ゴミ箱に、ハリー・ウィンストンの紙袋。送り主を知った女が、婚約者と暮らす部屋を飛び出した理由
「彼以外を、好きになってはいけない」
そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。
人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。
これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。
◆これまでのあらすじ
大介という彼氏がいながら、年末から年下のバーテンダー・守と付き合っている美津。大介から正式なプロポーズをされたため、守ときっぱり別れる決意をした。しかし大介と住む自宅のゴミ箱から、ハリー・ウィンストンの空の紙袋を見つける。
「なにか隠していることがあるんじゃない?」
美津は、中身の入っていないハリー・ウィンストンの紙袋を、大介に突きつけた。
昨日大介は、連絡なく一晩帰ってこなかったのだ。そんなことは、これまで一度だってなかった。
きっと彼は浮気をしていて、相手の女にハリー・ウィンストンのアクセサリーをプレゼントしたのだろう。美津はそう勘繰っていた。
― プロポーズしてくれたばかりなのに、裏切ったの?そんなの許せないわ。全部白状させる。
怒りで唇を震わせながら詰め寄る。自分がこれまで行ってきた数々の不貞については、もはや忘れ去っていた。
というのも、自分から守に「別れたいの」とLINEをしたことで、守との不貞については既に精算されたように感じていたからだ。
守からはぱったり返信がないが、それは守の問題である。
― 少なくとも今は、大ちゃんに隠すようなことは何もないわ。
だからこそ、大介の裏切りが許せないのだ。
「黙ってないで、説明してよ」
ソファに座る大介を鋭い目で睨みつけた。
すると不意に大介の口元が歪み、狂ったような笑い声が漏れ出てくる。
「…え、なに?大ちゃん、怖いんだけど」
笑い出すという予想外の言動をみせた大介に動揺し、美津は一歩後ろに下がった。
そんな美津に遠慮せず、大介は笑ったまま目を見開いて、ゆっくり話し始める。
「教えてあげるよ、美津。怒りたいのは僕だから…」
大介が語り出すと、美津の表情がみるみるうちに変わり…
「BARオノダの誠司さんの、弟…守くんっていったよね?彼がね、昨日の夕方すぎに、うちのマンションを出たところのベンチに座ってたんだよ」
― 守くんが?
ひそかに息を止めた。自分の行いがばれてしまったのか。ヒヤリとし、無表情になっていく。
「守くんはこの寒い中、君を待ってたんだ。その紙袋を渡すためにね。それで、紙袋の中には…指輪が入ってた」
大介は、美津が手に持っている紙袋を指差した。美津は言葉も出ず、パチパチと瞬きをしながら大介を見つめ返す。
「…彼は、なんか言ってたの?」
「うん。僕を見つけて、なぜかびっくりしてた。あれ、なんでここにいるんですか?もしかして、美津さんとまだ会ってるんですか?って」
「……」
「『まだ会ってるんですか』ってどういうこと?守くんに、僕と別れたとか言ったわけ?」
美津は細い指でこめかみを押さえた。ゆっくりと首を横に振ることしかできない。
「いいえ…」
「僕は説明したよ。美津と僕は、正式に結婚することになったって。そしたら守くん、黙ってこの紙袋を渡してきたんだ。それから走り去っていったよ。呼び止めても、聞かなかった」
守の驚く表情や、落ち込んで肩を落とした姿が、ありありと想像できた。罪悪感が、一気に湧き出てくる。
「ねえ。聞かせてもらっていいかな?美津は、守くんとどういう関係なんだ?」
ソファに座ったまま、大介は美津を見上げた。ぽかんと開けたままになっている口が、次の言葉を待っている。
「別に…。ちょっと、仲良くしてただけよ」
「仲良くしてただけ?」
大介は、泣きそうな表情のまま鼻で笑った。それからゆっくり立ち上がって美津を見下ろす姿勢になる。
「仲良くしてただけで、指輪を贈るかな?」
「……」
「しかも、ここのブランドって、すごい高価なやつでしょ?僕は、ああ、そういうことか、と思ったよ。つまり美津は、守くんと浮気してたんだなって。そうだろ?だから昨日は、1人になりたくて家を空けたんだよ」
いつもは穏やかな大介も、乱暴な言葉遣いになっていた。
美津は、必死で考える。
― ハリー・ウィンストンの指輪…。守くん、もしかして私にプロポーズしようとしてくれたのかな?
守とは、一方的に「別れたいの」とLINEを送ってしまって以来、連絡が取れていなかった。でもきっと彼は、なんとか自分のことを繋ぎとめようとして、指輪を用意したに違いない。そう理解した。
「…大ちゃん、その指輪は今どこにあるの?」
「は?」
「だって紙袋の中に入ってないでしょう?どこにやったの?」
大介の答えに、美津は、部屋を飛び出し…
「そんなの聞いてどうする?」
貧乏ゆすりを始めた大介に、すがるようにもう一度聞いた。
「いいから、どこにあるのよ?」
美津は、守が自分のために指輪を選び、マンションの下で待っていたときの気持ちを想像していた。
きっと、美津がまだ大介と付き合っているなんて夢にも思わず、ただ会いたい一心で美津の帰りを待っていたはずだった。
「教えて…」
「どこにあるかって?高価なものだから、オノダの店の住所に送り返したよ。誠司さんがどうにかしてくれるはずだ」
そう答え、大介は刺すような目で美津を見た。
「なあ、美津。そんなに興奮してさ、やっぱりただの友達じゃないでしょ?本当のことを言ってよ」
すべてを話すべきときが来た。そう悟ったものの、包み隠さずに本当のことを告げたら一体どうなるだろうと不安に思う。
― 誰が、こんなに嘘にまみれた女と一緒にいてくれるだろう。どうしよう。このままじゃ何もかも失ってしまうわ。
心の底から、自分の行動を悔やんだ。最高の結婚相手を選ぼうとして、結果すべてを失うなんて…馬鹿みたいだ。
― どう言ったら、すべてが丸く収まるかな。
「なんか言えよ」
いらだちを顔に浮かべた大介は、呆れたように再びソファに座った。
「うん…でも、ちょっと、待っててもらえる?」
まずは守に話を聞こう。そう思ったのだ。
― 守くんが、本当に私にプロポーズしようのしていたのなら、ちゃんと考えたい。話はそれからよ。
美津は、バッグを手に取りコートを羽織った。
― 守くんはまだ若いわ。そして大ちゃんよりかっこいい。それなのに結婚を考えるほど、真剣に私を愛してくれていたってこと?
その可能性に、うぬぼれたかった。
4年間付き合い、プロポーズを受けた大介という存在を前にしながら、こうして大介を失いそうになってみると、まだ守という選択肢を捨てきれないのだった。
そそくさと部屋を出ていく美津。その姿を、大介は座ったまま横目で見送った。
ヒールをはいて、玄関ドアを開け、足早にエレベーターホールへと向かう。
下向きの矢印が描かれたボタンを連打してエレベーターに乗り込み、すぐさま守に電話をかけた。
コール音がしばらく鳴ったあと、守が応答する。
「…もしもし?」
美津は、語りかけた。
「ねえ守くん。今どこにいるの」
「え?…山下公園」
マンションのエントランスホールを出て、目の前の大通り沿いでスッと左手を上げる。
― 早く、早く。山下公園に。
空車の赤い表示をともらせたタクシーが、美津のそばでゆっくりと停まった。
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公園のベンチにいた守。美津にそっと笑いかけて言ったこととは?