大人気のビートルズに忍び寄る不穏な影とは…・・・?(写真:Martin Wahlborg/iStock)

エミー賞9度受賞のほか、エドガー賞、アメリカ人文科学勲章、アメリカ文学界奉仕功労賞を受賞しているアメリカでも有数のストーリーテラーの名手ジェイムズ・パタースン。その著者が、ポール・マッカートニーをはじめとする関係者への独占インタビューを盛り込み、ビートルズ結成60周年、解散50周年、ジョン・レノン射殺から40年の節目であった2020年12月、満を持して上梓したのが、ニューヨークタイムズベストセラーにもなった『The Last Days of John Lennon』でした。

今回はその翻訳書『ジョン・レノン 最後の3日間』の中から、Chapter32・35・37・39から抜粋し、東洋経済オンライン限定の試し読みとして4日連続・計4回に分けてお届けします。

レノンがマルクスの本を読んでいるあいだに……
――「アメリカン・パイ〈American Pie〉」

ある日ジョンは、ヨーコにこう告げた。

「革命について自分が感じていることを、表現したいんだ」

「革命」という言葉は、インドに滞在して以来、ジョンの頭の中でぐるぐると回り続けていた。

ジョンとヨーコは、毎日ニュースを追いかけた。新聞は毎日、今日もどこかでだれかが暴力の犠牲になっていることを伝えていた。

ジョン・F・ケネディが暗殺され、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺され、ベトナムに送られた50万人近くの米兵のうちの2万人が戦死していた。

1968年5月31日にビートルズが新しいアルバムの録音を開始したとき、ジョンは各方面から集中砲火を受けるであろうことは承知のうえで、ある思い切った行動に出た。

ジョンより7歳年上のヨーコは、もともと、自分が正当な扱いを受けない限りジョンも彼女自身も幸せにはなれないと主張していた。

「私には対等な時間、対等な空間、対等な権利が必要よ」

「なんだよ、契約書でも交わせってのか?」

「そういう態度なら、私はここにはいられない。それが私の答えよ」

いまのジョンにとって、ヨーコの不在ほど受け入れがたい事態はなかった。

そこで彼は、長年守られてきたバンドの掟――レコーディング中のスタジオには妻やガールフレンドを連れ込まない、というルールを、破ることにしたのである。

「50年くらい経ったら」

ヨーコがスタジオに来るようになったときのことを、ジョージは「彼女はただ、当たり前のことのようにスタジオに入ってきた」と描写している。そして、ポールやリンゴ、ジョージ・マーティン、スタジオ・エンジニアたちも、同じ印象を抱いていた。

その中でだれよりも理解を示したのは、ポールだった。

「別に最悪の事態ってわけじゃないよ」とポールは言った。

「若い2人を、一緒にいさせてやろうじゃないか」

だがそのポールでさえ、ピリピリした空気に気圧されて、こんな冗談を言わずにいられなかった。

「50年くらい経ったら、めちゃくちゃ笑える話になるんじゃないかな。『ビートルズ解散の原因は、ヨーコがアンプに腰掛けたことだった!』なんてさ」

レコーディングは、ジョンの「レボリューション(Revolution)」のブルージーなアコースティック・バージョンから始まった。アルバムには「レボリューション1(Revolution1)」として収録されたこの曲を、シングルとしてリリースしたいとジョンは考えていたのだ。

だがポールとジョージは、アルバム版はテンポがスローすぎると判断し、シングル・カット用にエレキ・ギターが唸る別バージョンを録音し直すことを決めた。レコーディングが始まり、ジョンはフル・ボリュームでエレキ・ギターをかき鳴らしたが、それでも目指すサウンドには程遠かった。

「ダメだ、ダメだ。ギターをもっとダーティーなサウンドにしたいんだ!」と、ジョンはエンジニアのジェフ・エメリックに向かって叫んだ。エメリックは思案の末、2つのプリアンプを繫いで過大入力を送り込み、歪んだ音を作り出すことに成功した。

「僕らの社会は、狂った目的のために動かされている」

幸い、奇跡的にもこの手法で機材がオーバーヒートして爆発することはなかったが、皆の苛立ちは過熱する一方だった。ジョンとヨーコは2人きりで「レボリューション9(Revolution9)」の録音に取り掛かっていた。

これは、当初10分以上の長さがあった「レボリューション1」のオリジナル・テイクから、ラスト部分に入っていたさまざまな音――テープ・ループや詠唱、サウンド・エフェクトなど――を使った、「サウンド・コラージュ」だった(「9」という数字はジョンにとって意味のあるものだった。誕生日が10月9日で、リバプールでニューカッスル・ロード9番地に住んでいたからだ)。

「あれは、ジョンの曲であると同時にヨーコの作品でもあったんだ」とエメリックは言っている。

「でも少なくとも、ビートルズの作品ではなかったよ」

(『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』の批評家は、このトラックを『(ホワイト・)アルバムの顔面にできたニキビ』と呼び、「どこかのだれかが2分おきに戻ってきては、『ナンバー・ナイン、ナンバー・ナイン』と繰り返す曲」と描写している)

ジョンは、ヨーコの意見を何よりも重要視した。

「ヨーコが、僕の中にあったあらゆる創造性を刺激してくれた。これは、彼女が僕の創造性を引き出してくれた、ということであって、彼女をインスピレーションとして曲を書いた、ということではない。『レボリューション』で語っていることは、すべて僕自身の考えだ」

