ビートルズ「最後のライブ」はなぜ屋上だったのか
(写真:Martin Wahlborg/iStock)
エミー賞9度受賞のほか、エドガー賞、米国人文科学勲章、アメリカ文学界奉仕功労賞を受賞している米国でも有数のストーリーテラーの名手ジェイムズ・パタースン。その著者が、ポール・マッカートニーをはじめとする関係者への独占インタビューを盛り込み、ビートルズ結成60周年、解散50周年、ジョン・レノン射殺から40年の節目であった2020年12月、満を持して上梓したのが、ニューヨークタイムズベストセラーにもなった『The Last Days of John Lennon』でした。
今回はその翻訳書『ジョン・レノン 最後の3日間』の中から、Chapter32・35・37・39から抜粋し、東洋経済オンライン限定の試し読みとして4日連続・計4回に分けてお届けします。
一緒にいようよ――「レッツ・ステイ・トゥギャザー〈Let’s Stay Together〉」
ビートルズは、『ハード・デイズ・ナイト』や『ヘルプ!』の撮影にも使われたトゥイッケナムのスタジオに戻った。
英国での10枚目のアルバムとなる『レット・イット・ビー(Let It Be)』(当初タイトルは『ゲット・バック(Get Back)』になるはずだった)の制作過程を追った映画を作ることになったのだ。
撮影監督には、『ローリング・ストーンズのロックンロール・サーカス(The Rolling Stones Rock and Roll Circus)』(この作品は結局お蔵入りとなり、1996年まで公開されなかった)の監督を務めたマイケル・リンゼイ=ホッグが選ばれた。
この企画についてバリー・マイルズは、「あれもまた、ポールのアイディアだった」と説明している。
タイトル・ソングの「レット・イット・ビー」は、10年前、1957年に亡くなった母マリーが、ポールの夢に出てきたことに着想を得て書かれた曲だった。
「僕たちは、またツアーに出るべきだと思うんだ」
1968年のクリスマス前、ポールが言った。
「小さなバンドが、旅をしてクラブやなんかで演奏する。初心に戻って、そういう僕たち本来の在り方を思い出そうよ」
ポールの言葉の背後には、ビートルズが初めて直面しつつある新たな問題があった。金銭的なプレッシャーだ。
というのも、その年の10月、ビートルズは、財務状況の窮状を訴える専属会計士からの手紙を受け取っていた。そこには、1万ポンドの支出につき12万ポンドの収入がないと、莫大な額の税金を支払うことができないと記されていた。
このころまでに、アップル社の経営は、深刻な悪循環に陥っていたのだった。
「もう、これで終わりだ」
映画『レット・イット・ビー』のラストを飾るコンサートについて、リンゼイ=ホッグは、あるアイディアを膨らませていた。サハラ砂漠か、あるいは大型客船を舞台として、さまざまな文化の人々がともに集い、世界平和を祈るという、壮大な案だ。
「ビートルズが、日の出とともに演奏を始めるんだ」
リンゼイ=ホッグは4人に説明した。
「そこに、1日かけて方々から人々が集まってくる、っていうのはどうだろう」
「ローマの円形劇場のレプリカを作って、そこに僕たちがライオンを何頭か率いて現われるっていうのはどうかな」と、ポールが提案した。
「リバプールに戻ろうよ」とリンゴが割って入る。
「キャバーン・クラブ〔ビートルズが初めてギグをした場所〕にさ」
ジョンの案は、こうだった。
「僕は、アシュラム〔以前ビートルズが瞑想訓練で数カ月滞在したインドの僧院〕でやったらどうかと考えているんだけど」
なんといっても、世界一のバンド、ビートルズの映画だ。見たこともないような、大胆なエンディングが必要だった。
一方、ジョージにも考えがあった。
「もう、これで終わりだ」
カメラが回る中、ピリピリしたムードで続けられていたリハーサルの7日目の昼食中、ふいにジョージが言った。
「クラブで会おう」
ジョージはそのままスタジオから出ていき、14歳で加入したバンドを去ったのだった。
ジョンは、これを聞いても落ち着いていた。
「月曜か火曜になってもジョージが戻らなかったら、エリック・クラプトンにギターを弾いてもらえばいいさ」とジョンは言い放った。
それは、それほど突飛な案というわけでもなかった。9月の初め、『ホワイト・アルバム』の収録中に、ジョージはクラプトンを招いて「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス(While My Guitar Gently Weeps)」を録音していたのだ。
「考えなきゃいけないのは、もしジョージが辞めたとして、それでもビートルズを続けたいのかってことだ。僕は、続けたい。だれかほかのメンバーを入れて、前に進むだけだ」と、ジョンは皆に告げた。
「屋上でやったら素晴らしいんじゃないだろうか」
