令和の元号を発表した現在の菅総理の言葉が「感情がない」「響かない」と、批判を浴びている。

「小泉旋風」「小泉劇場」など国民を巻き込むことに長けた総理は、いかにして、どんな言葉で、国民を熱狂させたのかーー。

「自民党をぶっ壊す!」

 2001年4月15日、渋谷駅前では自民党総裁選に立候補して絶叫する小泉純一郎氏と田中眞紀子氏が乗る選挙カーを、数千人の聴衆が取り囲んだ。

「駅構内、井の頭線への連絡通路、道玄坂、あらゆる場所に人があふれていました。スクランブル交差点は交通がマヒ。不測の事態を危惧した警察が演説をやめるように説得したほどです」と当時を取材した社会部記者。

 森喜朗総理が失言などによる支持率急落の責任を取り退陣を表明。後継総裁選の本選に小泉純一郎氏、橋本龍太郎氏、麻生太郎氏が出馬した。

「事前予想は橋本氏有利でした。が、小泉氏の小気味よくわかりやすい言葉と、人気絶大だった田中眞紀子衆院議員が『変人の生みの親として責任を取ります』と応援団になったことから小泉旋風が起きました」(全国紙政治部記者)

 小泉氏の逆転圧勝。そこに小泉氏の「言葉の力」があったことは間違いない。小泉氏の言葉の何がすごいのか。

 ベストスピーカー教育研究所のスピーチトレーナー・高津和彦氏は「自分の言葉を端的に話しているから」と言う。

「あらかじめ話す内容を原稿に書いておくと、どうしても長文になってしまいます。

 それを読んでスピーチをするから聴衆は『何が言いたいのだろう』と要領が得られず、結果的に言葉が心に残りません。

 一方、原稿に頼らず自分の言葉で話すと、一文自体が短文になり意味もわかりやすく聴衆は言葉に対する印象を強く受け取ります。

 小泉氏はそこがとても優れていて、次第に熱も入ってきますから、身振り手振りが大きくなりアピール力が増すのです。絶叫調も『私は正しい』というイメージが伝わります」(高津氏)

2001年、当時の小泉総理は山崎拓氏(写真左)を幹事長に

■「YKKの一角」山崎拓氏の証言

 象徴的なフレーズである「自民党をぶっ壊す」。この言葉はどのように生まれたのか。

 背景を盟友の山崎拓氏に聞くと「『自民党』の部分はアドリブでしょう」と苦笑する。意外な答えである。

「もともとは田中角栄さんが繰り広げた金権政治を“ぶっ壊す”と言っていたんです。1972年に田中角栄さんと福田赳夫さんが総裁選で戦った『角福戦争』が起きました。

 有利とみられていた福田さんが決選投票で敗れるどんでん返し。中曽根派が田中支持に回ったことが敗因でした。大きなお金が動いたともいわれています。

 私邸に帰った福田さんは、ヤケ酒を飲みながら金権体質を罵倒したそうです。そのときに福田さんの相伴をしたのが初当選前だった小泉さん。そこから“ぶっ壊す”の言葉が胸にあったのでしょう」

 まさに「自分の言葉」だったのだ。しかし、小泉氏は3回めの総裁選出馬には消極的だったともいわれていた。もし出馬しなかったら、あの名言を耳にすることはなかったかもしれない。

「消極的だったというのは違います。小泉さんは森さんと同じ清和会の所属。

 森さんの代貸的な立場で会長になっていたこともあり、森さんが『総理を辞める』と言うまでは、自分が手を挙げることができなかった。

 ただ出馬後に『今回も負けるだろうなあ。橋本さんは強いよ』とは言っていました。橋本さんは国民的人気が高く、所属していた平成研究会は党内第一派閥でした。

 加藤紘一さんも交えて『負けたら党を出てYKK新党結成だ』と話しました。『資金はどうする』となり、加藤さんが『新党結成資金は僕が作る』と意気軒高でした」(山崎氏)

