東西冷戦期、日本周辺をよく飛んでいたミグ機に比べ、スホーイ機はあまり知られていなかったかもしれません。特にSu-15は高性能すぎて輸出禁止だったことも理由でしょう。一方で日本でもよく知られる、ある事件に関わっていました。

2番手時代スホーイの傑作機Su-15「フラゴン」とは?

 ロシア製戦闘機開発メーカーとして名高いミグ、そしてスホーイ。2020年現在でこそスホーイが圧倒的優勢となっていますが、冷戦時代のソ連製戦闘機といえば「ミグ」がその代表格であり、初の後退翼ジェット戦闘機ミグMiG-15の大成功以来、ミグは常に「初の」という言葉とともに語られました。一方、スホーイは冷戦後に優勢を決定付けたSu-27「フランカー」が登場するまで、ミグの陰にやや隠れがちな「2番手」でありました。


スホーイSu-15「フラゴン」迎撃戦闘機。ピーク時ソ連防空軍の3分の1を占めるという大成功を収め、その高性能さから他国へ供与されることもなかった(関 賢太郎撮影)。

 スホーイが2番手であったとはいえ、スホーイ機がミグ機に大きく劣っていたかというと決してそのようなことは無く、特に1960年代には、ミグを超えソ連が保有する最も高性能かつ重要な戦闘機と評しても過言ではないであろう機種の開発にも成功しています。その戦闘機の名はスホーイSu-15「フラゴン」です。

 Su-15は世界中で実戦経験が豊富な各ミグ戦闘機に比べ、実戦経験はほぼありません。知名度もよほど古い戦闘機が好きであるという人以外には無いに等しい機種ですが、「Su-15が何をやったか」については、恐らく多くの人がその記憶にあるに違いありません。1983(昭和58)年9月1日、ソ連防空軍のSu-15TMは主要兵装であるR-98空対空ミサイルによって、大韓航空のボーイング747旅客機を撃墜しました。

高運動性能+高性能電子機器搭載=Su-15

 1960年代までのソ連製戦闘機は、おおむね2種類に分別できました。

 まず小さく軽量であり、速度、上昇、加速などに優れる点に性能特化した機種で、こうした機の多くは最前線で敵と戦うことを主任務とするソ連空軍に配備されました。

 もうひとつは比較的大きいため、飛行性能は劣りますがレーダーなど搭載機器に優れ航続距離の長い機種であり、これらは空軍とは独立したもうひとつの航空部隊である「ソ連防空軍」へ配備されました。また防空軍は性能特化の軽量戦闘機も同時に保有し、これらは空軍型よりも搭載電子機器の点で優れていました。

 Su-15がなぜ最も高性能かつ重要な戦闘機であるといえたのか、それは軽量戦闘機と同等以上の飛行性能を有しながら、大型戦闘機と同等以上の搭載電子機器を有していたためです。


スホーイSu-9「フィッシュポット」MiG-21と同じ設計思想のもと開発。1962年に2337km/hを記録、F-4の1958km/hを塗り替え世界最速機となった(関 賢太郎撮影)。

 Su-15はスホーイSu-9の性能向上型として開発されました。Su-9は同時期に開発されたMiG-21と非常によく似た性能特化型に分類できる単発戦闘機でしたが、Su-15ではこのSu-9の設計をほぼ引き継ぎながら、エンジンを双発化し機体規模だけをそのまま拡大したのです。

 かなり強引ともいえる再設計でしたが、ともかくSu-15はSu-9と同等の性能を引き継ぎながら、ノーズの空気流入口を胴体側面に移設できたことで機首部に大型レーダーの搭載を可能とし、「飛行性能」と「搭載電子機器の充実」の両立を実現しました。

ソ連の空を守る防空軍へ配備された「門外不出」のSu-15

 Su-15の総生産数は約1300機であり、1万機を超えるMiG-21に比べれば圧倒的に少数ではありますが、世界中に売られたMiG-21とは違い全機が防空軍へ配備され、性能特化型と電子機器特化型の両方の後継となります。1980年頃にはソ連防空軍29個戦闘連隊へ800機から900機のSu-15が配備され、実に防空軍の3分の1がSu-15となり、残っていた原型機Su-9と合算すると防空軍の半分を占めるに至ります。

 そしてSu-15の全盛期に発生したのが、大韓航空ボーイング747撃墜事件でした。また1978(昭和53)年4月20日に発生した大韓航空ボーイング707不時着事件において、空対空ミサイルを射撃したのもSu-15でした。


後期の主力生産型Su-15TM。短距離離着陸能力改善のため主翼が「ダブルデルタ」となった。なお警告射撃用の機関砲ポッドを外装し747撃墜時も使用されている(関 賢太郎撮影)。

 Su-15は地上迎撃管制から全自動で標的まで誘導を行える、「ヴォーズドフ」と呼称するデータリンクシステムを搭載するなど高性能であったため、門外不出となりました。ソ連の防空を専門的に担うSu-15が想定する実戦とは、第3次世界大戦勃発による「米ソ核搭載爆撃機の殴り合い」でしたから、結果として実戦投入される機会はほぼありませんでした。

 体当たりによって撃墜(自身も墜落)という珍記録もあるにはありますが、Su-15は、冷戦中はほとんど知られることはなく、現在にいたるまであまり目立たない機種となってしまいます。しかし1980(昭和55)年前後においてソ連の空を守っていた主力は、紛れもなくSu-15でした。

 ちなみに1976(昭和51)年9月6日、新鋭機MiG-25ごと函館空港へ強行着陸、亡命したソ連防空軍のヴィクトル・ベレンコ中尉は、元Su-15のパイロットでした。もし彼がSu-15に乗り続けていたならば、日本におけるSu-15とMiG-25の知名度は逆転していたかもしれません。