本格的な都市交通モノレールとして登場した「東京モノレール」。今や日本を代表する跨座式モノレールはなぜここに作られることになったのでしょうか。実はもっと壮大な計画もありました。

日本初の本格的な都市モノレールの誕生

 日本にはモノレールが8事業者・総延長114.4kmにわたり整備され、実は世界一のモノレール大国といえます。その中で特に利用者が多いのが、東京都心と羽田空港をむすぶ「東京モノレール」です。実はこの路線、1964(昭和39)年に開業するまで、「壮大な計画」とともに、数々のドラマが裏で繰り広げられていました。


1964に開業した東京モノレール(画像:東京モノレール)。

 モノレールの歴史は長く、最古の営業路線は1901(明治34)年、ドイツ西部のブッパータールで開業した懸垂式モノレール「ブッパータール空中鉄道」までさかのぼります。これに触発され日本でも1914(大正3)年、高架単軌道という会社がブッパータール空中鉄道と同じ「オイゲン・ランゲン式」で上野〜浅草間を結ぶモノレールを出願。東京都は1957(昭和32)年、この「最古の様式」で日本初のモノレール「上野動物園モノレール」を開業しています。

 モノレールが本格的に普及するのは1950年代、コンクリート製の桁上をゴムタイヤで走行する跨座式モノレール「アルヴェーグ式」が西ドイツで開発されてからのことです。オイゲン・ランゲン式が鉄道のレールを用いていたのに対して、桁は安価で建設でき、ゴムタイヤは急勾配に強く、騒音が少ない――そのためアルヴェーグ式のモノレールは、当時の路面電車に代わる次世代都市交通機関として注目されたのです。

 アルヴェーグとは発明したスウェーデンの実業家アクセル・レナルト・ヴェナー・グレンの頭文字を取ったものです。ヴェナー・グレンは大正時代、ヨットで世界一周をした際に日本を訪れたことがあり、宿泊した帝国ホテルを気に入って日本人ボーイを連れて帰ったほど。そんな縁からヴェナー・グレンは戦後、帝国ホテルの社長・犬丸徹三に手紙を送り、モノレールを売り込みます。

 犬丸は日産自動車や日立製作所を傘下に収めていた「日産コンツェルン」創始者の鮎川義介に取り次ぎ、日立がアルヴェーグ式のライセンスを取得してモノレール事業に参入することになったのです。

 犬丸はホテル経営者ならではの問題意識を持っていました。1950年代に入ると欧米航空会社が相次いで羽田空港に就航し、外国人入国者が増えつつありました。しかし道路渋滞がひどく、羽田空港から新橋の帝国ホテルまでの約13kmに1時間半〜2時間がかかる有様。パンフレットに「40分」と書いてあるのは嘘だ、と怒りの声も上がったそうです。

 さらに日本人の航空機利用も今後増えていくこと、東京オリンピックの開催が決まったことなど、羽田空港の利用者はさらに増えることが見込まれたことから、モノレールの導入先は自然と「新橋〜羽田空港間の新路線」と決まりました。

「モノレール計画」すでに先を越されていたが…

 ところがここで問題が発生します。同区間は既に、1959(昭和34)年創立の大和観光という会社が免許を申請済だったのです。同社の計画について、東京モノレールの社史に「単なるペーパープランの域を出ないものであった」とあるように、利権狙いの免許申請だったと見られることも多いですが、当時の経済誌『財界』秋季特大号(1960年10月)を見ると、必ずしもそうではなかったようです。

 モノレール構想を立案したのが大和観光の代表取締役・鈴木彌一郎です。彼もまた、羽田空港に友人の見送りに行った際に道路渋滞で間に合わなかった経験から、空港輸送の改善を思いつきました。

 鈴木は鉄道事業の経験がなく技術者でもありませんでしたが、上野懸垂線(上野動物園モノレール)に着想を得て出願書類を作り上げ、1957(昭和32)年夏に懸垂式モノレールとして免許申請を提出します。

