ココ鉄道だったの!? 東京の住宅街の廃線から怪しいカーブ 実は「通勤電車化」構想まであった!
東京都北区王子の住宅街に残る貨物線の廃線は、ファンのあいだで比較的有名ですが、実はそこから分岐するもっと長い貨物線がありました。今や痕跡もほとんどなくなっていますが、一時期は旅客化構想が打ち出されたこともあったそうです。
「北王子線」にはその先があった
東京都北区王子の住宅街には、いまもはっきりと線路敷が残る鉄道の“廃線”が存在します。JR王子駅の北側から分岐し、かつての製紙会社の倉庫内に通じていた「北王子線」です。2023年現在は線路の撤去が少しずつ進められ、倉庫も大きなマンションに生まれ変わっています。
2014(平成26)年に廃止された北王子線は、東京に残るわかりやすい廃線としてファンのあいだでも比較的知られていますが、かつてはその途中から、もっと長い貨物線が延びていました。
倉庫跡を再開発した大規模マンションへ通じる北王子線。まだレールがあった2019年(乗りものニュース編集部撮影)。
北王子線は途中で、王子四丁目公園という小さなブーメラン型の敷地の公園に隣接しますが、その公園の反対側の道路は弧を描くようにカーブしています。この道路が、北王子線から分岐していた貨物線、通称「須賀線」の跡です。公園を過ぎると、その道路は比較的幅の広い2車線になり、北本通り(国道122号)と交わる王子四丁目交差点へ通じています。
北本通りも、かつて赤羽行きの都電が通っていた広い道路ですが、以前はこの交差点を貨物列車が横断していたとは、にわかに信じがたいほど、それらしい痕跡は残っていません。
貨物線跡の道路「紀州通り」はそのままサミット王子店、紀州神社、トンボ鉛筆本社の前を通って、隅田川を渡ります。貨物線は、その手前の豊島五丁目団地まで通じていました。
豊島五丁目団地は、もともと日産化学工業の工場です。サミット王子店のあたりは戦前に陸軍の火薬工場もあり、その輸送にも使われていました。かつての王子・豊島地区の工業都市としての側面を支えた路線であったといえそうですが、晩年は主に小型のタンク車による液体輸送が行われ、1971(昭和46)年に廃止されています。
王子駅から約2.5kmと、北王子線よりもずっと長いこの貨物線。実は一時、「旅客化構想」が打ち出されたことがあったそうです。
「鶴見線みたいなもの」? その後どうなったのか
北区役所が打ち出したという旅客化構想は、1954(昭和29)年の1月に読売、毎日、朝日の3紙が相次いで報じていると、北区中央図書館発行の「北区こぼれ話」のひとつに書かれています。
その目的は、王子から豊島へ向かうバスや、都電の混雑を緩和するため。貨物列車が1日4往復する程度だった須賀線を電化し、王子四丁目と豊島六丁目または七丁目の2駅を設け、4両編成の電車を運行。朝夕15分間隔、日中30分間隔と、具体的なラインまで考えられていたようです。
「北区こぼれ話」では、「工場街への引き込み線による通勤という点では、京浜工業地帯を走る鶴見線を小さくしたようなイメージでしょうか」と記されています。
かつて貨物線が通じていた工場跡にできた豊島五丁目団地。都バスの運行拠点でもある(乗りものニュース編集部撮影)。
もし実現していたら、後に建設された豊島五丁目団地や王子五丁目団地からの通勤通学客を運んだかもしれません。後者は目の前に東京メトロ南北線の王子神谷駅ができましたが、前者の豊島五丁目団地と王子駅のあいだは、今でもバス本数も利用者も多い都営バス有数の“ドル箱”区間です。
しかし、この計画がどの程度進み、消えていったかは明らかでないといいます。記事を執筆した北区立中央図書館「北区の部屋」の黒川徳男さんは、「昔は行政の手法が違って、できるかできないかは置いておいて、行政がこうした大胆な構想を打ち出すことがありました。そうしたもののひとつでしょう」と話します。