ジョンは、自著『絵本ジョン・レノンセンス』(1964年)と『らりるれレノン』(1965年)を題材とした舞台『イン・ヒズ・オウン・ライト(In His Own Writes)』の開演に先立ち出演したBBC2の番組でも、「レボリューション」で表現した思想について滔々と語った。

また、6月6日に放送されたインタビュー番組でも「僕らの社会は、頭のおかしな連中によって、狂った目的のために動かされている」と、ジョンは話した。

「この国や、アメリカの政府、それにロシアや中国の政府がやっていることの真実、つまり、やつらのやろうとしていること、やつらの本当の目論見をだれかが新聞で報じてくれたらいいんだけどね。やつらは全員、狂ってると僕は思うよ」

「レボリューション」について、ポールは「政治的な要素を堂々と出した曲で、革命について歌ってる。素晴らしい楽曲だよ」としてジョンを擁護した。

役者たちの声はジョンに向けられたヤジでかき消された

6月18日、ジョンはロンドンのオールド・ヴィック・シアターで行なわれた舞台『イン・ヒズ・オウン・ライト』の初日にヨーコを伴って現われた。

2人はお揃いの服に身を包み、最前に並んで座った。

その日まで、ジョンが妻のシンシアのもとを去り、ヨーコと付き合い始めたこと、そしてヨーコがすでに妊娠2カ月であることを知っていたのは、内輪の人間だけだった。

芝居が始まると、役者たちの声はジョンに向けられたヤジでかき消された。

「奥さんはどこだ?」

「シンシアはどうした?」

と彼らは怒鳴った。

「知らないよ!」

ジョンは怒鳴り返した。

劇場の外では、怒り狂ったファンたちが「チンク〔中国人に対する蔑称〕」、「リバー・クワイ〔ベトナムにある川の名前〕」、「イエロー」等と口々に叫んでいた。

2人が外に出ると、だれかがヨーコに向かって黄色いバラの花束を茎のほうから突き出した。ヨーコの手には、バラの棘が突き刺さった。

翌朝には、ジョンとヨーコの関係は世界中に知れ渡っていた。これはジョンにとって、2年前のキリスト発言以来、最大のスキャンダルだった。

騒動の真っ最中、ジョンは叔母のミミにヨーコを会わせるために、海辺の町プールを訪れた。

ミミはこのころ、1965年にジョンが2万5000ポンドで買ったビーチ・サイドの平家に住んでいた(家はその後売りに出され、2018年時点の売値はわずか950万ドル弱だった)。

「ジョン、その辛気臭い女はだれなの?」とミミが尋ねた。

「ヨーコだよ」

「私、アーティストなんです」とヨーコが付け足す。

「変ね」とミミが返した。

「あんたの名前は、いま初めて聞いたけど」

同じころ、シンシアもこの現実に直面していた。イタリアでの休暇から戻ったシンシアはビートルズのオフィスに電話をかけて伝言を残したが、いつまで待ってもジョンからの返事はなかった。

彼女が夫の声を聞くためには、もはや彼の新しいレコードを買う以外なかった。

「僕のもとを去っていいよ」

「レボリューション」のA面となった「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」について、ジョンはこう回想している。

「ポールは、僕の息子のジュリアンのためにあの曲を書いたと言っていた。僕がシンシアと別れて、ジュリアンのもとを去ろうとしてたことを知ってたからね」

続けてジョンは、こうも言っている。

「でも聞いた話では、あれは僕に宛てた歌だったんだ。ちょうど、ヨーコが僕の人生に現われたころだった。『彼女を捕まえにいけよ(go and get her)』という歌詞で、ポールは無意識のうちに僕に語りかけてるんだ。『僕のもとを去っていいよ』とね」

ジョンの解釈が正しいとすれば、それはビートルズを通したジョンとポールのパートナーシップの解消を意味していた。

ある日、ポールがロンドンの地下にあるハシシの吸えるクラブ・ヴィオ・クラブを訪れ、未発表の音源を店内で流したとき、そこに居合わせた何人かの客が発売前の「ヘイ・ジュード」を耳にするという幸運にあずかった。

その1人であるミック・ジャガーは、曲が終わるとポールに歩み寄ってこう言った。

「おい、すげえ曲だな。まるで2つの曲みたいだ」

「ヘイ・ジュード」の演奏時間は7分以上あり、7インチのシングル盤に収録された音源としては異例の長さだった。

「最後の部分は、あんなに長くするつもりはなかったんだけどね」とポールはミック・ジャガーに説明した。


「結果的にああなったからオーケストラもつけたけど、そもそも僕が『ジュディ、ジュディ、ジュディ、ワーオ!』ってのを止められなくなったっていうだけなんだ。盛り上がったケーリー・グラントみたいだよね!」

1968年の夏は、不安定な社会情勢を象徴する出来事が続いた。8月26日にアメリカで「ヘイジュード/レボリューション」が発売された(英国でのリリースは8月30日)2日後、民主党全国大会が開催されていたシカゴのヒルトン・ホテル前で、反戦デモを行なっていた市民が国家警備隊と衝突した。

この大会では、現職のジョンソン大統領によるベトナム戦争拡大路線を支持するヒューバート・ハンフリーが、ユージーン・マッカーシーを抑えて次期大統領選候補に指名されていた。

デモの参加者たちは警備隊と押し合いながら、こう声をあげた。

「世界中が見ているぞ! 世界中が見ているぞ!」

そんな空気の中で、世界中が聞いていたのは、アップル・レコードからの第1弾シングルとなった「ヘイ・ジュード」だった。売り上げ枚数は1968年末までに世界で500万枚に達し、ビートルズにとってそれまでで最も多く売れたシングルとなった。