2019年にポスティング制度を利用し、トロント・ブルージェイズに移籍した山口俊が2年ぶりに日本球界に復帰した。6月11日には巨人への入団会見が行なわれ、23日のDeNA戦での先発が予定されている。

 コロナ禍で大幅に日程が短縮された昨シーズンは、17試合に登板(すべてリリーフ)してわずか2勝。今年2月に自由契約になったあと、サンフランシスコ・ジャイアンツとスプリット契約を結んでいた。そこから古巣の巨人に戻った山口は、会見で「結果しかないと思っている。登板時はしっかり投げていけたら」と抱負を語った。今後、巨人が首位・阪神を追撃するための起爆剤となれるかに注目が集まっている。

 今シーズンの開幕前には、田中将大がニューヨーク・ヤンキースから楽天に電撃復帰を果たしたが、これまでもメジャーリーグから日本球界に復帰してチームを支えた投手は多い。復帰の時期やメジャーでの実績は違うが、過去にメジャーから"出戻り"した先発投手の中で、特に活躍が印象的だった5人を振り返る。


2015年にヤンキースから広島に復帰した黒田博樹

【メジャーで花開き、最下位に沈む古巣を支えた苦労人】

 山口も在籍していた2010年の横浜に、12年ぶりに復帰したのが大家友和だ。京都成章高から1993年のドラフト3位で横浜に入団した大家だったが、その後の5シーズン挙げた勝利はルーキーイヤーの1勝のみ。横浜が38年ぶりの日本一に輝いた1998年オフ、メジャー挑戦のために自由契約となり、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。

 2Aのチームからスターしたものの1年目でメジャー昇格を果たし、レッドソックスに在籍した2年半で6勝をマーク。2001年途中にトレードで移籍したモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)では、2002年から2年連続2桁勝利を挙げるなど活躍。その後も3チームを渡り歩き、メジャー10年間で51勝を積み上げた。

 横浜に復帰して1年目の2010年は、先発ローテーションの一角として、チーム2位の7勝(9敗)を記録した(※チーム最多勝は10勝11敗の清水直行)。同シーズンの横浜はわずか48勝しかできず、5位の広島からも10.5ゲーム離される最下位。特に投手陣はチーム防御率4.88と崩壊したが、大家はそんな苦しい台所事情を支えた。

 翌2011年は未勝利に終わり、このシーズン限りで自由契約に。その後はBCリーグ(現ルートインBCリーグ)の富山や福島、アメリカ独立リーグでのプレーを経て2017年に引退し、現在は横浜DeNAベイスターズの二軍投手コーチを務めている。

【技巧派に転身した、元日本最速右腕】

 星野仙一監督率いる阪神が18年ぶりのリーグ優勝を勝ち取った2003年。先発ローテーションの一翼を担ったのが、7年ぶりに日本球界に復帰した伊良部秀輝だった。

 同年に13勝を挙げた伊良部は、かつて所属したロッテの本拠地、千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)で開催されたオールスターゲームにも先発として登板。久々の凱旋で球界を盛り上げた。

 ロッテ時代は、日本を代表する速球派として鳴らした伊良部。最多勝(94年)、2度の最優秀防御率(95、96年)、最多奪三振(94年、95年)といったタイトルもさることながら、1993年5月3日の対西武戦で、清原和博を相手に日本最速記録となる158キロ(当時)のストレートを投じるなど、記憶に残る多くの名勝負を演じた。

 そして1997年、物議を醸した「三角トレード」の末、ニューヨーク・ヤンキースに入団。さまざまな非難の声に晒されたものの、1998年には13勝、翌1999年には11勝を挙げ、ヤンキースの2年連続世界一に貢献した。

 その後、エクスポズとテキサス・レンジャースでプレーし、2003年に阪神に入団。技巧派に転身した伊良部は、速球と速度差が大きいフォークやスローカーブを織り交ぜて打者を手玉に取り、同年のリーグ優勝の原動力になった。

 翌2004年は未勝利で戦力外通告を受けると、実業家への転身を経て、北米の独立リーグ、四国九州アイランドリーグ(現四国アイランドリーグplus)の高知ファイティングドッグスでプレー。2010年1月に引退を表明した。

 だが、それからわずか1年半後の2011年7月、わずか42歳で帰らぬ人に。多くのファン、関係者が突然の別れを惜しんだ。

【高額オファーを蹴って古巣に復帰した「男気」エース】

 2016年の、25年ぶりとなる広島のリーグ優勝は、黒田博樹の存在なしでは語れない。

 専修大学を経て、1997年ドラフト2位で広島に入団した黒田は、2001年シーズンから3年連続2桁勝利を挙げるなどエースとして活躍。2005年には最多勝のタイトルを獲得し、最優秀防御率に輝いた2006年にはFA権を取得するも、国内では"生涯広島"を貫くことを宣言してチームに残留した。

