ついにナイキを超えた…マラソン驚愕世界新の選手が履いた"1回使い捨て"で1足8万円超「新厚底」の正体
9月24日のベルリンマラソンで驚異的な記録が誕生した。連覇を目指したティギスト・アセファ(エチオピア)が2時間11分53秒でフィニッシュ。2019年のシカゴでブリジット・コスゲイ(ケニア)が樹立した2時間14分04秒の世界記録を2分以上も塗り替えて、一気に2時間11分台に突入したのだ。
アセファは中間点を1時間6分20秒で通過すると、後半はさらに速かった。30〜35kmは15分29秒という信じられないラップを刻み、ラストの2.195kmも6分40秒で突っ走る。後半のハーフを1時間5分33秒で走破したのだ。
■2時間11分53秒の衝撃
女子選手の2時間11分53秒という記録はちょっと信じられないものがある。
ハーフマラソンの日本歴代1、2位のタイムは新谷仁美の1時間6分38秒と福士加代子の1時間7分26秒。ふたりの記録を足しても2時間14分04秒でアセファの記録に2分11秒も及ばない。
なおベルリンマラソンと同時期に国内では全日本実業団対抗選手権があり、女子5000mの日本人トップは15分33秒69だった。
もし日本人がアセファに勝つとしたら新谷が16km、ブダペスト世界陸上10000m7位の廣中璃梨佳(日本郵政グループ)が14km、同5000m8位の田中希実(New Balance)が12.195kmを担当しないと対応できないほどのレベルなのだ。
アセファは1996年12月3日生まれの26歳で、2016年のリオ五輪に800mで出場した元中距離選手。トラックでは400mで54秒05(12年)、800mで1分59秒24(14年)の自己ベストを持っている。2018年からロードレースに参戦すると、徐々に距離を伸ばしていく。フルマラソン挑戦は昨年からで、キャリア2戦目となった昨年のベルリンで当時世界歴代3位の2時間15分37秒で優勝。そして同3戦目のベルリンで“大記録”を誕生させた。
以前はトラックを主戦場としていた彼女のキャリアを考えると、フルマラソンで成功するのは簡単なことではない。しかも、喫驚するほどのワールドレコード。不可能を可能にしたのは、“魔法のシューズ”の存在があった。彼女の足元にはアディダスの新モデルが輝いていたのだ。
■アディダスの新モデルは超軽量厚底
近年、世界のマラソンはタイムが急騰している。その最大の理由はシューズが大幅に進化していることだ。
ナイキが2017年夏に一般発売したカーボンプレート搭載の厚底シューズが世界を席巻。メジャー大会の表彰台を次々に占拠した。
2018年のベルリンではエリウド・キプチョゲ(ケニア)が従来の記録を1分18秒も更新する2時間1分39秒の世界記録を樹立。2019年のシカゴではブリジット・コスゲイ(ケニア)が女子世界記録を1分21秒も塗り替える2時間14分04秒をマークした。キプチョゲは昨年のベルリンで世界記録を2時間1分09秒まで短縮している。
“衝撃的な速さ”もあり、世界陸連がシューズに関するルールを改定。「靴底の厚さは40mmまで」に制限された。ナイキ厚底シューズの大成功で、他メーカーも同モデルを研究開発。近年はカーボンプレートを搭載した厚底タイプが続々と登場している。
そのなかでアディダスは足の中足骨をヒントに調整された5本のカーボンスティックをソールに組み込んだADIZERO ADIOS PRO(アディゼロ アディオス プロ)という厚底モデルを発売。ナイキと互角に近い勝負を繰り広げていた。
そして今年のベルリンでアセファが着用していた新モデルは、アディダスが「新時代レーシングシューズ」と謳うだけのインパクトがあった。
モデル名は、ADIZERO ADIOS PRO EVO 1(アディゼロ アディオス プロ エヴォ 1、以下エボォ1)。その最大の特徴は「軽さ」にある。
ADIZERO ADIOS PRO 3をベースにしたモデルで、約40%の軽量化に成功。片足、約138g(27cm)しかないのだ。これはナイキの最新レーシングモデルであるヴェイパーフライ 3の約187g(27cm)と比べて約49g軽い。
