「羽生結弦のスケートは、羽生結弦にしかできない」という次なる次元を示した北京五輪の演技は、報われなくても無意味ではない件。
これからも「羽生結弦」として…!
2月14日、世間がバレンタインデーで明るい気持ちに満たされるなか、ある意味で贈り物のような、ある意味で突きつけられるような言葉をたくさんもらいました。数多く寄せられる取材申し込みのすべてに応えるのは現実的に難しいことから、記者会見形式で行なわれた羽生結弦氏のインタビュー。そして、その後、日本の主要テレビ局を巡って、それぞれに独占で行なわれたインタビュー。じっくりと聞かせてもらいました。
言葉の多さ、内容の重さ、それらを汲み取るにはまず、すべてを本人の言葉によって聞くしかありません。言葉だけでなく、表情や、間、息遣いや迷いも含めて感じたほうがいいだろうと思います。それは書き起こしの記事だけでは不十分です。すべての映像が閲覧できる形で公開されているわけでもないので、すべてを紹介することはできませんが、自分でそれを見たよ、という人がいたら、互いの感想を感じ合えればと思います。僕は僕の感想を書きます。解釈違いや見当外れもあるでしょうから、自分の感想を持ったうえで、他人の感想と思っていただければと思います。
正直に言えば、今回の言葉たちはまだ聞きたくなかったなと思います。まだ話して欲しくなかったなと思います。試合直後のフラッシュインタビューのなかで漏れ聞こえる言葉は、揺れ動いていました。報われなかったことに涙する姿もあれば、報われた部分に救われている姿もありました。この出来事を受け止め、整理をするには少し時間が掛かるだろうと思いました。メダルがないことで、メダリストとして何かを聞かれる機会がないことに安堵していたくらいです。
もっとゆっくり、時間を掛けて、咀嚼してくれてよかったと思います。ただ休み、チョコレートを食べて、ゲームをして、エキシビションを滑り、家に帰り、空でも見ながら羽生結弦に考えて欲しかった。「もう答えは出ているよ」ということかもしれませんが、まだその先があるかもしれないでしょう。いくらでも時間を掛けて欲しかった。それぐらい大きくて重たいテーマだっただろうと思うからです。
何のために生きるのか。
誰にとっても普遍的なその問い。
その答えを出すのと同じような、答えに窮する問いと向き合わざるを得ない時間だろうと思うからです。
今大会、羽生氏が挑んだ4回転アクセルという夢。その夢のためにすべてを捧げ、身体を痛めつけ、氷に身体を打ちつけながら、生命を懸ける覚悟で取り組んできたのだろうと思います。これまですべてのことを言葉通りに成し遂げてきた人は、必ずその夢を叶えられると自分自身を信じていたはずです。ほかの誰がどう思おうと絶対にできると、そう思っていたはずです。
世のなかには「できない」と思っていた人もたくさんいるでしょう。練習での映像を見ればそう思うことは理解できます。回転はまだ足りず、一度の成功も披露されていません。何度も決めたジャンプでも試合ではミスが出る不確実な競技です。「できない」と思うことは無理もありません。
ただ、それは凡人の考えです。この格の選手は奇跡のようなことを起こせます。誰もが「できない」と思ったことをやってのける人がときにいます。凡人はそれを簡単に奇跡と呼びますが、才能と努力と天運によって成し遂げる人がいるのです。そういう人だけが競技を発展させ、新しい次元に進ませます。その人が「できる」と言うのだから「できる」のです。
そのために羽生氏はあらゆる手段で可能性を高めてきたはずです。練習や研究。節制と鍛錬。五輪という未曾有の舞台。勝利への渇望。人々の期待と重圧。最後は不慮の怪我というアクシデントすらも、支えてくれる人への感謝の念や、怪我によって一層研ぎ澄まされた心を得るためのきっかけとした。アドレナリンを出した。火事場の馬鹿力を発揮した。恐怖を超えて、渾身の最大出力を出した。
しかし、成功しなかった。
すべてを捧げて、なお成功しなかった。
「納得」「満足した」「最高点」「9歳の頃の自分自身に褒めてもらえた」といった言葉は前向きに自分を讃えるものではありますが、夢破れたからこそ出てくる言葉だろうと思います。まだ策があり、可能性を感じ、「できる」と思える心があれば、そういう表現はしないでしょう。破れた夢をそれでも愛おしむように抱き締めながら、もう自分以外の誰にも軽々しく触れて欲しくないと突き放された気がします。