2001年の自民党総裁選では、国民的人気があった田中眞紀子氏を応援団に

■「偉大なるイエスマン」武部勤氏の証言

 だが小泉氏は「負け戦」からの大逆転を狙っていた。味方につけようと白羽の矢を立てたのが、同じく話術が巧みで人気も高い眞紀子氏だった。

「小泉さんから『拓さん、彼女を味方につけたいんだ』と相談されました。私は『それは無理だよ。来るわけがない』と応じたんですけど『とにかく頼んでくれないか』と。

 平成研は角栄さんが率いた田中派のDNAを継いでいます。だから、平成研の橋本さんの対抗馬の小泉さんを、眞紀子さんが応援することは考えづらかった。だけど、打診するとOKでした。そりゃあ驚きました」(山崎氏)

 なぜ、眞紀子氏は小泉応援団になったのか。

「橋本氏は竹下派七奉行と呼ばれた竹下登元総理の側近。角栄氏はその竹下派にクーデターを起こされ失脚しました。眞紀子氏に、そのときの私怨があったことは想像に難くない」とは永田町事情通。

 総裁選後も「小泉語録」の数々は人々の記憶に残った。

 小泉時代に幹事長を務め、「偉大なるイエスマン」を自認した武部勤氏に聞いた。

「演説などでの言葉はすべてご自身で考えていました。『自分の考えを自分の言葉で語れないようでは政治家の資格がない』というお考えだったのではないでしょうか。

 先生はよく『論語』を読んでおられました。何十回も読み込まれていたようで表紙はボロボロ。論語から演説などのヒントを得ていたのでしょう。

 そして『今、国民は何を求めているのか』をいつも考えておられました。言葉のひとつひとつは強烈でも、皆さんにわかりやすくを心がけ、表現の細部にも注意を払っておられた記憶があります。自民党のポスター制作などにも細かな指示をいただきました」

 今でも語り継がれるエピソードがある。

 総理就任直後、小泉氏の顔が写されたポスターが作られた。そこには「小泉の挑戦に、力を。」のキャッチコピーが添えられていたが、最初は「。」がなかったといわれている。

 しかし、小泉氏が「歯切れがよくなる」と「。」の追加を指示。以来、ポスターのキャッチコピーの最後には「。」がつくことが定番になった。

 さらに武部氏は「政治家が、自ら発した言葉を国民に信じてもらうには、公私混同が最もいけません。小泉先生はそれがなかった。贈り物はアメひとつでも受け取りませんでしたから。それで国民に言葉が信頼されたと思います。『信なくば立たず』です」と言う。

■角栄氏と小泉氏と菅総理の違い

 歴代総理で演説の妙手といえば筆頭は田中角栄氏だろう。角栄氏と小泉氏の演説に共通点はあるのか、ないのか。角栄氏に関する著書も多い政治評論家の小林吉弥氏に聞いた。

「角栄氏の残した言葉に『政治は気迫とスピードのふたつしかない』があります。

 小泉さんは聴衆に受け入れられやすい、短いセンテンスのキャッチフレーズを絶叫して“気迫らしきもの”は確かにありました。

 しかし言葉だけが躍る感じで、そこに解説的なものはなかった。煙に巻くというか、回避しているようにも見えましたね。

 一方の角栄氏は気迫もスピードもあり、かつ数字にとても強かった。演説にもいろいろな数字を入れました。ごまかしがきかない数字は説得力があります。そこが小泉さんにはなかったことですね。大きな違いです」

「答弁ベタ」とされる菅義偉総理は小泉氏から学ぶことはあるのか。前出の高津氏は「機転を利かせること」と言う。

「衆院予算委員会で民主党の岩國哲人氏が外国の郵政民営化の成功例、失敗例を挙げ『がっかり、うっかり、ちゃっかりのどれを学ぶか』と質問。

 小泉氏は『各国の例を参考にしながら“しっかり”民営化させたいと思っております』と答弁。当意即妙の好例です」

 小林氏は「原稿棒読みは自分の言葉を持っていないイメージを持たれ、気迫を感じられません。官房長官時代は棒読みでもなんとかなったでしょうが、総理ですから目線はつねに国民へ向けられなければいけません」と指摘する。