シューズの性能が同じなら、当然、軽い方が有利になる。
コロラド大学の論文(2016年)によると、シューズが片足10g軽くなると0.078%速くなるという。単純計算では、シューズが片足50g軽くなると、2時間12分00秒のランナーなら30秒ほど速く走れるのだ。
ナイキは「厚さは速さだ」というキャッチフレーズのもと、ミッドソールを厚くすることで、推進力に変換するモデル設計を確立した。しかし、靴底の厚さが制限されたことで、業界全体が「軽量化」へシフト。軽さの面ではアディダスが一歩リードしたといえるだろう。
なお、エボォ 1は9月25日よりアディダスのアプリで限定抽選販売を開始されたのだが、その価格(税込)にも驚かされた。ズバリ、8万2500円。厚底レーシングシューズの相場は3万円前後(ADIZERO ADIOS PRO 3は2万6400円で、ナイキ ヴェイパーフライ 3は3万5750円)のため、2.5倍以上もする(ただしプロトタイプの発売なので今後は価格が下がる可能性はある)。
しかも、エボォ1は標準的なマラソン距離レース1回分(事前ウォームアップを含む)の着用を目安に設計されているという。つまり、1回使い捨て。市民ランナーにとっては贅沢品だが、勝負の世界に身を置くランナーにとっては喉から手が出るほどゲットしたいシューズになるだろう。なにせ世界記録を一気に2分も縮めたのだから。
■日本人女子が遅れているワケ
アセファが2時間11分53秒で快走した今年のベルリンマラソン。日本人にとっては、失望感を抱くレースになった。
今回は、女子マラソンで日本歴代2位の2時間19分24秒を持つ新谷仁美(積水化学)が出場。新谷は10月15日に行われるパリ五輪代表選考会のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)の出場を辞退して、12秒差に迫っていた日本記録の更新を目指した。しかし、2時間23分08秒の11位に終わったからだ。
しかも、新谷はアセファと同じくアディダスを履いている選手。同じレースで3km以上も引き離された。
プロ意識の高い新谷は自身のSNSで、「結果としては程遠いものになり、恥ずかしさと悔しさで昨日は部屋とお風呂の中で泣き叫びました。まだ完全には切り替えることができていませんが、マラソンの日本記録更新という目標を諦めたくないので再度挑戦したいと思っています」と日本記録の再挑戦を誓ったが、世界との差は明確だ。
そもそも日本記録は野口みずきが2005年のベルリンでマークした2時間19分12秒。シューズが進化しているのに、18年も破られていない。
日本の女子マラソンは2000年代前半、間違いなく世界のトップレベルにいた。
高橋尚子が2000年のシドニー五輪で金メダルを獲得して、翌年のベルリンで2時間19分46秒の世界記録を樹立。渋井陽子が2004年のベルリンで2時間19分41秒の日本記録を打ち立てると、翌年のベルリンで野口が塗り替えた。
野口、渋井、高橋の記録はカーボン厚底シューズが一般発売される前年の2016年まで世界歴代ランキングで15位以内につけていた。しかし、厚底シューズを履く選手たちに次々と記録を抜かれて、現在(2023年9月29日)は野口の2時間19分12秒ですら世界歴代47位に転落している。
日本の女子マラソンはなぜ低迷しているのか。
硬質のカーボンプレートが搭載されている厚底シューズは筋力のない選手が履きこなすのは難しい。日本の女子選手はすでにグローバルスタンダードになっている“厚底対策”に遅れているのが理由のひとつになるだろう。
まだまだ進化を続けるランニングシューズ。アディダスの新モデルが次なる歴史を作るのか。それともナイキが次世代モデルで巻き返すのか。はたまた新たな風が吹き込むのか。
いずれにしても、そろそろ日本人女子ランナーの大記録を期待せずにはいられない。
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酒井 政人(さかい・まさと)
スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)