 2007年オフに、FA権を行使してロサンゼルス・ドジャースに入団。4年間で41勝を挙げると、2012年からはヤンキースでも3年連続で2桁勝利を記録した。特にクオリティ・スタート(6回以上を投げて自責点が3点以内)を達成する試合が多く、安定したピッチングが光った。

 39歳になった2014年オフにFA権を取得すると、サンディエゴ・パドレスが約21億円のオファーを出すなど複数の球団が獲得に動くなか、古巣を優勝させたいという思いから、推定年俸4億円の広島に8年ぶりに復帰。その「男気」は多くのプロ野球ファンを驚かせた。

 復帰1年目の2015年は11勝、翌2016年も10勝を挙げて日米通算200勝を達成。ベテランらしい円熟味のある投球と、勝利への執念をチームに示し、リーグ3連覇を達成する広島の礎を作った。

 2016年の日本シリーズ初登板(第3戦)では、日本ハムを相手に6回途中1失点の好投。大谷翔平をレフトフライに打ち取った直後にマウンドを降り、その日本シリーズの終了後に引退を表明して20年間の現役生活に幕を下ろした。日米通算203勝という成績や、広島復帰を決断した「男気」などが評価され、黒田がつけていた背番号15番は広島で3人目の永久欠番に指定された。

【ヤクルト黄金期を支えた快速左腕】

 今シーズンから楽天を指揮する石井一久も、現役時代の2006年にメジャーからの日本球界復帰を経験している。

 1991年のドラフト1位でヤクルトに入団すると、150キロを超える速球と、大きく曲がるスライダーを武器に活躍。最優秀防御率(2000年)や、2度の最多奪三振(1998年、2000年)のタイトルを獲得するなど、球界を代表する左腕に成長した。ヤクルトに在籍した10年で5度のリーグ優勝、4度の日本一を成し遂げ、チームの黄金期を象徴する投手のひとりだった。

 ヤクルトが日本一に輝いた2001年オフ、ポスティング制度を利用してドジャースに入団する。加入初年度の2002年は、打球を受けて頭蓋骨を骨折するアクシデントがありながら14勝を挙げ、2年目以降は9勝、13勝、ニューヨーク・メッツに移籍した2005年は、故障の影響もあって3勝に終わった。

 翌2006年には、古田敦也がヤクルトの選手兼任監督に就任したことを受けて日本球界への復帰を決断。同年にチームトップの11勝をマークした。翌年オフにFA権を行使して西武に移籍してからも先発として存在感を放ち続け、初年度の2008年には11勝を挙げて4年ぶりの日本一にも貢献。帰国後の活躍期間が短めになることが多い"出戻り"の投手陣において、ヤクルトでの2年で20勝、西武での6年間で45勝を挙げるなど長く活躍した。

 日米通算で182勝の白星を積み重ねた石井は、2013年に引退。契約社員として吉本興業に入社して幅広く活躍していたが、2018年に楽天のGMに就任。今シーズンは指揮官としてリーグ優勝、日本一を目指している。

【メジャーでは不完全燃焼も、輝きを取り戻した技巧派左腕】

 メジャーリーグで思うような成績を残せなかった投手でも、輝きを取り戻せる活躍ができるかもしれない。そんな希望を抱かせるのが、2015年に日本球界に復帰したソフトバンクの和田毅だ。

 早稲田大を経て、2002年自由競争枠でダイエー(当時)に入団すると、ルーキーイヤーの2003年に14勝を挙げてチームの日本一に貢献し、新人王にも輝いた。その後も5年連続で2桁勝利をマークするなどチームを支え、2010年は17勝で最多勝、最優秀選手のタイトルも手にしている。

 翌年も16勝をマークし、シーズン終了後に海外FA権を行使してボルチモア・オリオールズに移籍。だが、トミージョン手術を経験するなど、メジャー移籍後の2年間は登板ゼロに終わった。

 2013年末にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、翌年7月にメジャー昇格してから4勝。実力の片鱗を見せたものの、2015年はケガが重なって1勝にとどまり自由契約に。同オフ、5年ぶりに古巣に復帰した。

 2016年シーズンは、メジャー4年間の鬱憤を晴らすような快投を披露し、15勝をマークして最多勝利と最高勝率のタイトルを獲得。翌年からは、左ひじの手術、左肩痛の影響で離脱する時期もあったが、2020年は8勝してわずか1敗。今シーズンも、防御率は4.41ながら4勝(6月22日時点)を挙げるなど、40歳を迎えた今も活躍を続けている。