 小泉総理時代の5年半の評価には賛否両論がある。だが、その「言葉」に国民は共感していた。

 次のページでは、小泉純一郎の10の名言・至言と略年譜を紹介する。

2003年、拉致問題関連活動で名を上げた安倍晋三氏を幹事長に任命する小泉総理(当時)

小泉純一郎 10の名言・至言

(1)「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力だ」(2001年5月9日、衆院代表質問答弁)

(2)「リーダーは孤独だ。それでも、一人でやらなければいけない時がある」(2005年4月1日、記者団に郵政民営化を問われ)

(3)「山を越え谷を越え、一度は谷底に突き落とされたけど、国民が引き上げてくれた」(2005年10月14日、郵政民営化法成立時)

(4)「昨日の敵は今日の友。今日の友は明日の敵。これが当たり前の世界だ。これをわきまえながら友情は育むことが大事だ」(2005年10月19日、自民党若手議員研修会で)

(5)「闘って敗れた負け組はほめられるべきで、むしろ闘おうとしない人が問題」(2006年2月1日、自民党若手議員研修会で)

(6)「私も引き際、散り際を大事にして、任期中は首相の職責を精いっぱい頑張っていきたい」(2006年4月15日、「桜を見る会」で)

(7)「国会議員になる夢を果たせず、去っていった人が多いことをかみ締めて行動してほしい」(2006年11月7日、新人議員研修会で)

(8)「政治家は首相だって使い捨て。一回一回の選挙ごとに使い捨てにされることを覚悟しないといけない。甘えてはだめだ」(2006年11月7日、新人議員研修会で)

(9)「土下座するようなことまで受け入れたのだから、復党を認めてもいいのではないか」(2006年11月29日、郵政民営化法案に反対して離党した議員について聞かれ)

(10)「支持率は気にすることはない。目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ」(2007年2月20日、国会内で中川秀直幹事長らに)

小泉純一郎 略年表

●昭和17年(1942年) 1月8日、神奈川県横須賀市に生まれる
●昭和35年(1960年) 神奈川県立横須賀高等学校卒業
●昭和42年(1967年) 慶應義塾大学経済学部卒業。ロンドン大学留学
●昭和45年(1970年) 衆院議員の福田赳夫氏の秘書に
●昭和47年(1972年) 衆院議員初当選(30歳)。以来、12期連続当選
●昭和54年(1979年) 大蔵政務次官
●昭和63年(1988年) 厚生大臣(竹下内閣)。翌年に宇野内閣で再任
●平成3年(1991年) 自由民主党筆頭副幹事長
●平成4年(1992年) 郵政大臣(宮澤内閣)
●平成8年(1996年) 厚生大臣(第二次橋本内閣)。翌年に第二次橋本改造内閣で再任
●平成13年(2001年)
4月、平成7年、平成10年に続いて、自由民主党総裁選に3回めの出馬。田中眞紀子衆院議員の協力を得て「小泉旋風」。第87代内閣総理大臣。党人事で山崎拓幹事長。
7月、参院選で大勝。
9月、米同時多発テロ発生。10月にテロ対策特別措置法を成立させる
●平成14年(2002年)
1月、国会の混乱などを受け、田中眞紀子外相を更迭。
9月、電撃的訪朝で日朝首脳会談。北朝鮮が日本人拉致を認める。
10月、拉致被害者5人が帰国
●平成15年(2003年)
3月、アメリカがイラクへ侵攻。6月に有事関連三法、7月にイラク特措法を成立させる。
9月、党総裁選で再選。第88代内閣総理大臣。党人事・内閣改造で安倍晋三幹事長。
11月、総選挙。民主党躍進
●平成16年(2004年)
5月、再訪朝。拉致被害者家族が帰国へ。
7月、参院選。民主党の獲得議席を下回り自民党敗北。安倍幹事長から武部勤幹事長へ
●平成17年(2005年)
8月、郵政解散。亀井静香氏らが自民党離党。
9月、総選挙。「小泉劇場」で自民党大勝。第89代内閣総理大臣。
●平成18年(2006年) 自民党総裁任期満了。総辞職して内閣総理大臣を退任
●平成20年(2008年) 政界引退

(週刊FLASH 2021年3月2日号)