香港のニュースでたびたび登場する一国二制度は、元々中国が社会主義を維持し、台湾が資本主義を実施しながら、平和的に統一できるよう考えられたアイデア。台湾も香港と同じく、大国・中国のプレッシャーを受けながら、独自の政治・経済の体制を守っています。

しかし、その成り立ちや政治的な位置づけは、2つの地域で決定的に異なります。香港と台湾を詳しくくらべてみました。



4コマで「香港と台湾」



参考:外務省Webサイト

関連用語

香港(ホンコン)

Xianggang/Hong Kong 中国南部の広東省と地続きの九竜半島と香港島および周辺の島々からなる地域。150余年にわたりイギリス領植民地となっていたが,1997年に中国に返還されて中国の特別行政区となった。イギリスは,南京条約(1842年)と北京条約(1860年)で清朝政府に香港島と九竜半島の先端部を割譲させ,さらに1898年新界と呼ばれる九竜半島のつけ根の部分と周辺の島々を99年間租借することによって香港を植民地とした。香港は,まず中国の産品を東南アジアや欧米に,また欧米の工業製品と東南アジアの産品を中国に再輸出する中継貿易港として発展した。第二次世界大戦中,一時日本の占領下に置かれたが,戦後は,工業化を進めて海外から原材料を買い,加工した香港製品を輸出する加工貿易港に転じた。また1970年代には国際金融センターとして発展した。香港が植民地にもかかわらず,このように発展することができたのはイギリス型の自由貿易や自由放任主義的な経済運営が行われたからだとみられている。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

台湾(たいわん)

Taiwan[中],Formosa[ポルトガル,英] 台湾本島,周辺島嶼および澎湖(ほうこ)諸島などを含む地域の呼称。台湾本島は中国語文献のなかで古代からさまざまに呼ばれたが一定せず,元代に瑠求(りゅうきゅう),明代には小琉球や東番(とうばん)などと呼ばれた。16世紀にポルトガル人はフォルモサ(Formosa)と命名,欧米で普及した。日本では高砂(たかさご)国,高山(こうざん)国と呼ばれた。台湾という呼称は先住民言語が起源で,清代に定着した。台湾には5万年前から人類が住み始め,16世紀までにオーストロネシア語族の先住民が各地に居住するようなった。17世紀前半,オランダ東インド会社が南部を植民地支配し,その後,鄭氏(ていし)がオランダを駆逐して,反清闘争の根拠地とした。1683年清朝が鄭氏を降伏させて領有,以後移民が急増し米糖(米穀生産とサトウキビを原料とする製糖業)中心の農業開発が本格化した。開発初期,反乱や分類械闘(出身地別に集団を形成した移民たちが,武器を持って闘うこと)が頻発したが,しだいに宗族(そうぞく)組織や宗教組織が形成され,地域社会が成立した。1895年下関条約で日本に割譲。日本は台湾住民の抵抗を武力制圧したうえで,土地調査,鉄道建設などを実施し,植民地経営を行った。1945年,日本の敗戦で中華民国に編入,49年内戦に敗れた国民政府が移転,60年代以降輸出指向的工業化政策を展開。中産階級の成長に伴い民主化要求が高まり,90年代,総統直接選挙などの政治改革が行われた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

中華民国国民政府(ちゅうかみんこくこくみんせいふ)

・〔大陸〕中国国民党指導下にあった政府。孫文死後の1925年7月,中国国民党は広州に最初の国民政府を組織した。主席は汪兆銘(おうちょうめい)で,集団指導体制をとる。その後国民党内は左派と右派に分裂し,左派は中国共産党とともに27年1月政府を広州から武漢に移した。一方,国民党内の反共勢力は,同年4月蒋介石(しょうかいせき)に四・一二クーデタを断行させ,南京にもう一つの国民政府を組織した。成立当初の主席は胡漢民(こかんみん)。この状況下,国共は分裂し,武漢政府は解消した。蒋介石は国民革命軍総司令として,28年6月北伐を完成。南京国民政府は全国を統一し,孫文の建国大綱に従い訓政を開始した。蒋介石は孫科(そんか),汪兆銘など党内の対抗勢力によって指導権の確立を阻まれるが,しだいに権力を掌握し,37年7月日中戦争が勃発すると,第2次国共合作を成立させ,抗戦の総指揮をとった。国民政府は日本軍の侵攻の激化により,37年11月,南京から重慶への遷都を通告。日中戦争勝利後の46年5月南京に還都。国民政府は47年12月から中華民国憲法を施行し,憲政時期へと移行する。翌年国民大会が開催され,5月蒋介石が正式に中華民国総統に選出された。その後は中華民国政府が正式名称となる。共産党は国民大会の正当性を認めず,その後も国民政府の名称を使う。・〔台湾〕国共内戦に敗れた国民党政権は1949年,台湾に中華民国中央政府を移転し,台北を臨時首都とした。移転後も「大陸反攻」を呼号,全中国を代表する正統政権と主張し,全中央政府機構を台湾において維持,大陸地区選出の国会議員は非改選としたため万年議員化した。他方,台湾社会に定着するため農地改革や地方公職選挙を実施した。60年代,輸出指向的経済発展政策に転換,経済成長で本省人(ほんしょうじん)中間層が台頭,民主化要求が高まった。蒋経国(しょうけいこく)は中華民国が国際的に孤立するなか,政治面での台湾化政策に転換,その後継の李登輝(りとうき)は国会の全面改選や総統直接選挙を実施,中華民国の台湾化を果たした。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

日中共同声明(にっちゅうきょうどうせいめい)

1972年(昭和47)9月29日,日本・中華人民共和国間に調印された戦争状態の終結と国交正常化を宣言した声明。ニクソン訪中に代表される米中接近のなかで,田中角栄首相が訪中,周恩来首相とともに発表。前文と9項目からなる。これによって日本側が中華人民共和国を唯一の合法政府と認める一方で,中国側は対日賠償請求を放棄することになった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)