2021年の2人以上1世帯あたりの餃子購入金額ナンバー1は、2トップに君臨していた宇都宮市、浜松市を抜いて宮崎市になりました(写真:midori_chan/PIXTA)

2月8日、総務省が発表した家計調査で、2021年の2人以上1世帯あたりの餃子購入金額ナンバー1が、宮崎市になった。餃子は、長年宇都宮市と浜松市がトップ争いをしてきたことがよく知られている。そこへ突然の宮崎市の登場。しかも、宮崎市の4184円に対し、2位の浜松市は3728円、3位の宇都宮市は3129円と、2位以下に大きく差をつけている。これからは、宮崎市が餃子の町のトップに君臨するのか。

ところで、総務省の家計調査は餃子消費量全体とイコールではない。計算に入っているのは、スーパーの総菜売り場にあるもの、冷蔵餃子、テイクアウト専門店の冷蔵餃子で、外食店で食べるものも、外食店のテイクアウトも、冷凍餃子も入らない。もちろん、家庭で作られるものも含まれていない。

宇都宮市にも浜松市にも餃子専門店がたくさんあるが、そうした店で市民が毎日のように餃子を食べていても、家計調査には反映されない。最近増えているテイクアウト専門店の冷凍餃子も、中華食材店の冷凍水餃子も入らない。つまり、家計調査の消費金額ランキングのナンバー1は必ずしも、実際に餃子を最もよく食べる地域とは言えないのだ。

宇都宮が「餃子の街」になったきっかけ

それなのに、餃子消費金額のランキングは毎年報道されて注目され、町おこしにも役立っている。それは、日本人の餃子愛が強いからだろう。いったいなぜ、日本人はそんなに餃子が好きなのか? まずは家計調査のトップ3の事情から探ってみよう。

宇都宮市は1991年に「宇都宮餃子」を登録商標としている。『食旅と観光まちづくり』(安田亘宏)によると、町おこしのキーワードを探していた市職員が、家計調査でつねに上位にいることを発見したのが、餃子の町として名乗りを上げるきっかけだった。そこで1991年に観光課と観光協会が、飲食店を説得して餃子マップを作り、業者団体の宇都宮餃子会も発足。1994年にJR宇都宮駅前に、地元特産の大谷石で作った餃子像が設置されている。

現存する最古参の宇都宮餃子を出す店は、1958年に創業した「みんみん」(現宇都宮みんみん)。前身となる「ハウザー」を昭和20年代に始め、餃子も販売している。

『中国料理と近現代日本』(岩間一弘)によると、創業者の鹿妻三子(かづまみね)は、国鉄勤務の夫が戦時中に転勤したことから北京に住んでいた。現地でお手伝いさんに教わった中国家庭料理が、餃子だった。中国ではタレにニンニクのすりおろしを入れていたが、みんみんでは肉の臭みが出ないように、ニンニクを具に加えた。匂いが出ないよう工夫してあると同店ウェブサイトにある。

宇都宮餃子は一般的に、肉やニンニクは少なく、ニラ・ネギ・白菜やキャベツなどの野菜がたっぷり入る。しょうゆを使わず酢とラー油をつけて食べるのが一般的。水餃子なども人気がある。

浜松餃子の特徴は?

一方、浜松餃子は、キャベツ・タマネギ・豚肉のハーモニーに特徴がある焼き餃子である。浜松市は2007年に政令指定都市に選ばれ、翌年から家計調査の対象になったことから、餃子人気が裏付けられた。浜松市には、餃子愛好者たちによる浜松餃子学会があり、毎年浜松餃子マップを作成している。

ウェブサイト『にっぽんの郷土料理観光事典』によれば、浜松餃子の始まりは、中国からの帰還兵が店を出し始めたこと。戦後の物資不足の中でも手に入れやすい、小麦粉、肉、野菜を材料としていたことが、開業しやすい要因だった。

宮崎市は近年餃子消費が上昇していた。焼き餃子協会の調査では、2020年の上半期に購入頻度・支出金額が日本一となっていた。人気ぶりを受け、2020年に業者団体の宮崎市ぎょうざ協議会が発足、毎月3日を餃子の日とする販売促進を県内で行う、『宮崎餃子本』を作るなどして餃子の町として盛り上げ始めている。2016年6月11日付のWeb女性自身が、2015年の家計調査で3位に躍り出たことを報じ、満州帰りの人が広めた歴史を発掘している。宮崎餃子に決まった特徴はない。

