「自分はたまたま助かっただけ」スーパー堤防が破壊された宮古市田老で後世に伝えたい3つのこと - 田野幸伸

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※この記事は2021年03月10日にBLOGOSで公開されたものです

岩手県宮古市田老地区。「万里の長城」とも呼ばれた2433メートルの巨大な防潮堤に囲まれた町だったが、2011年3月の東日本大震災による津波で防潮堤は破壊され、甚大な被害を受けた。

筆者は震災以降、何度か田老の防潮堤を訪れているが、東日本大震災の取材を重ねる中で、最も印象深い場所となっている。

3.11から10年、田老の防潮堤の今を取材した。

津波に備えてきた町だったが…181名が犠牲に

田老の町は幾度も大きな津波に襲われており、昭和8年の昭和三陸地震で壊滅に近い被害を受けた後、災害に強いまちづくりが進められてきた。防潮堤の整備が始まったのは昭和三陸地震の翌年、昭和9年。

防潮堤だけではなく、道路は碁盤の目のように整備され、避難道路へ最短コースでたどり着くように設計されていた。なのになぜ、181名もの死者・行方不明者が出てしまったのか。

当時の状況を知るためにやってきたのが、2018年4月に本格オープンした「道の駅たろう」。ここには震災伝承施設、たろう潮里ステーションがある。こちらでは「学ぶ防災ガイド」という震災ガイドを行っており、当時の被災状況を通じて命の大切さを伝える場となっている。

今回はこの「学ぶ防災ガイド」に申し込み、ガイドの佐々木純子さんに詳しく聞かせていただいた。

逃げ遅れではなく「逃げなかった人」が犠牲に

佐々木:3.11のあの日、地震発生から津波がここに入ってくるまで40分ありました。最短コースで逃げられるようになっていたこの町では、5分10分あれば高台までたどり着けたはずで、40分という時間は逃げる時間としては充分でした。ではなぜ181名もの人が亡くなったのか。

この防潮堤は地上から5メートル、海抜10メートル、万里の長城、スーパー堤防なんて言われていました。それがどこかで自慢の防潮堤になっていて、『これを越えて来る津波はねえべ』という過信があったのは正直、否めないのかなと。

あとは、誰に聞いても「予想津波3メートル以上」という警報が1回しかなかった。3メートルだったら、海抜10メートルの防潮堤があるから大丈夫だろうと思って逃げなかった人もいる。

お体の事情でなどで逃げられなかった方もいたにしろ、そこを取り除いてもやっぱり逃げ遅れたんじゃなくて、逃げなかった方たちが命を落としてしまった。

助かった人たちはどういう人たちかというと、普段から避難訓練をして、避難道路を整備して、津波の怖さを伝えてきた人。そういった方々がやはり命を守れています。

佐々木:ここが第1防潮堤。地上から5メートル、海抜が10メートル。あの日の津波の高さは平均17メートル。今作っている堤防の高さは14.7メートル。ということは、東日本大震災と同じ津波がくれば越えますよね。

この微妙な高さだと海が見えないんです。海の変化に気付いて逃げる人もいるのに、すぐそこなのに海が見えない。越えた時にはもう終わり。

私は個人的には微妙だなと思っていて、海はやっぱりある程度見えて危機意識を持たせておいたほうが逃げる意識になるのかなと。

以前は磯の匂いがしたのに、今はここ田老にいても全然しないんですよね。

普通だったらするじゃないですか。磯の香り、ワカメの匂いとか。よく、全国からいらっしゃる方に、海のまちなのに海の匂いが全然ないねと言われますが、この防潮堤のせいもあるのかもしれません。

チリ地震津波から田老の町を守った防潮堤 その記憶が仇に


同じ防潮堤の上からの景色(2011年6月撮影)

第1防潮堤は1,350メートルありました。万里の長城に例えられたのはこれです。昭和35年のチリ地震津波から田老を守ったとマスコミにもてはやされた時から、自慢の防潮堤になり過信が生まれ始めていた可能性は否めません。

津波が来たら左右に波を分散させて時間を稼ぐ。減災、そして逃げる時間稼ぎのために作られたのがこれです。防潮堤が守ってくれるから大丈夫、ではなくて、逃げる時間を確保するためのものだったのが、いつからか勘違いしてしまった。

