秋葉原事件の加藤と同僚 共感する背景には自身の生い立ちのほか、不適切な教員、ブラック企業、自殺未遂 生きづらさを抱える人々~大友の場合 - 渋井哲也
※この記事は2019年07月04日にBLOGOSで公開されたものです
警備会社に勤める大友秀逸(43)と顔を合わせたのは久しぶりだ。秋葉原通り魔事件(2008年6月8日)があったときにニコニコ生放送特番へ出演した以来だった。私は、若者の生きづらさや自殺などを取材していたこともあり、この事件に当初から関心を持っていた。一方、大友は一時期、事件を起こした加藤智大死刑囚(以後、加藤)と同じ派遣会社で働いていた同僚だ。最近になって、大友がツイッターを始めたことで連絡を取り合うようになった。そこで、これまで抱いていた生きづらさについて話を聞くことになった。
大友は、加藤と同じ青森県青森市出身だ。加藤は高校卒業まで青森市で過ごしているが、大友は高校時代を仙台市で過ごした。両親が離婚をした際、仙台市内の母子寮に、母親とともに入った。
「父親が大手企業に勤めたのちに独立したんですが、信用していた相手に裏切られ、借金を作ったんです。その借金で母親に迷惑をかけたくないというのが理由だったと思います。そのため、借金を返済し終わったら、再び、一緒に暮らすようになりました」
暴力的だった父 母は止めず
幼い大友にとっては、他の家族と比較しようもないが、「理不尽だな」と記憶していることがある。それは小学4年生の頃だ。父親が何らかの理由で妹を殴ろうとしていた。それを見た大友は「妹を殴るなら俺を殴れ」と叫んだ。すると、父親のパンチがお腹に入ってきた。それを見ても母親は止めることはしなかった。
「父親はパワハラの加害者の典型でした。小学校5年生のとき、歯医者に行ったんですが、先生が下手で歯が痛かったんです。そんな俺を、父親は『黙っとけ』と言い、殴りました。母親はその暴力に怯えていたと思います。我慢しきれなくなったのか、母親は俺と妹を連れて、家出をしたこともあります」
病気で倒れた父は人格が変わる
父親はそろばんが得意だったようで、小学生の時から大人たちに教えていたことがあった。そのため、年上の人たちからも「先生」と呼ばれたりした。しかし、そんな父親が脳卒中で倒れた。大友が小学6年生の頃だ。半身不随になり、障害者1級の判定を受けていた。仕事ばかりしていた父親は、当時、軽自動車に乗り、さおだけ屋を始める。そんな中で、半年間、入院生活を送る。そのことで、すっかり、父親の人格が変わった。
「病気になって、すっかり仏様のようになりました。テレビの『水戸黄門』で、さらわれた娘が助けられるようなシーンがありましたが、そんなところで、父親が号泣していました。最初は泣いている演技かと思ったら、本当に泣いていました」
その後、父親は52歳で亡くなる。短命だった。幼い頃が暴力的な父親だったが、病気で変わっていく父親の姿を大友は見ていた。
教師によるいじめや暴言を経験する
一方、教師との出会いも不運があった。小学1年生のときの担任の女性教諭(40代くらいか?)はインパクトがあった、という。
「授業中クラスで泣いてしまう子がいると、クラス全員に机を囲ませて。自ら手拍子をはじめて、『泣き虫毛虫摘まんですてろ』と歌い出したんです。クラスメイトにも『さあみんなも歌って!』と煽り、クラス中で大合唱をさせて余計に泣かせたりしてました。いじめの抵抗力がない子に、抵抗力をつけさせようとしていたのか?でも、ありえないですね」
6年生のときの担任は、やはり40代の男性教諭。社会の授業中に唐突に「このクラスの中に侍の子はいるか?」と聞いてきた。そのため、父方は伊達政宗の孫の城に勤めていたため、手を上げたらおもいっきり吹き出し笑いをされたという。そして教諭は「大友!お前はさおだけやの家の子だろ?このクラスなら●●のお父さんが市議会議員だから今の時代、侍といえば医者や政治家のことを言うんだぞ」と言った。
「クラスのみんなの前でばか笑いされて、悔しくて泣いたんですが、なんのフォローや謝罪もありません。先生は全く気にしてないだろうけど、自分は死んでも先生にはならないと決意しました」
小6のとき初めての自殺未遂
そんな幼少期を送った中で、小6のとき、大友は何回も死のうとしたという。父親が半身不随で、母親がパートで働いていた。家にいても寂しいだけだ。そのため、地域の学童保育に行くが、“先輩”たちから仲間に入れてもらえない。居場所がないと思ったのか、マンションの5、6階まで上がった。「飛べたら楽かな?」と思ったことがある。これが最初の「死にたい」だったと、振り返る。
大友は偏頭痛持ちでもあった。光が眩しく、吐いてしまうことがあった。そのため、授業をまともに受けられない。意識がなくなるまで苦しくなることがあり、そんなときは保健室へ行き、寝ていた。こんなことが中2まで続いた。勉強に専念することができず、高校へは進学しないつもりでいた。しかし、親が「行ってくれ」というので受験することになる。
