お小遣い月3万円の専業主婦、ブランドバッグを買おうとしたら夫が…
恋に仕事に、友人との付き合い。
キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。
すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす?
▶前回:「いつの間に妊娠していたの?」友達の近況に焦る29歳OL。仕事で多忙な彼女が求めた安息の場所
Vol.5 Wish Listに眠っていた、憧れのハンドバッグ
週末14時の豊洲。
― このファミリータウンで、ひとり、スタバへと向かう私は女性と映るのか、それとも母と映るのか?
「俺が篤人を映画館に連れていくから、その間ゆっくり休んでよ」
夫の裕一はそう言って、6歳になる息子の篤人を連れて駅前の映画館へと出かけていった。
コンサル勤務の裕一は、平日の帰りは遅いけれど、週末は子どもとよく遊んでくれるし、年収も1,500万円をこえる。
でも、時々少しの後悔のような、寂しさとともに考えてしまうのだ。私って、もう母親でしかいられない―?と。
注文したソイラテを受け取ってテーブルに置き、愛読するファッション誌を開く。
『結局使えるのは、黒の名品ハンドバッグ!』
ちょうど、3月にある篤人の卒園式で使えるバッグを探していた佳帆は、そのページで手を止めた。
― やっぱり素敵だなぁ…。
20代のころ、Wish Listに入れていたバッグたち。読者モデルのママたちがバッグを持ってニッコリと微笑む画を見て、佳帆はいつも同じことを思う。
― この値段のバッグ、みんなどうやって手に入れているの?
佳帆のお小遣いは月3万円。電車で10分の銀座は、もう何年も行っていない。
― 仕事を辞めなければ違ったのかしら…。
佳帆は初めて夫と大ゲンカした、数年前の春を思い出していた。
佳帆が裕一と大ゲンカした理由とは?
5年前の春
「ねえ、本当に第一希望しか書かなくて大丈夫かな…、ここ、激戦区らしくて…」
「でも仕方ないだろう。あそこの保育園は園庭がかなり狭かったし、大通り沿いのは建物が老朽化している。篤人を納得いかない保育園には通わせられないよ」
「うん、それはそうだけど…」
正直、1歳になった篤人の保育園探しに、裕一がこんなにも介入してくるとは思っていなかった。自分の誕生日にも休みを取りたがらないのに、保育園の見学日にはあっさり有休を取ったのだ。
― 5つ年上のせいか、裕一さん、怒らないかわりに、あんまり私の意見は採用してくれないのよね…。もし落ちちゃったら、私、仕事はどうしたら…?
聞きたいけれど、なんとなく聞きづらい。佳帆の年収は300万程度で、夫の1/5しかないのだ。
当時、多くの同僚は“退職できる結婚”を望んでいたと思う。だから佳帆の結婚は羨望を集めたけれど、佳帆自身は仕事を辞める気はなかったのだ。
「やっぱり、欲しいものは自分で買いたいし…」
そう言うと、実家が裕福な同期の美紀は可笑しそうに笑い、彼女の胸元で、ヴァンクリのアルハンブラが揺れた。
「佳帆って他人に頼れないタイプだもんね。仕事もたくさん引き受けちゃうし。幸せになってくれて、なんか安心した。神様はちゃんと見てくれてるんだなぁ〜って思って」
そんなやりとりをしたことを覚えている。その後妊娠して産休に入る前、美紀とは育休明けのランチを約束して別れた。
なのに―、保育園の結果はやっぱりダメだったのだ。
「全落ちか…」
とこぼす夫に佳帆は珍しく突っかかった。
「いやいや、ひとつしか書いてないけど?私の仕事はどうなるの。裕一さんが絶対に大丈夫って言うから…」
「今さら仕方ないだろう。佳帆だって、絶対に復帰したいとは言わなかったじゃないか。それに、僕はちゃんと君たちを養えるよ。『大丈夫』っていうのはそういう意味でもあってさ…」
饒舌な夫を尻目に、しばらく佳帆は冷戦状態を続けた。けれど、現実はどうしようもない。
佳帆:このまま、退職することになりそう。
美紀にそうLINEを送って、職場をフェイドアウトするように去った佳帆は、専業主婦になることを受け入れたのだった。
日曜日、ずっと会えていなかった美紀を初めて自宅へよんだ。
「景色も素敵だね〜」
3年ぶりに会う美紀がベランダの窓際に立って、外を眺めている。美紀は赤羽橋で一人暮らしをしているから、本音ではないかもしれないけれど。
サラリと流れるロングヘアと、すっと伸びた背筋。美紀は裕福なうえに、昔も今も、同性でも見とれる容姿を兼ね備えている。
豊洲駅で、ザ・ロウのマルゴーを持った彼女が、ベビーカーを押すママたちに挟まれている姿はなんだかファンタジー感があった。