この夢は何だったのか。この時間は何だったのか。何のためにやってきたのか。すべてが無駄になってしまったかのように思える挫折のなかで、そこに意味を見い出すしかない出来事に、今羽生氏は直面しているのだろうと思います。学んだことは何もなかった。成し遂げたことは何もなかった。無意味だった。そう思いそうになる自分自身を否定しないと、本当に何もなくなってしまう。あの震災のなかで救えない命を救おうと頑張った人や、助からない命でもがいた人の頑張りを思いながら、無意味だと思いそうになる自分を懸命に否定しようとしている。なのに、難しい。
だから、何を得たのかと問われたとき、ときにそれは質問で返ってくるのだろうと思います。何も得ていない。何も残っていない。無意味だった。そう思いそうになる自分がいるから、もしも何か知っている人がいるなら教えて欲しい。自分は何かを得られたのでしょうか。何かを届けられたのでしょうか。何もないような気がしてしまうのですが、何かあったのでしょうかと。
「ある」
「ある」とだけ言います。具体的に何がと問い詰められても「ある」とだけ返します。たぶんその答えには失望されるでしょうから。認定されましたよ。感動しましたよ。素敵でした。歴史を作りました。後世に影響を与えました。そうした答えはとうの昔に自分自身のなかで試され、失望していることでしょう。そんなことでは納得できないから聞くしかないのですよね。もう意地の張り合いのようですが「ある」とだけ連呼します。「ある」「何が」「ある」「何が」「ある」「ないんだろう」「ある」と。
ここで言い負かされるわけにはいかないなと思います。僕も望み、僕の心が動いた出来事が、無意味だなどとは、たとえ本人であっても言わせない。この戦いに臨む前から、たとえどんな結果で、本人がどんな様子であろうとも、満面の笑顔で「ある」の一点張りで押し戻そうと決めているのです。こちらが「ある」と伝えなければ、それこそ報われないことになってしまうでしょう。あなたは僕のために跳んだのです、そう伝えれば、たとえどんなに自分自身が失望していても、すべてを無意味にはできないはずだ。あなたのなかには何もなくても、ここにある。そういう人がたくさんいる。巡って話を聞くといいでしょう。みんな、「ある」と言うはずです。
もしも4回転アクセルが決まっていたら、4回転アクセルが決まるような演技であれば、言おうと思っていたことがあります。羽生結弦はもうファギュスケートという競技の枠の外に出てしまっています。勝ち負けの先に新しい世界を作ってしまっています。「決まって勝った」ときには、その演技が更新する価値観によって競技が違う次元に進んだだろうと思いますし、「決まってなお負けた」ならそれはもう競技ごと終わってしまうような出来事だったろうと思います。
フィギュアスケートをスポーツや競技として見たとき、そこには何らかの勝ち負けの基準が必要です。より多い回転数のジャンプを跳んだら得点が上がり、試合に勝つのはおかしなことではありません。勝つためにその基準を攻略するのは致し方ないことです。羽生氏が「下で回る」と表現する、踏み切り前に半回転するようなジャンプもそのひとつです。
世界の大半の人は下で回っていてもわからないのです。見分けがつかないのです。見分けがついたとしてもどちらでもいいと思うのです。中継する人やお金を払う人、見て楽しむ人、多くの人にとって、さしたる重大事ではないのです。この問題に特に関心がある人も、スノーボードの技は何が何回転してどこでどう着地しているのか、よくわからないだろうと思います。さして気にしていないだろうと思います。そんなものです。
本当に勝ち負けだけがしたいなら、そうした攻略法を使う道もあった。しかし、やらなかった。研究はしたけれど、それは羽生結弦のジャンプではないと、否定した。それは競技のなかで勝ち負けを追うことより、大事なものがあったということです。誇りや、美意識や、価値観を重んじたのです。
それでいいと思います。それはこれから大事になってくる次の次元の話だと思います。今大会、スノーボードは判定を巡って揺れました。そう遠くない将来、競技としてより公正になるために、回転数や回転方法が数値化されるようになるでしょう。そして、より高い得点を目指した攻略が始まるでしょう。
それは一定の成功を遂げ、やがて閉塞するはずです。人間が回転できる数には限界があります。10回転技をやられたら11回転技で返すなんてことは不可能です。どこかで皆が同じようになり、行き詰ります。そのとき「スタイル」と呼ばれる個性が再び求められるのです。無意味なもの、数値化できないもの、ただし心を動かすもの。優れていることだけでなく、理由なく心を揺さぶるものが求められるのです。
