旧日本海軍は、1872〜1945年の73年間続きました。その中で、最も長く活躍した軍艦は日露戦争で活躍した、戦艦・装甲巡洋艦たちでしょう。一番長く存在しているのは、記念艦となった戦艦「三笠」ですが、最も長く活動した軍艦は何でしょうか。

日清、日露、WW1、WW2のすべてを経験したベテラン艦

 旧日本海軍は、1872(明治5)年に創設されてから1945(昭和20)年に解散するまで73年間続きました。最も長く存在しているのは、横須賀で記念艦となった戦艦「三笠」ですが、では一番長く活動し続けたのは、どんな船でしょうか。

 日本海軍史上、最も長期にわたって在籍・活動していた軍艦は、1887(明治20)年11月16日に就役した、巡洋艦「大和(初代)」だと思われます。竣工時の要目は排水量1476トン、主要武装として17cm砲2門、12cm砲5門、魚雷発射管2門などを搭載し、レシプロエンジン1基搭載で最大速力は11.84ノット(約21.9km/h)。また帆を備えており、帆走も可能でした。

「大和」は日清戦争に参加した後、1898(明治31)年には海防艦へ種別変更されています。この後、日露戦争にも参戦すると、1922(大正11)年以降は測量艦として、オホーツク大和堆(現在の北見大和堆)などを発見・測量しています。そして1935(昭和10)年4月1日に除籍されたので、通算47年5か月もの長きにわたって海軍に在籍・活動していました。

 なお、海軍の軍籍を離れた後も司法省(当時)へ移管され、少年刑務所の練習船として使われています。太平洋戦争も生き抜きますが、終戦直後に日本を襲った台風によって鶴見川の河口付近で沈没、1950(昭和25)年に解体されています。この司法省所属の練習船であった期間まで含めると艦歴は53年以上になります。


旧日本海軍の戦艦「富士」(画像:アメリカ海軍)。

 ただ、海軍在籍という点に絞ると、前出の巡洋艦「大和」を上回る艦歴の軍艦がありました。

 たとえば、1897(明治30)年8月17日に就役し、1945(昭和20)年11月30日に除籍された戦艦「富士」は、48年3か月ものあいだ海軍に在籍しています。しかし「富士」は、1922(大正11)年に軍艦籍から外され、1934(昭和9)年には推進器を撤去して自力航行できなくなっているため、書類上は練習艦であったとはいえ、軍艦とは言い難いでしょう。

 同じ理由で、1900(明治33)年1月26日就役の戦艦「敷島」も、無傷で太平洋戦争の終戦を迎え、1947(昭和22)年に解体されていますが、こちらも1923(大正12)年に海軍の軍艦籍から離れ、推進器も撤去されていることから同様です。

自力航行可能なまま生き続けた長寿艦は?

 戦艦ではなく、装甲巡洋艦ではどうでしょうか。こちらの艦種は戦艦「富士」や「敷島」ほど長いものはありませんが、逆に戦艦よりも扱いやすい大きさと、維持費の安さから最後まで自力航行可能な状態の艦が多いようです。

 装甲巡洋艦で最も長生きしたといえるのは「浅間」です。この艦は1899(明治32)年3月18日に就役し、1945(昭和20)年11月30日に除籍されています。通算すると46年8か月の在籍期間を誇り、その間、仁川沖海戦や日本海海戦に参加したほか、日露戦争の凱旋観艦式では明治天皇の御召艦を務めています。

 第1次世界大戦にも参加し、太平洋にあるドイツ植民地の攻略に用いられると、その後、戦艦「肥前」、装甲巡洋艦「出雲」とともに、北アメリカ西岸の哨戒作戦にも従事しています。作戦中の1914(大正3)年に、メキシコのマグダレナ湾で座礁し、日本に戻っています。

 その後、海防艦となりますが、1935(昭和10)年に広島湾で再び座礁。竜骨を損傷し、経年劣化も見られたことから、1942(昭和17)年に海軍の軍艦籍から除籍され、練習特務艦へと変更。太平洋戦争を生き延び、1947(昭和22)年に解体されています。こうして見てみると、生涯おおむね活動したと言っていいのではないでしょうか。

 ただ、筆者(安藤昌季:乗りものライター)が「生涯活躍度」の観点で「浅間」を上回るのではないかと考えるのが、姉妹艦の「常盤」です。浅間型装甲巡洋艦の2番艦として1899(明治32)年5月18日に就役し、1945(昭和20)年11月30日に除籍されているため、その在籍期間は「浅間」よりも2か月ほど短い46年6か月となります。

