駅に止まるたびに、次々と人が入ってくる。これ以上は乗れないというくらいに混んでいるのに、遅れてはなるまいと何人もが身体を押し込んでくる。そのときに彼の身体はさらに押され、上半身が妙な角度によじれるような形になり、図らずも斜め後ろにいた女子高生と顔と顔が向き合うようになってしまった。
 その瞬間である。頭に電流が走ったようになり、心臓がものすごい勢いで鼓動を始めた。全身から汗が噴き出るような感覚になった。そして、そのように動揺していることを悟られてはいけないと思えば思うほど、なおさら身体が火照り、額や背中を熱い汗が流れた。

 原田隆之氏は日本には数少ない犯罪心理学の専門家で、少年鑑別所、法務省矯正局、東京拘置所などで犯罪者の治療や再犯防止プログラムを指導してきた(現在は筑波大学人間系教授)。ここで紹介したのはその原田氏の『痴漢外来 性犯罪と闘う科学』(ちくま新書)から、シンジさんという「三十代の快活な独身男性」の高校時代の体験だ。

 このときはそれで終わったが、数日後、シンジさんは満員電車のなかで偶然を装い、手の甲を前にいた女子高生のお尻に当ててみた。ここから常習の痴漢行為が始まり、大学時代は短いスカートをはいた女性の下着の盗撮(スマートフォンで動画を撮影)にのめり込み、20代のときに痴漢行為で逮捕。このときは示談が成立したが、1年2カ月後に「1回くらい大丈夫だろう」と痴漢行為に手を出して再逮捕。裁判になって会社を解雇され、みじめな拘置所生活に「自分の人生は終わった」と絶望し、弁護士の勧めで治療を受けることを決意して原田氏のクリニックを訪れた。

日本で痴漢が大量発生するのは満員電車だから

 日本では、痴漢行為は「四大卒、会社員、既婚」の男性が圧倒的に多い。欧米には痴漢はほぼなく、「日本にはchikanという犯罪があり、年間数千人が逮捕されている」と、海外の論文で驚きをもって報告されているほどだという。

 なぜこんなことになるのか。これについてはさまざま説明(受験勉強や会社のストレス、家庭問題など)が考えられるだろうが、原田氏の説明はきわめてシンプルだ。――日本で痴漢が大量発生するのは満員電車だから。

 日本では三大都市圏だけで毎人1000万人以上が、通勤・通学の大移動をしており、その平均所要時間は約60分だ。その結果、「異性を含む赤の他人と、日常では考えられないくらい身体を密着させた状態で長時間を過ごすことになる」。こんな異常な環境は欧米にはないが、中国やインド、エジプトなど、電車内で男女が密着する状況が起きやすくなった新興国では日本と同様に痴漢が社会問題になっている。「四大卒、会社員、既婚」は、満員電車で会社に通う男性の一般的な属性なのだ。

 もうひとつ、本書で原田氏が強調するのは、痴漢(窃触障害)や盗撮(窃視障害)などの性犯罪は「依存症」という病気だということだ。痴漢行為を「やめたくてもやめられない」と聞くと、「なにをいってるんだ」と思うひとがほとんどだろうが、専門家のあいだでは、アルコール依存や薬物依存、ギャンブル依存などと同様の「脳の病気(快感回路の不調)」との合意が成立している。

 原田氏の「痴漢外来」を訪れる患者の一人は、風俗通いに退職金をつぎ込もうと会社を辞め、家族も捨ててホームレス同然の生活になり、自殺まで考えた過去を「脳が乗っ取られていた」と語った。それは「圧倒的な衝動で本人の理性をなぎ倒して、性的行動を行うように突き動かす」、人間性の根源にあるとてつもなく巨大な欲望のちからだ。「痴漢など道徳的に許されない」と説教してどうにかなるようなものではない。

 それでも痴漢をなくそうと思えば、確実に効果のある対策がある。それは満員電車をなくすことだ。

 すべての社員を定時に会社に集めて業務を行なうという軍隊式の働き方をやめて、テレワークとサテライトオフィスを基本にして、電車は全員が座れるのが当たり前という社会にすれば、痴漢をする機会はなくなる(新型肺炎対策にも有効だろう)。イスラームのように飲酒が宗教的に禁じられた社会にアルコール依存症が存在しないのと同じだ。

 ここで重要なのは、体質的にアルコールに依存しやすいひとが一定数いるように、「窃触」や「窃視」に依存しやすい男性が一定数いるという“不愉快な事実”を認めることだ。そうなれば、欠けているのは道徳=説教の類ではなく、そのようなリスク層を性犯罪に追いやらないような社会の仕組みだとわかるだろう。

 もちろん一朝一夕に通勤・通学をやめることはできないだろうが、「満員電車」という環境があるかぎり痴漢行為が起きることは避けられない。原田氏は、痴漢常習者の特徴は認知が歪んでいることだとして、再犯を抑止して依存症から抜け出すには、認知療法などエビデンスのある治療法が有効だとする。こうした提言については『痴漢外来』を読まれたい。

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