昔から宮古の人たちも田老は津波の町だと思って育っているし、明治三陸津波で1,867名亡くなっていて、昭和三陸津波で911名亡くなっています。今回が181名だから、全体の人口からいくと4%と被害は小さくなってきているんですけれども、こんなに徹底して防災をやってきたのに4%もの人が亡くなったことに驚きを隠せませんでした。

先人は津波と戦うんじゃなくて、おいしい海の恵みを頂く代わりに、津波は来るからちゃんと逃げるんだよと避難場所をたくさん作っていた。命を守ることを教育してきた。

だから防潮堤などのハード面だけじゃ駄目で、ちゃんとソフト面、心のほうもちゃんと教えて、この思いを伝えていかなければならないんです。

震災遺構「たろう観光ホテル」社長が命をかけて伝えたかったこと

防潮堤、製氷施設を周り、学ぶ防災ガイドは震災遺構として保存されている「たろう観光ホテル」へ向かった。

たろう観光ホテルは「学ぶ防災ガイド」申込者のみ、内部の見学が可能となっている。2011年、12年に取材に来た時は中に入ることはできなかったが、現在ではエレベーターも完備され、震災当日に6階からたろう観光ホテルの松本勇毅社長が命がけで撮影した津波の様子を、撮ったその場所で見ることができる。

震災発生時刻の午後2時46分はチェックイン前。松本社長を始め、従業員は来客の準備に追われていた。大きな揺れに襲われ、社長は家族や従業員をすぐ避難させたが、宿泊客が来た時に対応する人がいないと困るため、1人でホテルに残ったという。


そして震災から40分後。社長は「もう逃げられないかも」と覚悟、604号室の窓から津波の様子を撮影し始める。自分が死んでもこのカメラだけは誰かが拾って欲しいと祈りながら撮られた映像は、「この場所で見ることに意味がある」と、メディアに公開されていない。

我々もカメラを置き、この窓から撮影された映像を見せていただいた。

「あれ、津波来たよー、早く逃げてー」
「津波が来たよー、逃げてーー」

ホテルの窓から道を歩くおばあちゃんに叫び続ける社長の声。しかし、海岸線から迫りくる真っ黒な津波も、防潮堤の高さで下にいる人には見えていない。ガイドの佐々木さんによると、このおばあちゃんは津波で亡くなってしまったそうだ。

一瞬で破壊される防潮堤、町を飲み込む黒い波。そして、津波がホテルを直撃し足元を海水が流れていく音…。

津波の映像はこの10年でたくさん見てきたが、撮影されたその場で見る映像は重みが違った。

佐々木:ここへ見学に来る子どもたちは、震災の記憶がない世代になっているんです。社長が死を覚悟しながらも、記録を残したい一心で撮ってくれた映像を、あの日と同じ目線で体感してもらい、どういう思いで撮ったかまで考えてもらう。

それが私たちの今できることです。

連れられてきた子どもたちは、また大人が何か言っているなくらいで、私たちガイドの話を真剣に聞いていないと思うんです。この部屋に入ってからもワーワーとやっているんですけれども、この映像を見終わると、顔つきが全然変わります。

だから、やっぱり目で見て分かる、こういうものを残すって大事なんですね。

ただ、たまたまこのホテルで亡くなった人がいなかったから建物ごと残せましたけれども、他の施設は残したくても、ご遺族の気持ちを考えれば難しい。被災地と言ってもその場所によっていろいろな事情があるんです。私たちは皆さんの応援で残していただきましたので、これから未来の子どもたちに向けて伝えていくのが私たちの責任だと思います。

学ぶ防災ガイドが伝えたい3つのこと

佐々木:私はあの日、3つのことを学びました。

1つ目は正常化の偏見。今まで大丈夫だったから、今度も大丈夫だろうという安易な気持ちがあの日みんなにあったと思います。

2つ目は集団同調性バイアス。みんなと一緒にいれば安心。みんなが逃げないからじゃあ私も逃げなくていいやと。どちらかといえば逃げたくないというか、外は寒いしみたいなのが心のどこかにあって、人って災害に巻き込まれるはずがないと思い込んでしまう。

3.11のあの日、本当はもっと高いところへ逃げなきゃいけなかった人たちもいるわけです。でもみんなここにいるしいいやと、それで亡くなっている方たちもいらっしゃる。

集団でいること、みんなといることがいけないんじゃなくて、みんなといる中に率先避難者が必要なんです。もっと上に行きませんか、ここは危なくないですかという、勇気を出す人が。