「美紀、これお祝い。もう2年経っちゃうけど…転職おめでとう。仕事はどう?」
ネットで取り寄せた、Minimal(ミニマル)のチョコレートを差し出す。美紀はウェブ系の広告会社へと転職していたのだ。
正直、仕事の話はあんまりわからなかったけれど、表情から充実感は伝わる。
いつもどこかふわふわしていた美紀が、大人の女性になっていて、時間の重ね方が全く違うことを痛感した。
― あんなふうに年をとることもできたのかなぁ…。
「実は、豊洲って初めてなの。みんな幸せそうね。自分がベビーカー押している姿って想像できないけど、もう35歳なのよね」
美紀のようにはもうなれないし、ブランドバッグは遠くから見るもの。そんな佳帆に夫は…
帰り際、美紀のバッグを褒めると、最近買ったお気に入りだと教えてくれた。新しいバッグは何歳になってもテンションをあげてくれるらしい。
「…テンションのあがる買い物かぁ。最近、自分のためにお金をかけてもいいって気持ちになれなくて」
佳帆は昔から遠慮しすぎなのよと、美紀は笑った。
◆
「それ、懐かしいなぁ」
その晩、篤人を寝かせて紅茶を飲みながらリビングでくつろいでいると、裕一がテーブルを指さして言った。
テーブルの上にあるのは昔、裕一がプレゼントしてくれたティファニーのバイザヤード。
「美紀ってお洒落だから、私もまたアクセサリーつけようかなって気分になって、磨いていたの」
「初めての誕生日プレゼントだよな、それ。付き合って1ヶ月だったから、あんまり高価なものも変かなと思って、シルバーにしたんだよ。でも、そんなに大事にしてくれるなら、プラチナにしとけばよかったな。
…そういえば、前から思っていたけど、佳帆はいつもモノを大切に扱うよね」
裕一が改まってそんなことを言うので、佳帆は思わず勘ぐってしまう。
「いや、篤人が自分からスパイク磨かなきゃと言ってたんだ。やっぱり親の姿を見て育つんだな〜と思ってさ」
教育熱心な、裕一らしい発言だ。
「そういえばさ…、佳帆もたまには欲しいものとか買ってる?引っ越してきた当初は銀座まで10分か〜!なんて言ってたのに、めっきり行かなくなって」
まさか夫に心配されているとは、意外だった。
― 自分にはもうお金をかける価値がないって決めつけていたのは私なのかも…。
実際、職場を失ってから出かける機会もぐんと減るのに加え、裕一は必要なものは生活費から出してくれるので、月3万円のお小遣いはほとんど手つかずだ。
ふと、Wish Listに眠っていたあのバッグが浮かんだ。
「篤人のね、卒園式用に新しいバッグを買おうかなってちょうど思っていたの、いいかな」
「もちろん、好きに使ってよ。ハイブランドでも構わないから。中途半端なものより、いいものを買った方が、佳帆なら大事にきっと長く使える」
裕一がそう背中を押してくれたのだった。
◆
次の週末、久しぶりに佳帆は銀座の中央通りを歩いていた。買い物に出かける喜びを味わうなんていつぶりだろう。
裕一に、ブランドものを買っていいと言われたことより、持つにふさわしいと言ってくれたことが、買う決心につながった。
思い返せば、20代の頃、お金がたまってもハイブランドを買わなかったのは、30代になってふさわしい自分になってから買おうと決めていたから。
下調べをもとに、ヴァレクストラとセリーヌを中心に見て回る。
イジィデとセーズで悩んだけれど、最後の決め手になったのは、20代の頃からの憧れだ。
イジィデのシンプルで端正なフォルムは、初めて目にした時から変わらず胸がときめいた。
ショッピングバッグを手に帰路につくころには、すっかり自分の街が恋しくなっている。
「ママ、買い物楽しんできてね!」
そう言ってサッカー教室へ出かけていった篤人に、早く会いたい。少しだけ退屈に感じていたあの街は、自分の大好きな人たちがいる街なんだとふと気づかされた。
― たまには自分のこと、楽しませてあげなきゃな。篤人には、“楽しむ”姿をあんまり見せてあげられていなかったかも…。
手段は買い物だけじゃない。もっとたくさんあるはず。
『篤人が小学生になって落ち着いたら、もう一度働きたい』
長いこと胸に秘めていた思いがふと浮かぶ。仕事を辞めて、結局家庭はうまくいっているからと伝えずにいた言葉。
― 裕一さんに伝えてみようかな…。
佳帆は前向きな気持ちで、そんなことを考える。「ただいま」を早く言いたくて、足取りは一段と速くなった。
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