親からの相続はモノだけではありません。実は目に見えないたくさんのものを親から“相続”しているのです(写真:PanKR/PIXTA)

週刊誌などメディアで数多く取り上げられ、人々の大きな関心ごとになっている「相続」。「相続とはお金や土地だけではない。むしろ目には見えない”こころの相続”こそが大切なことではないか」。国民的作家の五木寛之氏はそう言います。

コロナ禍で人と人の関係性が変わり、社会的距離が大問題となる時代、本当に考えていかなければならない「つながり」とは何か? 最新刊『こころの相続』を上梓した五木氏による、老親と離れて暮らす若い読者に向けた渾身のメッセージです。

「食事の作法」も相続である

以前、テレビを見ていたら若いカップルが語り合っている番組がありました。

神田伯山を相続した、いまもっとも注目されている若い講釈師と、滝沢カレンという女性が、ジョークをまじえて語り合っていたのですが、なにかの話題でラーメンがスタジオに運ばれてきたのです。それを二人が味見するという趣向でした。

箸をとる際に、二人がごく自然にちょっと手を合わせるしぐさをしました。それがほとんど無意識の動作と見える自然な反応だったので、なるほど、と感心したのです。

食事の前に手を合わせるのは、昔からの私たちの習慣です。特に宗教的な形式というより、家庭での当たり前の行儀でした。しかし、いまはそんな行儀もすたれて、ほとんど見かけなくなってしまったのですが、若い二人の出演者が、ひょいとごく自然に手を合わせて箸をとったのを見て、感慨を覚えました。フィジカルなアクションが相続されていると感じたのです。

おそらく子どものころから家庭でそんなしぐさが行われていたのでしょう。さりげないしぐさだけに、感じるところが多かったのです。

そのときふと思ったのは、親や家から相続するのは、財産ばかりではないのだな、ということでした。土地や、株や、貯金などを、身内で相続するのは当然のことです。

しかし、人が相続するのはモノだけではない。目には見えないたくさんのものを私たちは相続するのではないか。食べ方などは、その一つにすぎません。実際には驚くほど多くのものを、私たちは相続しているのかもしれません。

親が「話したがらない話」こそ資産

私は両親からいろんな話を聞く前に別れました。今にして思えば痛恨のきわみです。彼らがあと20年長生きしていてくれれば、そういう機会もあったかもしれません。とりわけ、親の成功談ではなく、負の部分、話したくなかったであろう話を聞いておけばよかったと思うのです。

両親の負の部分と言えば、その象徴は、父親の「ため息」と「うき世のばかが起きて働く」というつぶやきです。そして、それを憐れむように見つめていた母の、父に向けるまなざしです。そこには、おそらく、何か鬱屈したものがあったはずなのですが、それを聞かなかった私は、それを知ることができません。

しかし、こんなつまらない失敗談など話してもしょうがないと思うような話のほうに、生き方の参考になる要素が詰まっていることもあります。ですから、いやいやながらでもつい話してしまうような話を聞きたかったと思います。

ただし、話してもらうためには、それなりの技術が必要だったのかもしれません。それは、根掘り葉掘り聞くしつこさです。

「そんな話をしてもしょうがない」

「その話はしたくない」

と言われても、それでも聞きたいと繰り返し言えば、きっと話は出てくるはずです。

私は最近、相続することを拒否するかのようなCM広告を見ました。ある企業の営業部の風景を映し出したものでした。営業のベテランが、新人に自分のたくましい脚の筋肉を見せて、「営業は脚でやるものだ」と説教します。すると、それは古いとして、「イッツオールド営業」という言葉が流されます。これからの営業はデスクでやるものだということのようです。

これは、私の思いとは逆に、相続を切る、という発想です。古い伝統にとらわれないということが、現代的ということでしょう。そういう主張を目にするたびに、ふとこんな言葉を思い出します。

「天(あま)が下に新しきものなし」

これは『旧約聖書』に原典があるようですが、「長い人間の歴史の中には、必ず先例があるものだ」という意味で、新しい方法だと言ってみても、百年まえ、五百年まえ、千年まえ、あるいは、つい何十年まえに、誰かがやっているのですから。

