鬼平以上に恐ろしい?江戸時代、火付盗賊改方として活躍した横田松房の拷問
お江戸の治安を守るため、放火魔や盗人、博徒の取り締まりに当たった火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)。
時代劇「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」のモデルとなった鬼平こと長谷川平蔵宣以(はせがわ へいぞうのぶため)のみならず、多くの者たちがこの任を務め、時に鬼よりも恐れられたと言います。
今回はそんな一人、横田大和守松房(よこた やまとのかみとしふさ)を紹介。果たしてどんな鬼ぶりだったのでしょうか。
火付盗賊改方に就任するまで
横田松房は江戸時代中期の延享元年(1744年)、徳川将軍家の使番・横田松春(としはる)の子として生まれました。
ここで歴史ファン、特に戦国ファンならピンと来るかも知れませんが、松の字を「とし」と読ませる武将に、武田二十四将の一人・横田高松(たかとし)がいます。
お察しの通り横田松房、通称源太郎(げんたろう)はその子孫で、代々「松」の字を受け継いできたのでした。
さて、源太郎は第10代将軍・徳川家治(とくがわ いえはる)、第11代・徳川家斉(いえなり)の2代に仕え、書院番士から中奥番士、江戸城西ノ丸小十人組頭、同西ノ丸目付と順調に昇進。
そして天明4年(1784年)に御手先弓頭、火付盗賊改方に就任したのですが、古来「朱に交われば赤くなる」と言うように、日頃から凶悪犯を取り締まってばかりいたせいか、自然に性格も苛烈になってしまったようです。
石抱きに一手間かけて……泣く子も黙る「横田棒」
「手ぬるい!もっと厳しく責め上げよ!」
囚人の自白を促すため、拷問にもより苦痛を与えられるよう創意工夫を凝らしたと言いますが、その一つとして威力を発揮したのが「横田棒(よこたぼう)」。
「それは?」
「これを膝の裏に入れて、石を抱かせれば……フフフ」
ご存じ石抱き(別名:石責め、算盤責め)とは洗濯板状の板に囚人を正座させ、その膝上に重石を乗せて脛を痛めつける拷問。
石抱きを受ける囚人。Wikipediaより
その正座している膝の裏に棒を入れることで、囚人の脛だけでなく太腿にも苦痛を与えられるというスグレモノ?です。
「ヒえぇ……」
果たして横田棒が導入されたことにより、石抱きの苦痛はみごとに激増。囚人は震え上がったと言いますが、過ぎたるは猶及ばざるが如しとはよく言ったもので、苦痛に耐えかねた囚人の死亡が相次いでしまいます。
「拷問は自白を引き出すのが目的であって、殺してしまっては意味がないわい」
という訳で間もなく横田棒の使用は禁止され、平常モードでの石抱きが再開されたという事です(それでも十分過ぎるほどの苦痛ですが)。
エピローグ
しかしそれでも拷問の激しさは変わらず、毎年夏になると囚人たちの傷口が膿んで蛆も湧いてきます。苦痛の余り垂れ流された汚物なども、想像を絶するものだったことでしょう。
かくして拷問場を兼ねていた源太郎の屋敷からは異臭がただよい、近隣の者たちはそろって屋敷の配置換えを希望したのでした。
「何だまどろっしい。そんなモン、拷問にかけりゃいいだろうが!」…なかなか性格が改まらなかった源太郎(イメージ)
明けて天明5年(1785年)、作事奉行に昇進して火付盗賊改方をお役御免となった源太郎でしたが、どうも凶悪犯を取り締まっていた頃の癖が抜けず、殺伐とした言動が目に余ったため、天明7年(1787年)には新番頭に左遷されてしまいます。
そして寛政12年(1800年)1月8日、57歳で世を去ったのですが、あの世では少しでも安らかに過ごして欲しいものですね。
※参考文献:
高橋義夫『火付盗賊改 鬼と呼ばれた江戸の「特別捜査官」』中公新書、2019年2月丹野顯『江戸の名奉行 43人の実録列伝』文春文庫、2012年12月