餃子が人気の理由は、こうしたトップ3の事情に隠されている。考えられる要因は5つある。

浜松の歴史で判明した、材料が手に入りやすかったという点は重要である。町中華の歴史とも共通するからだ。『夕陽に赤い町中華』(北尾トロ)によれば、ラーメンや中華料理の店が続々と開業されたのも、和食より材料が手に入りやすかったから。大きかったのはコメ不足。戦時体制下で生産力が落ちていたところへ、1945年、1946年の凶作が追い打ちをかけた。

一方、小麦はアメリカからの支援物資として豊富にあった。そして1954年、アメリカは西側諸国が小麦を好条件で購入できるPL480法を成立させる。アメリカはこの頃、生産量が急拡大した余剰小麦の売り先を求めており、あわせて冷戦下の守りを固めようともくろんだのである。

その結果、日本でパン食が伸びたことはよく知られているし、安藤百福はパンより麺だ、とインスタントラーメンの販売を始めた。そして町中華も増えた。当然、小麦粉を使う餃子の販売増加にも結びついただろう。つまり、餃子が広まった1つ目の理由は、小麦粉の供給が潤沢だったこと。

餃子トップ3の市がいずれも戦後、中国や満州からの帰国者が売り始めて広がっているところが、通説を裏付ける。

戦後の東京でも「餃子ブーム」があった

戦後の東京でも、餃子ブームが起きていた。戦中戦後を代表するコメディアンでグルメだった古川緑波が『ロッパ食談 完全版』で、餃子屋が渋谷や新宿に次々とできたことを記している。

定番の洋食・中華の発祥を発掘した『オムライスの秘密 メロンパンの謎 人気メニュー誕生物語』(澁川祐子)は、渋谷・百軒店で1948年に「有楽」として開業し、1952年に恋文横丁に移転し「萊萊羊肉館(ミンミンヤンローカン)」と名前を変えた店の歴史を紹介している。

大連から引き揚げてきた高橋通博が開業し、人気メニューとなったのが焼き餃子だった。『中国料理と近現代日本』によると、同店ではパンチを効かせるためにニンニクを使用している。百軒店には餃子店が続々と開業していく。

『程さんの台湾料理店』(程一彦)によると、高橋氏は現地で中国人女性と結婚していて、戦後はまず、高橋氏の故郷である大分県宇佐市に身を寄せる。高橋夫妻に台所を貸した友人で水墨画の画家、古田やすおがその後、東京に行った折に高橋夫妻を訪ねたところ、萊萊羊肉館が好調なのを見て餃子の作り方を習い、大阪で餃子店を出す。実は日本料理店を始めていたのだが、うまくいっていなかった。この餃子店が、チェーン店の萊萊の始まりである。

このように、大陸からの帰国者により、焼き餃子が全国各地に広がり定着したことが、2つ目の理由だ。しかし、餃子は、戦前から日本に入ってきている。

『オムライスの秘密 メロンパンの謎』によると、料理雑誌の『料理の友』1933年3月号に、神田今川小路「北京亭」が数少ない店として紹介されている。同書は、満州国が建国された頃から餃子を紹介する料理書が増えたと指摘する。

他には、コロナ禍で閉店した神保町「スヰートポーヅ」が1936年創業。古川緑波は先のエッセイで、赤坂「もみぢ」や神戸の中国料理店のメニューにあったと書いている。

戦前は、焼き餃子を「鍋貼」と書く。読み方は一定していなかったようだ。『中国料理と近現代日本』は、日中戦争までは「チョーツ」「チャオツ」など標準中国語に近い発音で呼ばれていた。

ライターの澁川氏に話を聞くと、「戦前には、餃子よりもシュウマイが人気でした。そして餃子を紹介するレシピの多くは、水餃子か蒸し餃子を教えていました」と言う。そういえば、「シウマイ」が看板料理の崎陽軒は1908年に創業している。『夕陽に赤い町中華』も、もともとはシュウマイのほうが定着していたが、蒸す工程が不可欠だったことから、炒め物が中心の町中華のメニューから消えていったことを記している。