「その話は何度も聞いたよ」はNG

私は、以前から忘れっぽいところがあって、周囲に迷惑をかけることがしばしばありました。

人と会う約束を忘れたり、原稿の締め切りを忘れたりするのです。さらに困ることはダブルブッキングです。いくつかの仕事を重ねて引き受けてしまって、当日大騒ぎになることも少なくありませんでした。また、新しい電化製品を買ったときも、使い方をしっかりとメモをとって覚えたつもりなのに、3日も経てば忘れてしまって立ち往生する始末です。

人と話していても、前に言ったことを忘れて、たびたびちぐはぐな会話になります。たとえば、

「その話は昨日しましたよ」
「そうかなあ、すっかり忘れていたよ」
「それについては、これまで3回も説明しています」
「3度あることは4度あるというじゃないか」
「それは行きすぎ、2度あることは3度あるんです」

という具合です。これでは、そのうち誰も相手にしてくれなくなるかもしれないと心配になります。

『日刊ゲンダイ』の連載記事に、精神科医の和田秀樹さんが書かれている認知症に関するコラムがあります。和田さんの話によれば、人の記憶には2通りあるそうです。1つはエピソード記憶です。これは、昔体験したことや、できごとを覚えていることをいいます。もう1つは意味記憶です。これは、数学の公式や歴史的事件が起きた年号や人名や勉強して覚えた外国語など、知識に関することを覚えていることをいいます。

一般的に、エピソード記憶のほうが記憶に残りやすいとされています。私の場合も自分の記憶を振り返ってみると、映画のワンシーンのように、いろいろな映像が浮かんでは消えます。一方、地名とか年代とかの記憶はあいまいです。それはおそらく意味記憶の力が低下しているということでしょう。

頭の中にエピソード記憶を温めているお年寄りは、繰り返し同じ話をすることが多いようです。しかし、認知症予防のためには、

「その話は百回も聞いたわよ。次はこうで、オチはこうでしょ」

などと聞き手が先回りして横取りしてはいけません。

和田医師によれば、根気よく耳を傾け、その話に関連したエピソードを聞いて、記憶の幅を広げるようにする必要があるそうです。

「なるほど。それで?」

「それは初耳だなぁ」

などと、これまで出力しなかった情報を引き出してあげることが大事だといいます。

回想は、認知機能の改善に役立つことが立証され、認知症のリハビリとしても取り入れられています。回想することで脳が活性化され、コミュニケーション力にも刺激を与えるからでしょう。また、よみがえった思い出が楽しいものであればあるほど、心理的な効果が高いとも言われています。

個人の語りで歴史は創られる

「こころの相続」は、人間の「生き方」を示唆するものが多いようです。小さな癖とかマナーなどの問題から日本特有の伝統まで、無意識に受け継いでいるものがたくさんあります。

無意識に受け継いでいるものは、記憶力が落ちても、あるいは言葉で伝えられなくても、相続されていくものではあるでしょう。しかし、相続をより一層、確実なものにするためには、やはり、何度も語り継いで、意識化することが大事です。

たとえば、死んだ父親が、お酒を飲むとき必ずうたってくれた歌があったとします。それを思い出して、その歌をうたうときの癖やしぐさを思い出せば、それがそのまま自分の癖やしぐさになっていることに気づくでしょう。

自分は、ずいぶんたくさんのものを受け継いだものだ、と思えるはずです。

周囲を見渡しても、「自分は親や周囲からたくさんのものを受け継いだ」とはっきり言う人はあまりいない。大抵の人は、

「自分は大したものをもらっていない」

「ほとんど何にも相続していなかった」

などと言います。


しかし、じつは人は誰でも有形無形の形で、いろいろな相続をしているのです。さらに相続しようとさえ思えば、いくらでも相続すべきものが出てくるのです。自分の中でよく思い返してみると、

「そうか、これも、受け継いでいるなあ」

「ずいぶんたくさんあるな」

と、「生前贈与」をされた気分にひたることができるのではないでしょうか。

私は若い人たちや、まだ親が元気な人たちに心からすすめたいと思っています。親からいろんな話を聴いておこう。それが目に見えない「こころの相続」となるのですから。

個人の語りのない歴史書のなんと空虚で、偽りの多いことか。そのことを抜きにして歴史を語るのはナンセンスではないでしょうか。ああ、もっと父や母の若いころの話を聞いておけばよかった、と、改元の時代に改めてそう思うのです。