「直前の模試では合格率が20%でした。しかし、結果的に合格することができました。ただ、体調がすぐれず、ひきこもり状態になりました。起きれないし、反対に、眠れもしませんでした。何もしたくなかったんです。今から考えれば、鬱かな、とは思います。そのため、留年することになりました。からかってくる人もいるくらいです。結局、退学することになります。やる気がないとは違うんです。だって、交換留学生にも選ばれましたから」
フリーターとしての浮き沈み。再び自殺未遂
その後、フリーターになり、牛丼のチェーン店でバイトをしていたら、正社員になれた。そして、20歳で店長にもなった。ブラック企業で、ほぼ休みはなかった。残業代を自主的にカットしていた。最終的には、精神的な疲労が蓄積して、通えなくなっていた。その後、カレー屋でもバイトをしていたら、2~3か月で責任者になった。しかし、同じように体調を崩し、すぐにやめることになる。
その後、物産展を催す会社に就職し、仙台で販売員をする。このとき、成績が良く、月200万円を売りあげた。本社からもスカウトされた。すると、二ヶ月で係長、その半年後に課長になった。一年後には仙台支社長になった。26歳で、年収2000~3000万円になった。しかし、その分、お金が出て行く。
その後、2代目になる会長の息子と合わず、会社をやめる。そんなときに、鬱のスイッチが入った。「疲れたから楽になりたい」。2002年の元旦。宮城県東松島市の野蒜海岸へ車で入っていった。「このまま死んでしまったら、楽だろうな」と思った。トランクにはガムテープもあり、排ガス自殺をしようとした。
「アクセスを踏み続ければ死ねるだろうと思ったんです。だから全力でアクセルを踏んでいました。しかし、耳鳴りか幻聴が聞こえたんです。ラジオで『ゆく年くる年』をしていて、除夜の鐘が聞こえていたのかもしれません。三途の川に片足をつっこんでいたんでしょうか。でも、死にたくないと思ったんです。体がかろうじて動いたために、ドアを開けました。そこからの記憶はほとんどありません。ぱっと目が開いたら、初日の出を見に来ている人でいっぱいだった。これが生き返りなのか?と思いました」
秋葉原事件の加藤との出会い
この年、大友は加藤と仙台で出会う。家族や学校、職場で抱いた生きづらさがあり、自殺未遂をした後だ。本人曰く「一回死んでいる」からでもあるのだろうか。明確なものはなかったものの、なにげに共鳴した。趣味の話が合ったのも理由の一つだ。
「加藤と一緒に働いた会社は超ブラックでした。風呂にも入れず、寝るのも大型トラックの横の茂みでした。過酷で、もう経験はできませんね。加藤は『あの上司は許さない』と言っていました。苦情があると、現場から2、3キロ離れた事務所に言わなければならない。加藤とは苦楽をともにしているので、仲間意識が強いんです」
ここから2年間、仙台でともに働くが、仙台から離れ、埼玉県へ加藤が行くまでは連絡を取りあった。仕事終わりには食事を一緒にとった。
「加藤は、何かを抱えているんだなと感じることはあった。両親のことは一切、語らなかった。普通なら表面的なことくらいは話すと思うんですが、はぐらかす感じでした。何かあるんだろうな、とは思ったんです。ただ、(事件後に自殺した)弟の話はしていました。完全に孤立していたわけではないんだなとも思いました。ただ、突っ込んで、家族の話をすべきか?と問われると、あのときの自分には難しい。当時の自分には、嫌がっているのはわかりますから。でも、今なら、突っ込んで話をすべきだったかな、と。何かの兆しを感じたら、今なら突っ込みます」
加藤が語らない借金問題
加藤は判決後、弁護人以外と面会していない。遺族や被害者には手紙を出しているものの、交流があるとは言えない。ただ、いくつかの書籍を出版している。事件までの心情を含め、過去のことを綴っている。しかし、大友は、やや違和感を抱く。なぜなら、借金ことが書いていないからだという。
「出した本の中で、語っていないテーマがあります。それは借金問題です。それは自分がきっかけを作ったことでもあります。加藤はバイクを持っていたですが、車の免許はありませんでした。バイクを全損大破したとき、よく車で迎えに行っていたんです。当時自分はレガシーに乗っていたんです。加藤はレーシング仕様に気がつきました。その後、車の免許を取り、市場にないインプレッサのターボ車を中古で40万円で買いました。タイヤとマフラーも交換していましたし、ガソリン代も保険料もかかる。加藤の給料はきつかったはず。1日2日ご飯が食えないときもあったらしいので、ローンがきつかったんでしょう。仙台の仕事を辞めるのは、お金の問題も大きかったのではないでしょうか。本人は『職場のトラブルでやめた』『放火しようと思っていた』と書いているが、もし放火していれば、自分も死んでいた」