シュウマイは、淡白で油脂が少なくあっさりめ。一方、焼き餃子は油で焼く。そして、ニンニク入りが定着していく。京都で1966年に中華料理店として創業した「餃子の王将」は商売が当初振るず、破竹の勢いだった萊萊を参考に、よりボリューミーな餃子を看板商品にして成功した。東京の萊萊羊肉館から始まった、パンチを効かせるニンニクが、チェーン店化で浸透していく。

澁川氏も、「ニンニクが餃子のレシピに入ってくるのは戦後」と指摘する。宇都宮みんみんの店主が北京で教わった餃子にも、ニンニクは中に入っていなかった。中国の餃子でニンニクはデフォルトではない。

フライパンの家庭への浸透も一役かった

油とニンニクでパンチを効かせたことが、焼き餃子成功の3つ目の要因だった。戦時下と敗戦時代を生き抜いた人々には、あっさりしたシュウマイや水餃子ではなく、パンチのある料理が好まれたのである。

家庭への浸透について澁川氏は、焼き餃子がフライパンを使う点に注目し、「この頃、フライパンが広く一般家庭に普及したんです。蒸すより手軽に料理できることが大きかったのではないでしょうか。そしてパンチが効いた味がご飯のおかずに向いていた」と話す。

都市部では、薪を使うかまどより火力が安定したガスコンロへ移行していて、フライパン料理がしやすかった。高度経済成長期には、全国でかまどからガスへと台所が変わり、焼き餃子を作りやすい環境が整う。

家庭で作りやすくなったのは、1950年にあずま屋製麺所(現東京ワンタン本舗)が餃子の皮を発売したことがきっかけで、「冷凍食品は1960年に市販されています。ラー油の登場は1966年。エスビー食品から『中華オイル』の名で市販され、ラー油をつける日本独自の食べ方が広まりました」と、澁川氏は興味深い指摘をする。

『きょうの料理』で最初に中国料理を紹介した、ハルビン出身の王馬熙純(キジュン)氏は、1958年に餃子のレシピを伝えている。このときニンニクは入っていないし、「熱いうちに酢じょうゆでいただくのがよい」と紹介している。

このように餃子は戦後、だんだんパンチが効く料理へと転換していっている。油を使って焼き、ニンニクが入り、酢じょうゆではなくラー油を使うようになる。同じ時代に広がったラーメンも、油脂を使ったパンチのある出汁がポイントだ。

肉食が表向き禁止された時代が長かったことから、長らく油脂を控える食文化が発達してきたが、戦争で栄養不足になり、騒然とした時代を生きる日本人は、カロリーとパンチを必要としていた。そのことが焼き餃子を求めさせたのではないだろうか。

パンチの効いた味は、病みつきになる。小麦粉の皮も、病みつきになる要因かもしれない。もともと日本では江戸時代から始まった、うどんその他の粉もの文化があった。数々の要因により、日本人はすっかり餃子のとりこになった。

近年は、トリュフやチーズ、スパイス入りといったアレンジ餃子を看板にする飲食店も増えている。さらにコロナ禍、外食が困難になり、テイクアウトに向く餃子の人気は高まる。宮崎市の躍進には、コロナ禍も影響している。

餃子は「したたかで戦略的」

全国各地で餃子の無人販売所が登場し、ブームになっていることもあるだろう。その中の1つ、群馬県水上の中華料理店「雪松」は、2018年9月に冷凍餃子の無人販売所を始め、全国各地に数百店にも拡大している。

もし餃子に人格があるとすれば、かなりしたたかで戦略的だ。戦後の食糧難、フライパンの流行、ストレスフルな社会で求められたパンチ、手軽さ。澁川氏によれば「何でも包み込む包容力」も魅力だ。

さらに5つ目の理由として、日本の侵略で激動の時代を経験した中国東北部が中心地という、ドラマ性の高さも考えられる。東京・蒲田を羽根つき餃子の町として認知させた「你好」は、満州で現地の女性と結婚した日本人男性の息子が開いた店で、その歩みがくり返しメディアに紹介されている。こうして定着した餃子は、今やすっかり日本人のソウルフードの1つになっている。

(阿古 真理 : 作家・生活史研究家)