24歳で野球イラン代表監督になった色川氏。空港ではボールを爆弾だと間違われカルチャーショックを受けたことも【写真:球団提供】

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茨城アストロプラネッツ・色川冬馬GMインタビュー「こぼれ話」

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の開催期間中、「THE ANSWER」が連日発信している企画「ベースボールの現在地」に登場した独立リーグ茨城アストロプラネッツGMの色川冬馬氏。インタビューの中で掲載できなかった、野球イラン代表監督時代の「こぼれ話」をここで紹介する。

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 現役時代は米国のほか、プエルトリコやメキシコなどでプレーした色川氏。2013年、日本の指導者を求めていたイランに渡り、代表監督となった。

 野球人口は「500人いれば良い方」。野球場、スタジアムともに国内に1つしかなく、トップ選手の実力は日本の公立高校の球児レベルだったという。反アメリカの立場から野球を良しとしない政治家もいるほどで、細かいルールに関しては知らない国民がほとんどだった。

 カルチャーショックを受けたことも少なくないが、印象に残るのは飛行機移動での出来事。色川氏が尊敬する指導者のサイン入り野球ボールが、空港の手荷物検査で引っかかった。

「これは何だ」。爆弾が入ってるんじゃないかと怪しまれた。「僕にとって大切なもの。丁寧に扱ってくれ」と説明した瞬間、ボールを床に叩きつけられた。「いや、仮に爆弾だったら爆発するだろ……」。驚いたが、それだけ野球が知られていないことを実感した。

 就任当時はまだ24歳。若き外国人監督を良く思わない立場の人間から、引きずり降ろそうと画策されたこともある。いかにして信頼を築いていったのか。

「コミュニティに積極的に入る。イランの一般のお宅に泊まることもありましたが、そうすると気付くこともあるんです」

 食べ物一つとっても、主食やデザートにその土地ならではの考え方がある。身をもって体験することで“イラン流”の理解に繋げた。

イラン社会での受け入れは「日本の先人」のおかげ

 当時、イランの野球界は一枚岩ではなかった。最も強かった首都テヘランのチームの監督が、代表監督も兼務する状態。イラン代表=テヘラン代表と言えるほどで「その監督に気に入られることが代表選手になる道だった」。当然、反発する選手や指導者もいたが、権力に立ち向かった結果、憂き目を見ることがほとんどだったという。

「その構図ができてしまって、野球を諦めている人たちが多かった」

 色川氏が尽力したのが「本当のイラン代表」を作ること。まだ代表監督になる保証がない段階から13都市を駆け巡り、その町の“ボス”に野球の可能性を伝える。地道な活動がやがて実った。

 晴れて代表監督になった色川氏は2015年2月、16年間で国際大会1勝しかしていなかったイランを西アジアカップ準優勝に導いた。本編で紹介した通り、月収200ドル(現在で約2万7000円)の厳しい監督業で掴んだ栄誉だった。

 イランで活動する中で、日本の先人に感謝したことは数知れない。

 保守的なイラン社会で、若き日本人の自分が受け入れてもらえたのはなぜか。陰口を叩かれることもあったが、日本人と分かると相手の態度が変わった。

「僕はイラン人なんか誰も知らないかったし、彼らだって僕が何者かなんて分からなかったと思います。でも、日本人という理由だけでおもてなしを受けられる。これはどこかの大先輩が何かを彼らに残したということ。それが100年後か、何十年後か分からないですが、僕を助けてくれた。この辺りから、僕は次世代の子がもっといい待遇をしてもらえるようにと考えてやってきました」

育てたい「国家観ある国際人」とは

 今も新しいチャレンジや出会いを求める中で、必要と感じるようになったのが「教育のアップデート」だ。それにより、国家観を持った国際人を育てたい思いがある。

「日本人として世界に出ていくってことは、全ての外国人に『日本人ってこういう人たち、民族なんだ』と印象を与える。その結果が、僕らの孫やひ孫世代の世界での立ち位置になる。だから僕は、国家観を持った国際人を育てて、日本人としてのプレゼンスを上げていきたい。ただ世界に行くだけの国際人を育てたい訳じゃない。そこをどうするかというと、やっぱり教育」

 日本を離れての活動で改めて実感したのは、同じ場所にかつていた姿も名前も知らない日本人が残したものが、自分を助けてくれたということ。トライアウトプログラムで日本人選手の海外挑戦を後押しする立場にもいる色川GM。世界に散った日本人が、未来の後輩に“財産”を残し続けるサイクルを望んでいる。

■色川冬馬(いろかわ・とうま)/茨城アストロプラネッツGM

 1990年1月2日、仙台市生まれの33歳。宮城・聖和学園から仙台大に進学後、09年に米アリゾナのウィンターリーグに参加。その後もプエルトリコ、メキシコなどでプレーした。現役引退後にイラン、パキスタン、香港の代表監督を歴任。19年、独立リーグ出身者などによるトラベリングチームが米国を拠点に試合を行うトライアウトプログラム「アジアンブリーズ」を創設。20年10月に茨城アストロプラネッツのGMに就任した。現役時代のポジションは内野手。

(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)