アメリカでは、これまで実用化された超音速旅客機はありませんが、実は、かのボーイング社がこれを作ろうとしていました。この機体はどのような飛行機で、なぜとん挫したのでしょうか。

注目「オーバーチュア」との共通点も?

 2016年にプランが公開され、2021年にはユナイテッド航空から、ついで2022年7月からアメリカン航空から受注を獲得した、米・ブーム・スーパー・ソニックのSST(超音速旅客機)「オーバーチュア(Overture)」。JAL(日本航空)も出資し優先発注権を持つこの計画は、現在、着実に歩みを進めています。ただ、実はアメリカでSSTを作ろうという計画は、今回が初めてではありません。

 その代表例は、あの「ジャンボ・ジェット」も手掛けたボーイング社が、1960年代を中心に開発を進めていた「2707」です。この「ボーイング2707」は、JALも発注をしているなど、「オーバーチュア」との共通点も少なくありません。


「ボーイング2707」JAL仕様機のモデル・プレーン(乗りものニュース編集部撮影)。

 そもそも、水平飛行で「マッハ1」超え、つまり音速を突破したのは75年も前のことで、NACA(NASAの前身)で運用していたベルXS-1でした。その後、軍用機では実用的に超音速飛行可能な機体が開発されてきましたが、民間機で超音速飛行を実現したのは、試験的にはソ連のツポレフTu-144と英仏共同開発の「コンコルド」のみ、そして乗客を乗せて長年運航されたのは「コンコルド」ただひとつです。

 ただ、「ボーイング2707」をはじめ、アメリカでもSSTの開発を目指したことがあります。民間航空でジェット旅客機の運航が開始されたのち、いわゆる「航空先進国」では、マッハ1にわずか満たない速度で飛ぶ「亜音速旅客機」のマーケットが拡がり、旅客機のサイズを大型化することがひとつのトレンドに。「ジャンボ・ジェット」とよばれるボーイング747などの登場もこのひとつです。

 一方、当時は「より速く飛ぶ」ことも、民間航空の大きな課題のひとつとして認識されていました。ただ、旅客機が音速突破するためには、技術的な課題ももちろんのこと、経済的な課題もクリアしなければならず、大型で亜音速の旅客機を生み出すよりハードルの高い試みでした。そのようななかで、ソ連、イギリス・フランスなど欧州、アメリカがSSTの開発に着手しました。

「ボーイング2707」どう誕生?スペックは

「コンコルド」が開発されるという情報を入手したアメリカでは1963年、当時のケネディ大統領政権下で、開発費の75%を政府が負担する国家プロジェクトとして、「ナショナル・スーパーソニック・トランスポート計画」、つまり国家全体で「コンコルド」を上回る品質のSST(超音速旅客機)を開発する計画が始動しました。同国が一丸となって新型旅客機を開発しようというのは珍しいことで、その本気ぶりがうかがえます。


フランス・トゥールーズに展示されている「コンコルド」(松 稔生撮影)。

 中心となったのはFAA(アメリカ連邦航空局)。航空先進国のメンツをかけて、ボーイング社、ロッキード社、ノース・アメリカン社に機体の計画案を発注したのです。

 1952年からSSTの構想を練り、研究を進めていたボーイング社では、「モデル733」と呼ばれるデザイン案を1960年に作っていました。FAAから依頼をうけ作成されたボーイング社の設計案は、733として設計したデザイン案のひとつを派生させたものでした。

 なお、競合するノース・アメリカン社は、アメリカ空軍の超音速戦略爆撃機B-70を拡大したようなNAC-60という計画を、小型超音速機の経験を豊富に持つロッキード社は、「コンコルド」を大型化し、220席クラスまで引き上げたようなCL-823という機体案を提案しました。

 最終的にボーイング社、ロッキード社の2社が残り、最終設計案を作ってコンペをすることに。結果として、ボーイング社のものが採用されました。そうしてボーイング社は試作機の製造を開始し、1970年に初飛行、型式証明を1974年までに取得するというスケジュールを定め、「2707」という名称を与えました。この2707というモデル名は、「マッハ2.7で巡航する」という狙いも込められていると記録されています。ちなみに、ライバルの「コンコルド」はマッハ2.02とされています。

 ボーイング2707の全長は約96m(315 フィート)、全幅は約39m(126.8 フィート)の大きさをもち、横2-3-2列のシート配置で、250席クラスとされていました(2707-300の場合)。なお、2707は当初可変翼を採用する予定でしたが、重量がかさみすぎて満足できる航続距離が達成できないことから、最終的には、デルタ翼(三角翼)を採用しています。

国家一丸の「2707」計画 なぜうまくいかなったのか

 ボーイング2707は1969年10月までに26の航空会社より122機の予約が入ります。この顧客にはパン・アメリカン航空、デルタ航空、ノース・ウェスト航空、アリタリア・イタリア航空、そしてJALもいました。

 この当時、将来的にSST(超音速旅客機)が世界中の空を飛び回ると見立てられていました。現在の成田空港こと「新東京国際空港」の設計においても、2707受け入れの可能性を視野に入れていたと、筆者は聞いたことがあります。

 しかし、その後、超音速機における民間航空の環境が一変。1971年にアメリカはニクソン大統領がSST計画への国家財産の投入を凍結してしまいます。この理由としては、ベトナム戦争が泥沼化したことをはじめ、アポロ計画に資金援助を集中させたいというアメリカ政府の方向転換、そして地上の上空を飛ぶ際のソニック・ブーム(衝撃派)や騒音による被害といった環境への影響を危惧し、国主導のSST開発への反対運動が相次いだことなどが挙げられます。


「高速民間輸送プロジェクト」のイメージ(画像:NASA)。

 こうして、ボーイング2707計画は、試作機の飛行に至ることなく、とん挫してしまったのです。ボーイング社が2707のために雇用されていた要員も大量に解雇することとなり、「シアトルを食い尽くした2707」と辛辣な評価も下されたのだとか。

 一方で、2707計画とん挫後のボーイング社は超音速旅客機のプロジェクトを社内的に進めており、1990 年から 1999 年にかけNASA の高速研究プログラムの一部として行われた「高速民間輸送プロジェクト」では、2707の経験が生かされたとしています。

 ちなみに、2707を発注した航空会社のひとつであったJAL。同社のラウンジ施設に2707の模型が飾られている様子を見たことがあります。機体番号は「JA2707」で、赤と紺の胴体ラインが特徴的な「初代鶴丸」塗装があしらわれていました。このほか、「初代鶴丸」より一つ前のデザインがあしらわれ、のちにボーイング747に付与されることとなる「JA8101」の機体番号をまとった2707の模型も存在しました。