 艦歴の前半こそ「浅間」と同様、日露戦争や第1次世界大戦に参加しており、海防艦になるまではあまり変わりありません。しかし、1922(大正11)年に機雷敷設艦へ改造されたことで、その後半は「浅間」よりも華々しいものになっています。

太平洋戦争も第一線で戦い続けた老艦

 1927(昭和2)年、「常盤」は訓練時に搭載機雷の爆発事故を起こしたことなどから、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約では、代艦となる新たな敷設艦の建造が認められたものの、結局、海軍は代艦を造りませんでした。その結果、在外警備艦から予備艦を経て、1940(昭和15)年には現役に復帰します。

 太平洋戦争直前となる1941(昭和16)年11月より、「常盤」は南太平洋のエニウェトク環礁とビキニ環礁に機雷を敷設。大戦が始まると1942(昭和17)年にアメリカ空母機の空襲で被害を受けたものの、ギルバート諸島への増援部隊輸送や船団護衛に従事したほか、黄海、東シナ海、石垣島、宮古島、対馬海峡、宗谷海峡、津軽海峡、台湾海峡などへ機雷を敷設するべく動き回り、同型艦の「浅間」とは比べものにならないぐらい忙しく活動し続けました。


旧日本海軍の装甲巡洋艦「常盤」(画像:アメリカ海軍)。

 しかも「常盤」は大きな損傷を被ることがなかったため、終戦の年1945(昭和20)年になっても、南西諸島への緊急輸送作戦に従事するなど任務で奔走しています。なお「常盤」は最終時に主砲塔を撤去していたものの、二二号電探や一三号電探といったレーダー類、三式水中探信儀といったソナー類が装備され、当時としては最新の兵装で身を固めていたようです。

 終戦一週間前の8月9日、青森県大湊にいた「常盤」は、アメリカ空母機の攻撃で損傷。沈没せずに排水作業を続けたものの、8月15日の終戦を迎えました。

 終戦により「常盤」乗員は艦を去らねばならないため、曳船の助けを借りて座礁させ、沈没を免れます。1947(昭和22)年、「常盤」は解体されましたが、1899(明治32)年に就役した旧式艦が、第2次世界大戦終結まで第一線で活用されていたのは「常盤」のみでした。「常盤」は「永遠不変」を意味する言葉ですが、その名にふさわしい生涯と言えるのではないでしょうか。

米軍が関心抱くほど古かった現役艦も

 1900(明治33)年6月20日に就役した、装甲巡洋艦「八雲」も長期現役艦でした。日露戦争では黄海海戦、日本海海戦に参加、第1次世界大戦では青島攻略作戦に従事します。1932(昭和6)年に海防艦となりますが、少尉候補生の遠洋航海艦として、たびたび海外を訪問しています。

 太平洋戦争中の1942(昭和17)年に、一等巡洋艦に戻され、海軍兵学校生徒の練習艦任務に従事。1945(昭和20)年には、20.3cm主砲を12.7cm高角砲に換装して、対空戦闘能力を高めました。終戦時にも航行可能であったため、1945(昭和20)年10月5日に除籍されたものの、その後は特別輸送艦として、中国や台湾からの復員輸送に従事しています。この時、老朽化で機関の調子が悪く、新造時20.5ノット(約38km/h)出た速力が、9ノット(約16.7km/h)にまで低下していたそうです。

 特別輸送艦「八雲」を見たアメリカ軍は、艦首水面下に衝角を突き出した古い外観に、大きな関心を示したと伝えられています。


旧日本海軍の装甲巡洋艦「八雲」(画像:アメリカ海軍)。

 こうして老体に鞭打って日本国民のために動き続けた「八雲」は1946(昭和21)年6月26日、特別輸送艦としての任務を解かれ、翌1947(昭和22)年に解体されました。特別輸送艦の期間を含めると46年間、現役艦であり続けたことから、この艦も「常盤」に負けないほどの“勤労”艦と言えるでしょう。

 このように見てみると、旧日本海軍には意外と長生きした艦が多いように思えます。ちなみに海上自衛隊では、生涯第一線の護衛艦であり続けた「ひえい」(退役済み)が36年4か月で最長。練習艦に転籍したものまで含めると、現用の「はたかぜ」が護衛艦時代から通算で37年以上使用され続けています。

「はたかぜ」は2023年6月現在、まだ現役。とはいえ、さすがに艦歴47年5か月を超えることはなさそうです。