2024年の大河ドラマは「紫式部」が主人公。宮中で働きながら、文才と鋭い感性を活かして『源氏物語』を書き上げていく姿を描くということで、男性主人公が続いた昨今の流れからすると新鮮な作品になりそうです。しかし、いったい稀代の大作家「紫式部」とはどんな人だったのでしょうか?

ここでは、今年11月に出版される「紫式部は今日も憂鬱 令和言葉で読む『紫式部日記』」(文筆家・堀越英美訳、京都先端科学大学教授・山本淳子監修、扶桑社)より、紫式部と清少納言の関係について、抜粋して紹介します。

日記から読み解く「紫式部」と「清少納言」の関係

『紫式部日記』の令和OL風現代語訳に挑戦した文筆家の堀越英美さんは、「紫式部は職場では嫌われないように天然ボケを装っていたようですが、他人への評価はかなり辛口。自身の日記では、清少納言のことを『したり顔がすごい』だとか、『おしゃれ気取りの人にありがちなんだけど、殺風景でどうってことない状況でもエモいと感動し、すてきなところを見逃すまいとしているから、自然と嘘っぽい上っ面だけの人になっていくんだよね』と手厳しく非難しています」と語ります。

引っ込み思案な紫式部が、そこまで酷評したのはなぜだったのでしょうか。

●紫式部はなぜ日記で清少納言をディスっているのか?

清少納言が定子に仕え始めたのは993年、定子が亡くなって宮仕えを辞めたのは1000年なので、1005年から彰子に仕え始めた紫式部は清少納言とは接点がありません。彰子が中宮になった翌年に定子が亡くなっているから、彰子と定子が対抗意識を燃やしていたということもなさそうです。

それなのに、なぜ紫式部はこんなに清少納言をディスっているのでしょう。さまざまな説があります。

<1:『枕草子』で清少納言が紫式部の夫の奇抜ファッションをネタにしたから説>

『枕草子』の「第百十四段あはれなるもの」で、紫式部の亡夫・藤原宣孝の「御嶽詣で」エピソードがネタにされています。

御嶽詣で(金峰山に参拝)をする際は、高級貴族でも粗末な身なりをするのがしきたりでした。ですが、宣孝は「あぢきなきことなり。ただ清き衣を着て詣でむに、なでふ事かあらむ。必ず、よも、あやしうて詣でよと、御嶽さらにのたまはじ」(そんなのつまんね。清潔な服ならなんでもよくない? 「絶対貧乏くさい身なりで来いよ」とか神様がまさか言うわけないし)と言って紫と黄色と白のド派手ファッションでお参りしたのです。

その後、彼は職を得て本人の言うとおりご利益があったというオチなので悪口というほどではありませんが、「人の夫をおもしろコンテンツにするんじゃねえ!」とムカついていてもおかしくありませんね。

<2:『枕草子』に定子のキラキラ部分しか描かれていないことに納得していない説>

彰子の出産前、道長が物の怪におびえていたのを目の当たりにしていた紫式部は、道長が亡き定子に恨まれてもおかしくないほどの圧力をかけていたのを知っていたはずです。

それなのに『枕草子』に書かれているのは、後宮の明るく楽しかった思い出ばかり。定子の苦境について触れず、すてきなことしか書かないのは、上っ面ばかりで物書きとして不誠実だと思っていたのかもしれません。

<3:彰子の後宮が定子の後宮と比べられてつまらないと貴族たちに言われていたので対抗意識を燃やしていた説>

定子が存命の頃、明るくて機転の利く清少納言は男性貴族に大人気だったようです。軽口を言い合える男友達がたくさんいた様子が、『枕草子』からもうかがえます。嫌われないように「一」も書けないアホのふりをしていた紫式部からすれば、知性をひけらかしても嫌われない清少納言が「ずるい」存在に映っていた可能性があります。

<4:シンプルに清少納言のアンチ説>

イケメン貴族たちに言い寄られた話を役職名つきで書き、いろいろな人をコケにしていた清少納言。現代で言えば、SNSでキラキラ生活とプレゼントのブランド品をチラ見せしながら下々を煽るインフルエンサーのようなものでしょうか。アンチがつくのも仕方がないのかもしれません。