4回転アクセルへの挑戦は、まさしくそうした「スタイル」であり、「個性」であり、「生き様」でした。人生を捧げて求めた羽生結弦のスケートでした。一番高得点がついている技が決まって、人生を捧げたスタイルが表明されたとき、「そういうものが勝たないといけない」という価値観の更新が起きただろうと思います。「4回転アクセルを決めた天と地と」は、きっとそういう演技だっただろうと確信しています。心揺さぶられ、すべてを超える演技になっただろうと。そして、「こういうことなんだ」と価値観ごと更新されただろうと。
転倒2回という演技にはなりましたが、あの演技だったからこそ心動かされている人は確かにいます。転倒などのシリアスエラーを2回したら振付や音楽の解釈まで点数が引かれるような無意味なルールが、まさしく無意味であることを感じている人は確かにいます。誇り高いジャンプを知っている人がいます。音楽と一体となったひとつながりの演技に魅了される人がいます。勝って一足飛びに時計を進めるには至りませんでしたが、そうでなくても心は動きます。少しずつ価値観は広がっていきます。こんなことを言っても報われないかもしれませんが、そうした価値観に憧れた選手が後につづき、広がっていくような未来もあるだろうと思います。
「羽生結弦のフィギュアスケートは、羽生結弦にしかできない」
そういう演技をしたこと、そういう演技を選んだことは決して無意味ではない。
それはきっと、後の世でこそ認められるようなものだろうと思います。
胸を張って欲しいと思います。
#北京冬季オリンピック #フィギュアスケート
- 毎日新聞写真部 (@mainichiphoto) February 14, 2022
#羽生結弦 選手が記者会見に臨みました。写真は深々と頭を下げる羽生選手#Beijing2022 #北京2022 #HanyuYuzuru
今日の練習と記者会見の写真特集を更新します→https://t.co/rs6OGZxXQI pic.twitter.com/Zap8OBUbR1
先のことは、今度こそじっくりと時間を置いたうえで言葉にして欲しいと思いますが、僕は次の五輪を目指したほうがいいんじゃないかと思い始めています。目指して欲しいではなく、目指したほうがいいんじゃないかな、という気持ちです。次はまた4つ年を取りますし、怪我も減ることはなく増える一方でしょう。一層難しい大会になるだろうと思います。
しかし、そういう時節だからこそ浮かび上がるものがあると思います。今大会で連覇が途切れた羽生結弦だから示せるものがあると思います。報われた者しか言えないことがあるように、報われなかった者しか言えないこともあります。その両方を持っている人は特別です。次はきっと「何のために出るのだ」と問われるでしょう。そのとき4年後の羽生結弦が出す答えが楽しみなのです。たぶん、それは「何のために生きるのだ」とほとんど同じ内容になるでしょうから。
いい答えが出そうな気がします。
いい生き様が示されそうな気がします。
まぁ、舞台は大きいほうがいいんじゃないかと思うだけなので、五輪に限った話ではありませんし、必ずしもスケートである必要もないのかもしれませんが。ただ、世界の人にそれを見せずに、日本の人が独占してしまったりするのは、少し申し訳ないなと思うくらいです。エキシビション、出てくれるようなので、存分に楽しみます。羽生氏を褒める会がどこかで別途行なわれたら、とても嬉しいです!
↓会見お疲れ様でした!ハッピーバレンタイン!
#フィギュアスケート 男子#羽生結弦 選手から #バレンタインデー のメッセージ😘
- TEAM JAPAN (@Japan_Olympic) February 14, 2022
ハッピーバレンタイン🍫👋#ValentinesDay#HappyValentinesDay2022#Beijing2022 #TEAMJAPAN #がんばれニッポン #オリンピック pic.twitter.com/pxn5QAsNse
↓僕がジジイだったら、この動画で死んでたかもしれないぞ!危険過ぎる!
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- TEAM JAPAN (@Japan_Olympic) February 14, 2022
📞#羽生結弦 選手から電話⁉️
╰━━━━━━━━━━━━━╯#フィギュアスケート 男子
羽生選手から『電話風メッセージ』👋#Beijing2022 #TEAMJAPAN#がんばれニッポン#オリンピック pic.twitter.com/9CdQ515UWr
心の臓がドキッとしたわ!
もうちょっとビジネスモードにしておいて欲しい!
「お世話になっております」で始まる程度の!
「羽生氏を褒める文集」とか「羽生氏を褒める映画」とかにも期待です!
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