ジャカルタの通勤鉄道で活躍する元JR東日本の205系電車(筆者撮影)

約2年にも及ぶ新型コロナウイルスの猛威に、ようやく終わりが見えてきた。インドネシアでは5月から外国人の入国が全面的に解禁され、PCR検査による陰性証明も廃止された。日本から首都ジャカルタへの出張者も急増しており、鉄道ビジネスの分野も例外ではない。

「インドネシアには、コロナ明けにまず最初に訪問すると決めていました」と語るのは、JR東日本国際事業本部アジア地域鉄道グループリーダー(現仙台支社郡山総合車両センター企画科)の長谷川晋一氏だ。同氏率いる一行は5月11〜17日の日程でインドネシア入りし、バンドンのインドネシア鉄道(KAI)本社、そして、その子会社であるインドネシア通勤鉄道(KCI)などの関係先を訪問した。長谷川氏がインドネシアに入るのは、2020年1月以来、2年4カ月ぶりのことである。

同社のアジア地域鉄道グループでは、インド高速鉄道とタイ(バンコク)パープルラインを除くすべてを担当している。つまり、アジア各国のいわゆる国鉄案件がメインとのことだ。しかし、その中で最大規模はやはりインドネシアだという。

インドネシアが身近な存在に

インドネシアでは、首都ジャカルタにJR東日本の中古車両が約800両導入されており、またこれを契機とした協力覚書が2014年にKAI/KCI(当時はKCJ)との間で結ばれているという前提条件があるものの、「インドネシアはアジア各国の国鉄と比較して、成長性があり、仕事がしやすい」と長谷川氏は語る。

KAIは一般に国鉄と呼ばれるものの、民営化を果たしており、政府が全株式を保有してはいるものの経営の自主性は極めて高い。例えば、タイ、ベトナム、フィリピンの国鉄などは予算配分が完全に政府に支配されており、自律的経営が妨げられている。意思決定が自らできず、しかも非常に遅い。これではビジネスの交渉が骨折り損になる可能性が極めて高い。場合によっては、政府が他国から袖の下を掴まされていることも考えられる。そういう意味でKAIは健全だ。

今回の訪問の主目的は、覚書に基づく引き続きの協力関係の確認と、具体化である。JR東日本とKAI・KCIの協力覚書は2021年12月に更新され、「教育と研修」「車両と部品の供給」「公共交通志向型都市開発(TOD)」が柱になっている。


オンラインで日本とインドネシアをつないで行った「205系感謝メッセージ集贈呈式」でアルバムを渡す様子(写真:JR東日本)

「教育と研修」は、コロナ禍の2年間、オンラインで日本とインドネシアの現場とつなぐことで継続してきた。

2021年8月には「武蔵野線205系感謝メッセージ集贈呈式」なるものもオンラインで開催された。JRの現業社員発案によるイベントで、武蔵野線から205系が引退するにあたり、イベント時に利用者から集めたメッセージの一部を、自らインドネシア語に訳し、KCIに届けた。

本来は直接手渡す予定であったそうだが、国境を越える移動が困難な中でも、オンラインで交流が継続できたのは不幸中の幸いと言えよう。そして、JR東日本社内でも、現場レベルで、インドネシアが遠いどこかの国から、より身近な存在になっていることを感じさせる。

純正パーツの安定供給が可能に

ただ、「やはり現地で実物を見て触れて行う研修に勝るものはない」と語るのは、2021年11月からKCIに出向しているメンテナンスエンジニア中田智明氏だ。アドバイザーとして4代目にあたる。

JR東日本は2015年からKCIにアドバイザーとして社員を1名継続的に出向させており、ほかにJR東日本テクノロジー(JRTM)、JR東日本商事(EJRT)もジャカルタに事務所を構えている。JRの当地での事業というと中古車両に対するメンテナンス教育や支援が注目されがちだが、ビジネスとして車両のスペアパーツ供給や架線関係資材をはじめとするインフラ部分への資材供給を展開しており、今やインドネシアの鉄道産業を支える一員になっている。

KCIによると、部品供給については調達に関する契約変更が行われ、検査サイクル等から算定された必要量を購入できるようになり、より安定した純正スペアパーツ供給が可能になったという。GE(ゼネラル・エレクトリック)が数十年前からKAIに対して行っている部品供給ビジネスのスタイルであり、ようやくKCIでも同様のサプライが実現した。

