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高木勇人(巨人→西武) 

「移籍を経験してよかったというか、『これが自分の道だったんだろうな』と思います」

 2020年はスポーツ界にとって試練の年だった。コロナ禍で行動が制限され、多くの選手がコンディション維持に苦しんだ。巨人などで活躍した投手の高木勇人も、その影響を大きく受けたひとりである。


2017年12月、人的補償で巨人から西武に移籍した高木 photo by Kyodo News

 高木は2014年のドラフト3位で巨人に入団。ルーキーイヤーに9勝を挙げたが、わずか2年後の2017年オフにFA人的補償で西武に移籍した。2019年オフには戦力外通告を受け、昨季はメキシカンリーグに挑戦するも、新型コロナウイルスの影響でリーグが中止に。シーズン途中からはルートインBCリーグ・神奈川フューチャードリームスでプレーした。

 人的補償による移籍以降、選手として厳しいキャリアを送ってきた高木だが、日本における移籍制度をどう捉えているのだろうか。

 高木は2017年12月、巨人にFA移籍が決まった野上亮磨の人的補償として西武に移籍した。球団から突然の呼び出しがあったのは、聞かされていた契約更改の日程よりも3週間前。その時点で高木は「人的補償か、トレードだろう」と予想した。苦しむ自分の状況を理解していたからだ。

「徐々にプロ野球に慣れていって、怖さも知ったというか。思うようにボールが投げられない試合も負けられないですし、常にいろいろ考えてしまって自分のよさがなくなっていたんだと思います」

 プロは数字がすべてということも承知していたため、予想していたとおりに人的補償が告げられた時も「違うチームに行ったらどうなるんだろう」と冷静に受け入れた。西武からは先発ローテーション入りを期待されていると聞いたこともあり、それに応えられるようにと頭を切り替えた。

 移籍となれば、環境や人間関係の変化を不安に思ってもおかしくない。しかし、その点は気にならなかったという。

「僕は、新しい環境に話せる人がいなくても大丈夫なんです。『誰と喋ろうか』とか、『自分から喋ったほうがいいのかな』とかは気にしないので。練習に関しても同様で、『その球団のやり方でやろう』という感じです。2016年のオフに海外(プエルトリコのウインターリーグ)に行った時は何もかも違ったんですが、そこで免疫がついたのか、国内のチームなら多少異なることがあってもそこまで影響はないですね」

 環境の変化に動じないマインド、"鈍感力"が、その後のキャリアにおける挑戦を可能にしたのだろう。しかし西武への合流初日に、高木は予期せぬ災難に見舞われて慌てふためくことになる。

「チームでの最初の顔合わせが出陣式の日だったんですけど、僕はまだ東京に家があったので、所沢の球場まではかなり距離がありました。それでも『さすがに2、3時間あれば着くだろう』と車で家を出たのですが、通り道だったレインボーブリッジから炎が上がっていたんです。事故で車が燃えて、完全に通行がストップ。映画(『踊る大捜査線』)では『封鎖できません!』となっていたのに(笑)。

 仕方なく回り道をしたら、今度は雪でストップ。結局は到着まで5、6時間かかってしまい、新入団選手紹介にも出られず、なんとか最後の写真撮影だけ間に合いました。出陣式はもう終わりかけで、みんなクスクス笑っていましたよ。隣の席が栗山(巧)さんだったんですが、『お前、いい度胸してんな』と冗談交じりに言われました(笑)」


神奈川フューチャードリームスでのプレーを経て、今年はメキシカンリーグに再挑戦 Photo by Mori Daiki

 西武での選手生活はハプニングから始まったが、同学年の熊代聖人や、1歳上で社会人時代に同じ東海地区のチームにいた郄橋朋己など、徐々に周囲との関係を深めていく。中でもチームへの合流をスムーズにしたのが、西口文也コーチの存在だった。

「西口さんは当時ブルペンコーチで、かなりイジってもらえたのが大きかったです。でもイジり方がひどくて、いきなり初日から『外様』と言われましたよ。そうやってチームを明るくする方だったので僕も助かりました。友達みたいに接していただいたから、すんなり溶け込んでいけたのかなと」