日本人の悪いところとして、偉い人とか目上の人がいるとつい、意見を言うのがはばかられるというのがありますよね。

あまり言っちゃいけないんですけれども、この辺でもちゃんと逃げて避難道路まで行っていた人を、お茶を飲んでいるからおいでおいで、寒いでしょとお茶に誘ってしまった方もいる。

せっかく助かるために道路を上がってきたところを、進行方向を変えてお茶を飲みに友達のところに行って、亡くなっている方たちも実際いらっしゃるんです。

本当は助かる命だったわけですよね。

友達に誘われれば、ついつい自分も行ってしまうと思うんです。ただ、そこですよね。こういう緊急時には、「いや、何言っているの?」と言う勇気が必要なんです。だけど、それを言えないで行ってしまう。だからある意味集団って怖いなあと。

そして3つ目、エキスパートエラー。

専門家さんたちの意見推測、いろんな情報が出てきます。私たちもすごく勉強になりますけれども、それが全てではないですよね。やっぱりうのみにしちゃいけない。

「津波は3メートル以上」という警報を聞いた人のほうが助かっていないんです。津波はここまで来ないだろうと逃げなかったり、逃げたけれども時間があったから、家のことを考えて3メートルなら大丈夫かと戻ってしまったり。

だけど、何かの不具合で3メートル以上より大きい警報が出なかったんじゃないかって話もあるんです。

となると、私たちはやっぱり自分たちで自分たちの命を守らなきゃいけない。情報は頼りにするけれども、自主避難、自主防災を日頃からしっかり考えておく。

この辺は個人情報だだ漏れ地区といって、知らないうちに誰それさんちは家族構成がどうなっていて、どこに勤めているか電話番号まで知られている。

もし家族が日中みんな働きに行ったら、おじいちゃんは家で1人だけど、津波が来た時逃げられるの? 無理なら近所の誰々が迎えに行くからね、という昔からの自治会がちゃんとあって、そういうところで個人情報がだだ漏れでも文句を言う人はいなかった。

そういう昔の信頼というかつながりがあって、助かった人もたくさんいる。個人情報も大事だけれども、古くからの仕組みってすごいなと思う部分もたくさんありました。

震災から学ぶことは本当に多かった。過剰な避難は笑って許されます。でも避難の遅れは間違いなく死につながっていく。これは身を持って感じました。

あの日、車をバックで駐車していなかったら

佐々木さんは「自分はたまたま助かっただけで、死んでいてもおかしくなかったと今でも毎日思う」と言う。助かったのは紙一重の違いだと。

佐々木:私が3.11で助かったのは、いつも頭から駐車場に入れていた車をたまたまちゃんとバックでおしりから駐めていたからだと思っています。

あの日、忙しくて会社に早く行ったんです。ああ、早く着いちゃったなと思って「面倒だけどバックしようかな」とたまたまバックで駐車していたんです。

その結果、地震のあとにすぐ出られたということです。いつもどおり頭から駐車場に停めていれば、あの揺れの中、慌てているしスムーズに出られなかったでしょう。出られたとしても数秒の遅れで道路の混み具合が違ってきていたわけで。

そこから運命が全部変わっているんで、今生きているのはたまたまです。

だから私はあの日以来、面倒くさくても必ずバックで駐車するようになりました。周りのみんなにも、駐める時はバックね、バックねと言い聞かせています。

靴も脱いだあとに揃えておけば逃げる時にすぐ履けるから、キチンと並べるようになりました。身近な防災ってきっとそういうところなんです。それで生死が分かれてしまうのかなと。

だから、私たちはあの経験を生かして、これから田老へいらっしゃる方たちにしっかり伝えていく。亡くなった方々の無念を少しだけでもみんなに届けてあげて、災害の時に命を落とす人が1人でもいなくなればいい、それだけです。

防災ガイド終了後、次の撮影へ移動しようという我々に、佐々木さんはこう声をかけてくれた。

佐々木:皆さんもよく、こうやっていろんな町を旅すると思いますが、運転中にカーナビをずっと見ていると、どっちが南、北、東、西って分からなくなる時がありますよね。そんな時も、「今、海はどっちかな」というのだけは確認しながら走っていただけると嬉しいです。それが命を守ります。

【取材協力:福田記子 取材・撮影:田野幸伸】