供給側が安定した収益を確保できることはさることながら、純正部品を周期通りに交換することにより、車両故障の軽減、そして車両そのものの延命に繋がり、鉄道会社側にとってもメリットだ。何かと「安かろう、悪かろう」と言われたKCIの購買姿勢を変化させたのは大きい。

教育や部品供給以外の柱である「公共交通志向型都市開発(TOD)」は、近年、インドネシアの交通政策の議題に必ず上がってくるキーワードだ。

ただ、日本人がイメージするような、駅を中心とした2次交通アクセスを含めた面的な都市開発ではない。駅隣接の有休国有地に高層アパートメントを建設し、下層階がショッピング施設となる。つまり、都市開発というよりも、駅開発である。普段の生活は、駅空間だけで完結することを目指している。となれば、エキナカ開発との親和性も高くなる。

ただ気になるのは、JR東日本からの中古車両が今後減ることはあれど、増える可能性は低いということだ。日本製車両が減少すれば、スペアパーツ供給はもちろんのこと、長年続けてきた技術的支援にも影響が及ぶだろう。折しも、今回の長谷川氏一行の訪問は、シュタドラーINKAインドネシア(SII)による国産通勤電車製造の覚書締結が発表された直後だった。


日本とインドネシアをオンラインでつなぎ実施したヘビーメンテナンスの研修=2022年3月(写真:JR東日本)


コロナ禍でもオンラインで教育を継続、日本の現場から映像を送りメンテナンスの研修を行った=2022年3月(写真:JR東日本)

この点については、「前々からこの日程での訪問スケジュールを組んでおり、単なる偶然」とのことだが、同時に、「まさかこのタイミングで……」と国産通勤電車製造の発表には驚きを隠せなかったようだ。

とは言え、国産の「新型」通勤電車の導入がこれだけ話題として持ち上がっているさなか、JR東日本としても、さすがに見過ごすわけにはいかない。この発表を受けて、「日本の通勤電車の特徴について、弊社のE233系を参考にKCIと議論している旨をKAI本社で伝えた」と長谷川氏はいう。ただ、2022年5月18日付記事「『日本の牙城』ジャカルタ鉄道に迫る欧州勢の脅威」で紹介した通り、SIIとKCIとの間で結ばれた車両導入に関する覚書は、政府官僚立ち合いの下に誓わされた政略的なものであり、これを覆すことができるのか、それが最大の注目点だ。

鉄道当局は日本製「大歓迎」だが…

はたしてKAI側の反応はどうだったのか。長谷川氏によると、「立場上あまり明確には言えないが」と前置きしたうえで、「KAI総裁からはJR東日本の協力を期待している」旨の一般的な回答があったという。しかし、同時に「KAIの本社で総裁に加えKAI、KCI関係幹部が勢ぞろいしてJR東日本のインドネシア担当課長の話を聞いてもらえたことは、われわれに期待していることの表れと感じた」とも付け加えた。

つまり、KAI・KCIとしては、日本製は大歓迎。しかし、今は政府の目があるので動くに動けないといったところだろう。下手なことを言えば、国営企業省から大目玉を喰らう。

実際にこんなハプニングがあった。JR東日本一行がKAI本社を訪問する様子を、新型車両の紹介も含め、KCIの広報がSNSに嬉々として公開してしまった。すると、直後に投稿が削除され、車両に関する部分を伏せたうえで、改めて訪問の様子がアップロードされたのだ。

筆者はてっきりJR東日本側から削除要請をしたのかと思っていたが、そうではないそうだ。となると、KAI、KCIの判断で投稿を消したことになる。よほどセンシティブな話題であるということだ。ただし、この初回投稿をソースとして、一部の現地メディアが、日本製新型車両を導入か?との記事を出してしまうなど、事態は混沌としている。

日本側にも課題はある。日本の車両メーカーが新車に意欲を見せたとしても、リスクの大きい海外向け案件となるとそう簡単ではない。とくに、インドネシア政府を納得させる方法は、ノックダウン方式による現地生産しか術はない。つまり、国営車両製造会社(INKA)マディウン工場で、日本の標準型通勤車両に近いものを製造することになる。


ジャカルタでは約1000両の日本製中古車両が活躍している(筆者撮影)

これまで同工場には日本の各メーカーからさまざまな技術支援がなされてきた。しかし、INKAが共同生産のパートナーとして日本のメーカーにオファーした際はすべて断られたという経緯がある。それが巡り巡って、シュタドラーとの協業に至ったわけである。

