関ヶ原古戦場決戦地(写真: ましゃいこ / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第46回は、関ヶ原の戦いの前に82人の外様大名に手紙を出すほど、家康が書状を重要視していた理由を解説する。

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書状を重視して書きまくった

原書がなく、写ししかないために、本当に本人が書いたものなのかどうか。研究者の間でも見解が分かれているという。上杉景勝の重臣である直江兼続が、徳川家康を辛辣に批判した書状、いわゆる「直江状」のことだ。

正確には、家康に宛てられたものではなく、西笑承兌(さいしょうじょうたい)という僧侶に宛てて書かれたものだ。

発端は、上杉景勝が家康の求めをスルーし続けて、大坂になかなかやってこないことにあった。景勝には「武器を集めて謀反をたくらんでいる」という疑いもあり、家康としては、このままにしておくわけにはいかない。

かつて豊臣秀吉のもとでも外交役を務めた西笑承兌が、家康の意を受けて、上杉側にアプローチする。その書状に対する上杉側の返事が、兼続によって書かれた「直江状」である。

もっとも西笑承兌に宛てられたといっても、「直江状」の本文を読めば、家康本人が読むのを承知のうえで書かれていることがわかる。家康への挑戦状といってもよいだろう。

『徳川実紀』では、次のように書かれている。

「兌長老(西笑承兌)を通じて、直江のもとへ手紙を出して、心情をうかがってみたが、兼続の返事は傲慢無礼きわまりなく、家康は、すぐに自ら征伐にいかなければ、と言った」

家康が怒り心頭に発したのは、直江による「噂の出所を調べもせず、いきなり詰問とは」といった挑発的な書状の内容に違いないが、家康自身が「書状」というものを大事にしていたことも、感情を逆なでした理由の1つかもしれない。

家康は「関ヶ原の戦い」を迎える前の50日間にわたって、実に82名もの外様大名に手紙を出しており、その数は確認されているだけでも、約160通にもおよぶ。家康がいかに書状を重要視していたかがわかるだろう。

あえてぼかした書状を書くことの意味

家康は会津征伐のために、大軍を率いて江戸を出立。だが、道中で石田三成が決起したことを知って、軍を反転させる。7月25日に小山(栃木県小山市)に諸将を集めて、「小山評定」と呼ばれる軍評定が開かれることとなった。

ここで家康は「自分に味方するか、三成に味方するか。各自の判断に任せる」と伝えたといわれている。というのも、諸将の中には、大坂で妻子が人質になっている者もいる。それぞれが抱える状況が異なることを配慮したうえでの、家康の言葉だった。

かつて、マケドニアのアレクサンドロス大王が、東へ遠征するにあたって、精鋭の兵たちに放った名言を思い出させるではないか。

「去る者は去れ。たとえ少数でも、その意思のある者とともに、私は遠征する」

そんな家康の「三成を討つ」という覚悟にいち早く応えたのが、豊臣恩顧の筆頭的存在である、福島正則だ。

正則は「妻子の命をなげうってでも、家康に与する」と力強く宣言。この言葉を受けて、諸将たちは家康支持に回ることになった。正則が小山評定の流れを作ったといってよいだろう。

家康にとっては、願ったりかなったりの展開となったが、何も勢いだけで乗り切ったわけではない。小山評定を迎えるにあたって、福島正則こそキーマンになると読んだ家康は、こんな書状を事前に出していた。

「早急に宇都宮までご出陣とのこと。ご苦労に思います。さて、上方で石田治部少輔三成が決起したとの雑説が伝わってきたので、将兵についてはその地でお留めになって、御自身はここ小山までお越しいただきたいのだが、いかがだろうか」

小山に呼ぶからには理由が必要だ。ここから、家康ならではの根回しの文言が来るかと思いきや、さにあらず。続く文言はずいぶんとあっさりしている。

「詳しいことは黒田甲斐守長政・徳永法印寿昌が申し上げるでありましょうから、詳しくはここで記すことはできません。謹んで申し上げます」

慎重な家康はここで天下取りの野心があると思われれば、小山まで来てもらえない可能性があると考えたに違いない。重要なことがあると匂わせたうえで、考える時間を与えている。正則はじっくり考えた結果、小山評定では、家康支持をすぐに打ち出すことになった。

一方で、何気なく軍勢を現地に置かせているあたりも、正則に変な気を起こさせないためだろう。このあたりも実に細かいのが、家康流の書状である。

伊達政宗にさりげなくアピールしたかったこと

戦国の世において、書状で相手の心を動かすためには「自分が有利な立場にいる」ということを相手に伝える必要がある。しかし、あからさまにやってしまうと、反発を招きやすい。そのあたりの些事も、家康は十分に心得ていた。

上記したように、家康は会津の上杉征伐のために下野国小山まで行っていたところで、三成の挙兵を知り、江戸に引き返している。その際に、家康は息子の秀忠を小山において、奥州の大名たちには「上杉に備えるように」と釘を刺した。そのうちの1人が、伊達政宗である。


伊達政宗像(写真: えりんこ / PIXTA)

江戸に到着すると、家康は大崎少将こと伊達政宗に対して、次のような手紙を書いた。

「上方を打ち捨てて、会津討伐を遂行する覚悟だったが、福島正則や池田輝政らが〈上方の仕置を命じないと困る〉と再三申し入れてきたので、とりあえず江戸に戻った」

家康がいきなり江戸に引き上げたことに対して、政宗が不審に思うことのないように、経緯を説明している。着目したいのは、福島正則や池田輝政らの名前を、ごく自然に出していることだ。

三成と戦うにあたって「豊臣恩顧の大名も自分に味方している」ということは、非常に重要なメッセージとなる。政宗に対して、「私についたほうがよいぞ」と暗に示すのに、これ以上の方法はないだろう。

約1カ月も江戸城にこもったワケ

8月5日には江戸に戻った家康だったが、9月1日の出陣まで、実に約1カ月も江戸城にとどまっている。

その一方で、3万の徳川主力軍は息子の秀忠に任せて、上方へと向かわせた。豊臣武将たちが裏切ることなく合流して、ともに三成と戦うかどうかを、江戸で様子を見ていたのだろう。家康としては、小山評定で決まったとおりに、武将たちが動いてくれるかどうかを確認したかったのだと思われる。

そうして豊臣恩顧の大名たちの本心を見極めながら、家康はこの間に、全国の諸大名に書状を書いて送っている。作成自体は右筆が行っているので、頭のなかで考えた文面のニュアンスを細かく伝えながら、書状を完成させていったのだろう。

言うまでもなく、書状はただ出せばいいというものではない。現代社会においても、ほかの人との使いまわしであろうと思われる文面には、何ら心は動かされないだろう。

その点、家康が出した書状は、文面から相手の立場に立った心遣いが感じられる。特に細川忠興、加藤清正などの豊臣恩顧の大名には、「もし勝利したときには恩賞として、この国を与えよう」といった見返りが明示されていた。

相手が知りたいことや、不安に思うだろうことを、先取りして伝えておけば「あなたの状況はよく理解していますよ」というメッセージにもなり、受け取るほうからすれば、何とも頼もしい。そんな細やかさがあったからこそ、家康は「関ヶ原の戦い」において、勝利をつかむことができたのである。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
桑田忠親『家康の手紙』 (文春文庫)
吉本健二『戦国武将からの手紙 乱世を生きた男たちの素顔』 (学研M文庫)

(真山 知幸 : 著述家)