 西武に移籍して一番カルチャーショックだったのは、寮のセキュリティ面だった。現在の西武の選手寮「若獅子寮」は2019年7月に新設されたばかり。高木が移籍してきた当時はまだ旧施設で、1979年ら使用されてきた建物だった。

「西武では球団関係者じゃない人が間違って入ってきてしまい、迷っていたこともありました(笑)。一方で巨人は、セキュリティが何重にもあって、ちょっと窓あげたら警報が鳴ってしまうくらい。その分、一般の方との距離感はすごくありましたね」

 その新天地では思うような成績を残すことができず、高木はわずか2年で戦力外になった。2019年のトライアウトに参加したがNPB球団からオファーはなく、2020年はメキシカンリーグに挑戦。3月からキャンプに参加し、首脳陣からも活躍が期待されていたが、新型コロナウイルスの影響でリーグ戦が中止になる憂き目に遭った。

 その後、7月に帰国してBCリーグの神奈川フューチャードリームスと契約を交わす。シーズン途中からの加入で、外出を制限されていたメキシコ滞在中に思うように練習ができなかった影響もあり、7試合で2勝1敗、防御率5.11と本来のパフォーマンスを発揮できないままシーズンを終えた。

 年が明けて1月4日には、神奈川を退団して再びメキシコに挑戦することを発表した。西武への移籍を境に、選手として厳しい道を歩んでいるように見える高木だが、「むしろ移籍は積極的に行なわれるべき」と話す。

「日本では移籍が重く捉えられがちですが、もっと頻繁に行なわれて、FAの話題が薄まるぐらいになればいいなと思っています。今は、誰がFA宣言をして、誰が人的補償に選ばれたかが大々的に報道されるじゃないですか。でも、移籍が多くなれば選手も周囲の人たちも慣れていくんじゃないかと。

 移籍が決まっても『ちょっと行ってきます』くらいの感覚になるといいですよね。もう一度トレードされて戻ってくるなんてこともあっていい。今は、球団が変わると同等の条件を受けられるとは限らないので、その面でも選手にとってマイナスにならないようにしてほしいです。もちろん、選手自身がそれに甘えてはダメですが。やはりプロ野球選手としては、球団の"顔"になることを目指さないと」

 前述したとおり、プロ野球選手は数字がすべてであることは理解している。さまざまな外的要因があったにせよ、昨季も目に見える結果を残せず、もどかしく思う部分はあるに違いない。

 それでも高木は、逆境が続いてきた自身のキャリアを前向きに捉えている。

「人的補償になったおかげで西武に関われて、そこで戦力外になったことでメキシコにも行けて、神奈川フューチャードリームスでもプレーできた。その中でいろいろな方に出会えたことが財産になっています。『移籍していなかったらその後にどうなっていたか』なんて、誰にもわかりません。もちろんプロ野球でずっと活躍できるのもいいですけど、小さなコミュニティーに収まってしまった可能性もありますよね。だから移籍を経験してよかったというか、『これが自分の道だったんだろうな』と思います」

 巨人で将来を嘱望される立場から一転、波乱万丈な野球人生を歩んできた高木。しかし、まだ31歳で老け込む年齢ではなく、環境の変化も苦にしない強みはメキシコ再挑戦でもプラスに働くはずだ。

 将来、移籍やさまざまなカテゴリーでのプレー経験者として、当事者の視点から野球界に新たな提言をすることも可能だろう。そのためにも今は、現役選手として説得力ある結果を残す時だ。

高木勇人(たかぎ・はやと)
1989年7月13日生まれ。三重県津市出身。海星高校、三菱重工名古屋を経て、2014年ドラフト3位で巨人に入団。ルーキーイヤーに9勝を挙げた。2017年オフに人的補償で西武に移籍。2020年はルートインBCリーグ・神奈川フューチャードリームスでプレーし、2021年は再びメキシカンリーグに挑戦することを発表した。