日本の車両メーカーの現状を見る限り、仮に日本国内で生産するとしても東南アジア案件はリスクが大きい。JR東日本グループの総合車両製作所はODAで進められているフィリピンの南北通勤鉄道向け車両8両編成13本を2019年に受注し、2021年から一部の出荷が始まっているが、現地の車両基地の整備が遅れているため、車両納入にも影響が出ることが予想される。

「日本政府は民間任せ」

もしKCIに日本のメーカーが新型車両を納入するとすれば、完全民間ベースの案件になる。しかし、それでも日本政府の介入は必要である。KAI・KCIは事実上民営化されているとはいえ国営企業省傘下にあることには変わりなく、まして国策として「車両国産化」が定められてしまった以上、日本製車両導入の突破口を作れるのは日本政府以外にない。

また、KCIからすれば、JRはKAIと同じ国鉄という認識で、完全な民間企業であることはほとんど知られていない。新車を売り込みたいなら当然、日本政府の人間を連れてきて、インドネシアの政府要人との交渉もやってくれると思っている。事なかれ主義のインドネシア人、そこはしたたかだ。日本製車両が欲しいと心の中で思っていても、自らリスクは負わない。

だが、現実には、日本政府が売り込みに動くなどということはほぼあり得ない。インドネシアで古くからビジネスを展開している大手商社マンは、「日本政府は民間任せで、いわゆるトップセールスを一切しない」と語る。「欧米各国は役人が自国製品を手にやってきて、有無を言わさず買わせていく。対して日本政府といえば、企業がまったく得しない、日本製品のアピールすらしないODA案件の“実績”に歓喜しているだけ。先の岸田(首相)の来イがまさにそうでしょう」と語気を強める。

これはまさに今のインドネシアの状況、とくに鉄道案件の置かれた状況であり、大使館はぐうの音も出ないだろう。シュタドラーでさえ、1社単独でINKAとの合弁を取り付けたとは思えず、スイス政府がバックについているはずである。

筆者はたびたび指摘しているが、日本政府が掲げる鉄道インフラ輸出政策はあまりにも無責任だ。リスクの大きい東南アジア案件に、政府による仲介、保証は不可欠である。

ドイツや韓国など、インドネシアの鉄道案件に強いとされる国々は、アドバイザー等と称して関係省庁に人員を送り、情報収集と水面下でのロビー活動を行っている。JICAにも鉄道専門家を称する人間がほぼ常駐しており、インドネシアが日本にとって重点地域と認識されていることに間違いはないが(インドネシア以外で、常に専門家を置くことは稀である)、あまりにも市場に疎いと言わざるを得ない。

前出の中田氏は、現在走行している205系について、「このまま何もしなければ持って10年くらい」と、中古車両の先行きを案じる。いくら物持ちがいいとは言え、経年車のグループはあと数年で製造から40年を迎える。

JR東日本で現役の205系も残りわずかであり、部品の融通が利く211系も合わせ、スペアパーツ供給にも支障が出てくる。大手電機メーカーでは直流電動機(モーター)の生産を終えており、修理で対応できないものに対しては、廃車からの部品取りでしのぐしかない。「VVVFインバータ化改造されていない205系0番台のグループに対しては、早急に機器更新をする必要がある」と同氏は訴える。ただ、機器更新は中古車導入に比べると多額の予算を要するため、KCIは及び腰である。

20年の積み重ねを無にしないために

しかし、機器更新、新車導入いずれを選択するとしても、今から綿密な計画を立て、適切な対応を取らなければ、1000両を超えるジャカルタ首都圏の日本車は一気に失われてしまう。筆者はシュタドラーの車両を入れるなと言っているわけではない。しかし、これまで草の根的努力を20年間積み上げてきたものを水泡に帰させていいものか。日本車の置き換えは日本車でやらなければ意味がない。


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JR東日本は、鉄道分野はもちろん、生活関連産業までさまざまな事業をインドネシアで手掛け、海外事業の中でもとくに大きなボリュームを占めている。そのきっかけを作ったのは、中古車両譲渡と言っても過言ではない。だが、今やそれは不可能になった。もちろん、中古車両の輸出はあくまで1つのステップであり、まずは機器更新、そして最終的な新車輸出を見据えていたことは想像にかたくないが、インドネシアの成長スピードを少し見誤っていたかもしれない。

ここで突如浮上した「通勤車両国産化策」をどう乗り切るか。車両の設計・製造から運行管理、保守メンテナンス、部品供給、さらに沿線開発や飲食・小売りと鉄道に関わることなら何でもできるトータルコーディネーターとして、JR東日本グループを挙げての力量が試されている。

(高木 聡 : アジアン鉄道ライター)