 もっとも経験不足から書類には不備が多く、二度三度と修正し、ようやく2年後の1959(昭和34)年秋に受理されました。対応した陸運局鉄道部長は上野懸垂線の監督に当たっていた人物であり、親身に助言、指導したことも大きな力になりました。

 大和観光の計画は、新橋から羽田空港まで海面上をほぼ直線で結ぶルートで、途中、平和島ヘルスセンターなど4か所に停車場を設け、途中駅を通過する急行と各駅停車を運行するというものでした。そして将来的には羽田空港から横浜、新橋から京葉工業地帯まで延伸。さらに横浜から横須賀、江ノ島、小田原を経て箱根、熱海に結ぶ壮大な計画でした。

 鮎川らのグループは大和観光と競願になるのを避けるため、同社に合流することにします。もし鈴木の計画がまったく実現性のないものであれば、競願になっても問題ないはずですが、合同という選択肢を取ったのは、それなりに説得力があったからかもしれません。

 前掲『財界』によれば、鈴木を知っていた鮎川のブレーン佐々木芳郎の仲介で合同が決まり、元日本楽器製造(ヤマハ)社長で元参議院議員の川上嘉市、元鉄道大臣八田嘉明などの有力者が経営に参加。1960(昭和35)年6月に「日本高架電鉄」に改称し、12月に「立役者」である犬丸徹三が社長に就任します。

 並行して日立は同年8月にアルヴェーグ社と技術提携を締結。翌1961(昭和36)年1月に大和観光の申請を取り下げた後、跨座式として改めて申請し、同年12月に免許されました。

「壮大な夢」新たにぶち上げたものの…

 続いて日本高架電鉄は路線網の拡大に乗り出します。1962(昭和37)年3月に蒲田駅前商店振興会の誘致に応えて蒲田〜羽田空港間を申請。9月に羽田空港〜横浜間の免許を申請し「羽田空港を軸に新橋、蒲田、横浜の三方面へ分岐する」という路線ネットワークを目指しました。


都心と羽田空港を結ぶ東京モノレール(画像:photolibrary)。

 同社はさらに横浜からの南下も計画していました。犬丸はインタビュー記事で、かつての大和観光のように「熱海方面への延伸構想」を披露しており、実際に同年5月に同社や日立の出資で「熱海モノレール」を設立し、熱海側の受け口となる熱海駅前〜ロープウェイ前間の免許を申請しています(1963年に免許されるも断念)。

 ここで思い出されるのは大和観光で鈴木彌一郎が抱いていた壮大な野望です。実は彼は鮎川らと合同し、日本高架電鉄に改称された後も副社長として留任しており、同社はこの頃、彼が大和観光で構想した熱海延伸、千葉工業地域延伸を踏襲する将来構想を公表しています。

 しかし鈴木は同年末に副社長を退任し追われるように会社を去ります。その後は上述のように熱海方面の延伸構想が語られることはあれども、千葉方面は触れられなくなっていることから見ても、鈴木の存在が日本高架電鉄の計画に一定の影響を与えていたことは確かでしょう。

 日本高架電鉄は1964(昭和39)年5月に東京モノレールに改称、現在に至ります。起点駅を新橋から浜松町へ変更するなど紆余曲折を経ながらも、急ピッチで工事を進め、東京オリンピックの1か月前の1964年9月17日に開業。浜松町〜羽田空港間を15分で結び、オリンピック輸送を支えました。

 それまで米ディズニーリゾートラインなど「アトラクション、観光用のモノレール」は存在しましたが、東京モノレールは世界初の本格的な「都市交通機関としてのモノレール」でした。

 しかしオリンピック後の経営は厳しく、東京モノレールはすぐに経営危機に陥ります。壮大な延伸計画どころの話ではなくなり、他社のモノレール計画もしぼんでいきました。日本でモノレールが本格的に普及するのは1970年代、道路の使用や建設費補助制度が整理された「都市モノレール」が確立してからのことです。