとともに、家計の購買力の増加に寄与するとみられる」とし、賃金と物価がともに上昇する好循環に向かっていくという見通しを示した。

またもや「展望」ならぬ「願望レポート」に

もっとも、7〜9月期の実質GDP成長率はマイナスとなる見込みで、内需はそれほど順調に回復していない。

「期待に働きかける」という金融政策を重視した黒田東彦前総裁時代には、展望レポートではインフレ見通しが常に右肩上がりとなり、「願望レポート」と揶揄されたこともあった。

筆者は現在の植田日銀もやや同様の面があると感じている。今回のコラムでは、個人消費と労働市場について日銀にとって不都合なデータを紹介する。日銀は好循環が定着することで金融政策の正常化を進めようとしているが、そう簡単ではなさそうである。

日銀は個人消費について「物価上昇の影響を受けつつも、緩やかなペースで着実に増加している」と判断している。しかし、足元の個人消費の動向は参照するデータによって見え方が大きく異なっていることが、エコノミストの間で注目されている。

具体的には、総務省が作成する全国の約8000〜9000世帯をサンプル(標本)として無作為抽出した調査である「家計調査」と、日銀が作成する小売店などのデータを独自に集計した消費活動指数の乖離が目立っている。


日銀は家計調査について「サンプルに偏りがある可能性」や「月々の振れも大きく、個人消費の実勢を把握しにくい」ことを理由に、あまり重視していない。

2つのデータ、どちらに問題があるのか

植田和男総裁も10月の決定会合後の記者会見で「家計調査はちょっと弱いが、その他の消費に関するデータは、おおむね緩やかに改善を続けていることを示唆している。いくつかの消費マインド調査もそんなに悪くないと判断している」と説明した。

しかし、今回に限っては、家計調査が示す消費の弱さを「サンプルの問題」と切り捨てるべきではないと筆者を含むエコノミストは指摘している。むしろ、今回は日銀の消費活動指数のほうが問題がある可能性がある。

具体的には、小売店などの統計には日本人の消費だけでなく外国人観光客のインバウンド消費も含まれてしまう。

むろん、日銀もこれは承知していて、「旅行収支調整済」として「旅行収支=外国人のインバウンド消費−日本人の海外での消費」を差し引いた系列が作成されている。

インバウンド消費の算出には「国際収支統計」の「訪日外客数」と「訪日外国人消費動向調査」が用いられる。ここで問題となるのが、家計調査と同様にサンプル調査である「訪日外国人消費動向調査」の精度である。

神奈川大学の飯塚信夫教授は2019年時点の論考で「訪日外国人の『買い物代』が正確に把握されていない可能性」を指摘した。

インバウンド消費が過小、日本人の消費が過大?

「訪日外国人消費動向調査」は簡単に言えば、帰り際の訪日外国人に対して滞在中の消費額について調査をすることで作成される。大きな買い物については把握していると予想されるが、コンビニや自動販売機で購入したような少額の消費については補足できていない可能性は想像に難くない。

この過小推計の可能性は、インバウンド消費が安定的に推移していれば、それほど攪乱要因とならないのだが、コロナ禍が終わってインバウンド消費が急増する中では無視できない要因になりうる。

すなわち、日銀の消費活動指数が「日本人の消費 = 消費全体 − インバウンド消費」という方法で作成されているとざっくり考えると、インバウンド消費が過小推計される場合、日本人の消費が過大推計されることになる。消費活動指数に偏った消費の判断は、楽観的すぎる可能性がある。

もう1つ、日銀にとって都合の悪い統計データがある。

日銀は日本の雇用・所得環境は「緩やかに改善している」としているが、有効求人倍率や新規求人倍率は2022年末をピークに緩やかに下落している。


むろん、日本では人手不足問題が深刻化していることは明らかであり、日銀短観(9月調査)では、全規模・全産業の雇用人員判断DI(「過剰」 - 「不足」)はマイナス33(前回調査差マイナス1ポイント)と、人手不足感が強くなったことが示された。

企業のアンケート調査である雇用人員判断DIと有効求人倍率の乖離は大きくなっている。


簡単に言えば、人手は足りなくて困っているのだが求人は出さない、という状況である。

人手不足だが人を増やせない

厚労省の担当者によると、製造業や建設業などから、人手不足だが物価高の影響で求人を出すには至らなかったとの声が聞かれたという(ロイター)。物価高による収益環境の悪化が、固定費を増加させる追加雇用の障害となっている模様である。

ほかにも、コロナ後のペントアップ(繰り越し)需要は一時的であり、雇用を増やさずに対応しようという面もあるだろう。

いずれにせよ、需給の面からは労働市場は回復しているとはいえない。

なお、日銀は展望レポートで「有効求人倍率は、高水準ながら、このところいくぶん弱めの動きとなっている。これには、経済活動の正常化に伴う求職者数の増加も影響している」としているが、9月の新規求人数は前年同月比マイナス3.4%である。好循環に入る前に、企業は慎重化している。

岸田文雄首相は10月23日、臨時国会の所信表明演説で「30年ぶりとなる日本経済の変化の兆しを後戻りさせない」と述べた。確かに、外形的には久しぶりの高インフレや高賃金上昇率となっている。

しかし、ここまで指摘してきたように、前向きな好循環は生じていない。

実質賃金の目減りによって消費マインドも悪化する中、好循環の発生をどれだけ待ち続けることができるのか。再び日銀の展望レポートは願望レポートと呼ばれるのか、今後の記述の変化に注目が必要である。

(末廣 徹 : 大和証券 チーフエコノミスト)