ジョージは1969年1月10日にビートルズを脱退し、1月15日に戻ってきた。だが復帰後も、ツアーを再開するという案にジョージは断固として反対した。
1月29日になっても、コンサートシーンの撮影場所は決まらないままだった。
そしてついに、あるアイディアが降ってきた。ジョンはリンゴに意味ありげな顔をしてみせ、こう言った。
「屋上(ルーフトップ)でやったら素晴らしいんじゃないだろうか。ウェスト・エンド中に向けて演奏するんだ」
ジョンはリンゼイ=ホッグに向かっていたずらっぽく微笑んだ。ロンドン市民を驚かせたゲリラ・ライブ計画は、こうして始まった。
翌1月30日の午後1時、アップルの幹部たちは、サヴィル・ロー3番地の本社ビルの屋上に集まるようにという緊急通知を受け取った。現地ではすでに、仮設ステージを組み立てる大道具スタッフや、ケーブルの束を抱えたエンジニアたちがあたりを走り回っていた。
ジョンたちは頭を寄せ合って、曲目をもう一度確認した。4人揃って人前で演奏するのは、じつに4年ぶりだ。ジョンは、緊張でおかしくなりそうだった。
だがそれはポールたちも同じことだった。ジョンは、彼らの目にも緊張がありありと現われているのを見て取った。
「ステージに出たくない」と、ジョージがごね始める。「だいたい、なんのためにこんなことするんだ?」と、リンゴもぼやいた。
こんなとき、ゴーサインを出すのは、やはりジョンの役目だった。
オープニング・ナンバー「ゲット・バック」
ヨーコの毛皮のコートを羽織り、眼鏡を直すと、ジョンは楽屋から屋上へと続く階段を登り始めた。
その日はテムズ川から強風が吹いていて、ヘリコプターからの空中撮影はできそうになかった。こうなると、メンバーのクローズアップのショットと、通りに集まる人々のショットをうまく繫いでいくしかない。
ジョンの手は、ギターの弦を押さえられないほど冷え切っていた。彼は用意されたギターをどうにか手に取り、ビリー・プレストンの見慣れた顔を見やった。
ビリーは、1962年にビートルズがリトル・リチャードのバック・バンドとしてツアーをしたときに出会ったアメリカ人のR&Bキーボーディストで、電子ピアノでこのセッションに参加していた。
ケン・マンスフィールドは、4本のタバコに火をつけた。吸うためではなく、ジョージの指先を温めるためだ。
オープニング・ナンバーの演奏が始まった。「ゲット・バック」だ。
通りすがりの人々がビルの前で歩みを止め、次々に上を見上げて、空を指し始める。
「その通り」とジョンは言ってやりたかった。
ビートルズのフリー・コンサートだ。1966年のキャンドルスティック以来、初めてのライブが、たったいま、きみたちの頭上で始まったのさ。
この様子を文字通り通行人の頭上から捉えていたのが、アメリカ人カメラマンのイーサン・ラッセルだった。
ジョンから依頼を受けたラッセルは、屋上から隣のビルの壁によじ登るという危険を冒して、演奏するビートルズの姿を頭上から撮影することに成功した。
ロンドンの街を背景にしたジョンとポール、ジョージ、リンゴ――世界で最も有名なロックローラーたち――の姿は、周りを取り囲むほかのすべての人々と同様に、小さく見えた。
「彼らも、普通の人間なんだ」
シャッターを切るラッセルの心を、そんな思いがよぎった。
ビートルズ、伝説のラストライブ
ビートルズはこの日、42分間にわたって5曲を披露した。
「ゲット・バック」は3バージョン、「ドント・レット・ミー・ダウン(Donʼt Let Me Down)」と「アイヴ・ガット・ア・フィーリング(Iʼve Got a Feeling)」は2回ずつ演奏したので、テイクは9回分だった。
ロンドン警視庁からやってきた警官たちは、アップル本社のビルを取り囲み、スタッフにこう言い渡した。
「10分間やる」
とはいえ巡査たちとて、もちろんビートルズのファンだ。約束の10分が過ぎても、すぐに演奏を止めることはしなかった。
そしてついに、警察がビル内部に立ち入り、屋上に向かった。スタッフたちは念のため、大急ぎでトイレに駆け込んでドラッグを流した。
警察が屋上に辿り着いたところで、コンサートは終了した。ジョンは、マイクに向かって語りかけた。
「バンドを代表して、お礼を言いたいと思います。オーディションに合格できたならいいんだけど」
ポールとジョージ、リンゴは、これを聞いて微笑んだ。4人の胸にある想いは、同じだった。
僕たちはいまでも、世界最高のロックンロール・バンドだ。このルーフトップ・コンサートがビートルズとして最後のライブになるかもしれない予感はあったか、と2019年のインタビューで聞かれたポールは、こう答えている。
「いいや、そんなふうには感じなかったよ。ほかのメンバーも同じじゃないかな。ただたんに、たくさんの曲を書いてリハーサルをした成果として、あそこで演奏しただけだった」
だが終わりというものは、必ず訪れる。予感のあるなしにかかわらず。