日本人の賃金を上げるのは簡単なことではない(写真:NewStella/PIXTA)

日本の賃金は、長期にわたって横ばい、ないしは低下を続けている。1人当たりGDPも横ばいだ。また、日本企業の競争力も低下を続けている。

これらは、関連しあった現象であり、1つの指標だけが改善することはあり得ない。だから、賃金を引き上げるには、経済成長率を高める必要があり、企業の競争力を復活させる必要がある。

昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第79回。

どうやって賃金を上げるのか?

岸田文雄首相は、10月3日の所信表明演説で、構造的な賃上げに重点的に取り組むと宣言した。

では、どうやって賃上げを実現するのか?

10月4日の「新しい資本主義実現会議」では、2023年の春闘での賃上げ実現に期待を示した。

春闘への介入は、安倍内閣当時から毎年行われてきたことだ。しかし、それによって全体の賃金が上がることはなかった。

2022年の春闘賃上げ率は2.20%で、2021年(1.86%)を上回ったものの、実質賃金の対前年比は、7月まで4カ月連続でマイナスだ。

図表1には、日本の賃金の長期的な推移を示す(「毎月勤労統計調査」による「現金給与総額」、5人以上の事業所)。


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1997年までは上昇していたが、それ以後は下落に転じた。2010年頃に下落が止まったが、その後はほぼ横ばいだ。対前年伸び率で見ると、2018年に1.4%となったのを除くと1%未満であり、マイナスの伸び率の年も多い。

成長が止まったのは、賃金だけではない。以下に述べるように、日本経済のほとんどの指標について見られることだ。それは、日本経済が構造的に深刻な問題を抱えていることを示している。

それらを解決しない限り、「構造的な賃金上昇」は実現できない。以下に述べるさまざまな指標が現状のままで、賃金だけがめざましく上がるということは、あり得ない。

「構造的な賃上げを実現する」というのであれば、岸田首相は、これらの困難な課題をどう解決するかを示さなければならない。

日本企業の効率性は、世界で最下位

日本経済が深刻な病に冒されていることを明確な形で示しているのが、スイスのIMD (国際経営開発研究所)が作成する「世界競争力」のランキングだ。

6月14日に公表された2022年版では、日本の順位は、対象63カ国・地域のうちで34位だった(2021年は31位)。

アジア・太平洋地域でみても、14カ国・地域中10位で、マレーシアやタイより順位が低い。

このランキングは、「経済状況」「政府の効率性」「ビジネス効率性」、そして「インフラ」という4つの項目について評価を行っている。そのうちの「ビジネス効率性」においては、世界第51位だ。

ところで、このランキングにおける日本の順位は、昔からこのように低かったわけではない。

日本の順位の推移をみると、公表が開始された1989年から1992年までは1位であった(図表2参照)。その後も、1996年までは5位以内だった。


ところが、1997年に17位に急落。その後、20位台で推移し、2019年に30位となって以降は4年連続で30位台となってしまったのだ。

なお、IMDは、「デジタル競争力ランキング」も作成している。2021年版では、日本は、64カ国中28位と、過去最低順位を更新した。

1人当たりGDPの成長が、30年前に止まった

図表3には、日本の1人当たりGDPの推移を示す。


1990年頃まで成長を続けたが、そのあたりで頭打ちになった。それ以後は成長せず、横ばいになった。

これは、図表2で日本のランキングが低下し始めた時期とほぼ同じだ。また、図表1で賃金が下落を始めたのとも同じ頃だ。

つまり、この頃に、日本経済の構造が大きく変わったのである。

なお、1人当たりGDPが横ばいであるのに賃金が下落したのは、労働分配率が低下したからではない。

総人口はほぼ減少している(2010年から2020年までの減少率は2.13%)のに対して、就業者数は増加した(2010年から2020年までの増加率は4.3%)ために、1人当たりGDPは横ばいでも、賃金が低下したのである(つまり、分子の違いではなく、分母の違いである)。

就業者数の増加をもたらした大きな原因は、非正規労働者の増加だ。非正規労働就業者は労働時間が短いために、就業者全体として見た賃金が下落するのだ。

実際、OECDの統計で見ると、図表1に見られるのと同じように1990年代後半の賃金下落現象は見られるものの、図表1に見られるよりは穏やかな下落になっている。

これは、OECDの統計は、「フルタイム当量」という考えで労働者数をカウントしているためだ(労働時間が少ない就業者を1人未満とカウントする方式。これに関する詳しい説明は、拙著『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日経プレミアシリーズ、2022年を参照)。 

新しい資本主義の前に、30年前の活力を取り戻す必要

図表4には、日米の1人当たりGDPの対前年成長率の推移を示す。


1970年代前半までは日本の伸び率が圧倒的に高かったのだが、1970年代後半からは、日米の伸び率がほぼ同じになった。そして、1992年から日本の伸び率が低下したため、日米間の成長率格差が明確になった。2015年を除けば、どの年においても、日本の成長率が低い(2015年に賃金上昇率が高まったのは、原油価格の低下による)。アメリカの成長率が3%を超えているのに、日本の成長率はせいぜい1%だ。

この状況を変えることが必要だ。アメリカを上回るのは無理としても、せめて年率2%程度の成長を安定的に実現することが必要だ。

岸田首相は、「分配なくして成長なし」と言っていたことがあるが、賃金を引き上げようとするなら、経済成長を否定するわけにはいかない。

そのためには、IMDランキングで低下が著しいと指摘された日本企業の効率性を、かつての状態に戻さなければならない。

岸田首相は、「新しい資本主義」を目指すという。それは否定しないが、その前に、30年くらい前の日本企業の活力を取り戻す必要がある。

岸田首相は、リスキリングを進めるという。それは否定しないが、それだけで解決できるような問題ではない。

ここでみたさまざまな停滞現象を引き起こしている原因が何かを究明し、それに対処する必要がある。いまの日本に求められているのは、そうしたことだ。


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(野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授)