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最近の私たちは、かつてないほど厳しい世界に生きている。世界的疫病の大流行を生き抜き、リモートワークやハイブリッドワークへの迅速な移行を強いられ、相互接続がもたらすあらゆる変化(良くも悪くも)への対応に必死だ。

このような慌ただしい時期には、緊急事態に直面するための訓練を受けた人々が、実際どのように緊急事態を経験したかを振り返るだけでなく、それを克服するために日頃チームをどのように動機付けていたのかを知ることが役立つ。宇宙におけるもっとも有名な例は、1970年、アポロ13号のクルーを地球に帰還させたチームの話だ。

そのときのクルーの一員である宇宙飛行士のフレッド・ヘイズ氏が、最近フォーブスの取材に応じ、宇宙での体験とそれがその後の人生にもたらしたものについて語った。きっかけは、彼の回顧録 『Never Panic Early』(まずは慌てるなかれ)が出版されたことだった。本書はビル・ムーア氏との共著で、ペンギン・ランダム・ハウスから発売されている。これから5回にわたって、ヘイズ氏がミッションから学んだ5つの教訓を紹介する。1つ目は、本書のタイトルと同じ「まずは慌てるなかれ」だ。

アポロ13号のストーリーを説明するには、丸々一冊の本が必要となる(実際、アポロ13号については多くの本が書かれており、ジム・ラヴェル司令官の証言を基にジャーナリストのジェフリー・クルーガー氏が書き起こし、ハリウッドで素晴らしい映画になった本もある)。そのとき起きたことを極めて簡潔に説明するなら、米国時間1970年4月13日、宇宙船オデッセイが月に接近した際に酸素タンクが破裂した出来事だ。

この破裂により、探査機の向きや温度調節に問題が生じ、通信にも支障が起きた。ただでさえ宇宙では限りのある電力が、電池の不具合で危機的なレベルにまで落ち込んでしまった。このことでクルーは、最も重要なシステム以外はすべてシャットダウンし、バックアップの月着陸船(アクエリアス)と薄い着衣と体温に頼って、寒さの中で生きていくことになった。宇宙船のシステムを維持するために、クルーが水の摂取を制限しているうちに、ヘイズ氏は体調を崩してしまった。

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しかし、アポロ13号のクルー、地上管制センター、そして世界中の企業や請負業者の巨大なネットワークの努力によって、クルー全員が米国時間1970年4月17日、4日間の冒険の末に無事に着水できた。

ヘイズ氏は、パイロットとして、また宇宙飛行士としての長年の訓練を受け、同時に他の訓練されたクルーやサポートチームの協力があったからこそ、全員が帰還することができたと述べている。彼は、Forbesに対して緊急事態への対処は、「使命感、素質、そして態度次第です」と語っている。

彼は、1995年に公開された映画『アポロ13』を引用しながら、事故発生時のシフトの管制室責任者だったジーン・クランツ氏(俳優のエド・ハリスが演じた)が、推測によって事態を悪化させないようにチームに指示した瞬間について言及した。

「どんな選択肢があるのか、どんなことができるのかを、少なくとも頭の片隅で、たとえ僅かな時間でも考えなければなりません。そして、その中から実現可能で最適なものを選ぶのです」とヘイズ氏はいう。

ヘイズ氏は、この姿勢をキャリアのさまざまな場面で、さらには私生活でも採用している。NASAの後、ヘイズ氏がどのような仕事をしてきたかは、次回以降の記事で紹介する予定だが、今回は、ヘイズ氏が車を運転しているときに、孫の一人が発作を起こしたときのことを簡単に紹介しよう。

ヘイズ氏は、すぐに道路脇に車を止め救急車を呼んだと回想する。孫娘をどこに連れて行くかを決めることだけでも複雑な判断だった。彼らは高速道路を走ってルイジアナ州のレイクチャールズに行く途中だったのだが、大きな病院はアリゾナ州の中を80マイル(約129キロ)戻ったところだったからだ。

最終的にはすべてがうまくいったものの、ヘイズ氏は、この出来事は、同じような注意、配慮、迅速な対応が必要な状況では、注意深く考えることで誰もが恩恵を受けられることを示しているという。「こうしたことはすべて、ある意味、私たちが人生を通してさまざまなやり方で経験する出来事なのです」と彼はいう。

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次回は「あるもので試せ」というテーマでお届けする予定。

文:Elizabeth Howell 翻訳:酒匂寛

*本記事はForbes JAPANからの転載です。