「あいトリ」騒動は「芸術は自由に見ていい」教育の末路かもしれない 明らかになった、芸術をめぐる「分断」

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あいちトリエンナーレ2019が閉幕した。これほど騒ぎになった芸術祭は日本ではかつてなかっただろう。話題の中心となったのは最後まで「表現の不自由展・その後」だった。もっと光を当てられるべき良い作品が多数あった中、これは残念なことだ。

当初批判の的となったのは、キム・ソギョン/キム・ウンソンの《平和の少女像》と大浦信行《遠近を抱えて Part II》の2作品だったが、「表現の不自由展・その後」の展示再開後には、「Chim↑Pom(チンポム)」の映像作品、《気合い100連発》も批判され出した。

本稿では、今回の騒動があらわにした分断と、その背後にある芸術観について考察する。まずは《気合い100連発》に向けられた批判を見ることから、話を始めよう。

Chim↑Pom《気合い100連発》への誤解

《気合い100連発》は、Chim↑Pomのメンバーが福島県相馬市の若者たちと円陣を組み、順番に気合いの掛け声を叫び合うという映像作品である。撮影されたのは震災からわずか2ヶ月後の2011年5月。原発事故の行く末も見えないさなかの、被災地の若者感情を見事に切り取った点で、この作品は高い評価を受けてきた注1。

この作品で円陣を組んだ若者たちは、最初は「復興がんばろう!」「風評被害なんてぶちかませ!」といったポジティブな、そしてある種一般論的な言葉を叫んでいたが、次第に掛け声のアイデアにつまりながら、即興で思い思いの気持ちを叫ぶようになっていく。「彼女欲しい」「お父さんありがとう!」といった個人的発言が入りだし、終盤では「原発ふざけんな!」など現状への怒り込めた言葉が飛び出す。

「放射能最高!」「放射能浴びたいよ!」と自虐的な叫びが飛び出すのは、この感情の盛り上がりが最高潮に達したときだ。瓦礫に囲まれた中で皮肉を込めつつ必死に威勢を張る彼らの声は、少なくとも誰かを攻撃したり批判したりするものではまったくない。Chim↑Pomのリーダー・卯城竜太は、今回作品への批判を受けて出演したラジオ番組の中で、この声は「人間讃歌」なのだ、と述べた。

作品中に出てくる福島の様子〔PHOTO〕Chim↑Pom公式サイトより引用

だが今回の騒動では、この《気合い100連発》の「放射能最高!」という言葉にばかり注目が集まり、「福島をバカにしている」などの批判が巻き起こった。

今回のあいちトリエンナーレをめぐる騒動で私が気になる点、もっといえば懸念している点は、芸術作品の一部を恣意的に切り出して批判する人があまりにたくさんいた点、そして、その恣意的な批判が盛り下がらずに維持されつづけた点だ。以下では、この騒動の元にあった現代日本のいくつかの芸術観を指摘していきたい。

「芸術は自由に見ていいんですよ」は本当か

昨今、美術館などでは、鑑賞教育の一環として「作品を見て自由に語り合ってみよう」というプログラムがしばしば行われている。こうした教育の場で用いられる「正解はありません」「解釈は自由なんです」といった文句は、参加者の発言を促すとともに、美術館という敷居が高く思われがちな場への抵抗感を下げるという点で、たしかに効果的だ。

またここ数年で新たに急増したのは、芸術鑑賞をつうじて得られるスキルをビジネスに活かそうとする「ビジネス系アート本」である(表紙や目次にやたらと「エリート」という言葉が並んでいるのがこの種の本の特徴だ)。こうした書籍でも、作品を前にして自由に感想を言い合うことのメリットがさまざまに語られている。

教育手段として、もしくは場の緊張を解きほぐす雰囲気作りの工夫として、さらには発想法の一手法として、そのような「感想の自由な語り合い」がなされることに何ら問題ない。気軽な語り合いを経ることで互いに個性や感性を理解し合えるようになるし、鑑賞中のモヤモヤした気持ちを言語化することは感情表現の練習にもなるだろう。

私の専門とする芸術哲学の分野では、「解釈に正解はない」とか「解釈は自由」といった考え方は、実のところ必ずしもすべての論者が同意するものではないのだが、本稿ではその問題にはふみこまない注2。私が本稿でまず指摘したいのは、たとえ「解釈に正解はない」とか「解釈は自由」などと言えるとしても、だからといって「あなたの見方が常に正解」ということにはならない、という点だ。

〔PHOTO〕iStock

不適切な作品解釈のパターン

たしかに芸術の分野には、多様な解釈を許容する風潮がある。芸術作品とは、科学論文や事故報告書などとは違って、様々な仕方で「読み解かれる」ものだ。いったん公開された作品は、作者の手を離れ、世間の中で「読み解き」の対象となる。作者側は「どう見られるかわからない」という思いで作品を手放すのだ。

しかしだからといって、作品解釈が「何でもあり」になるわけではない。解釈には、作品全体を整合的に読み解けるものであるべきだ、とか、より良い作品理解を目指すものであるべきだ、といった基本的なルールがある。作品の一部だけを取り出して自分勝手な妄想を繰り広げても、それは恣意的な解釈にしかならない。

今回のトリエンナーレをめぐる騒動では、政治信条に引っ張られた恣意的な解釈、表面的な解釈が多数見られた。《気合い100連発》に対するいくつかの批判は、その典型例といえる。以下、不適切な解釈のパターンをいくつか見てみよう。

A)部分しか見ない。

《気合い100連発》を批判する人たちの多くは、作品内の「放射能最高!」といった一部の言葉だけをとりあげて批判していた。その批判の中では、この言葉が「復興がんばれよ!」といったポジティブな発言に続いて出てきている点、また、その自虐的発言のあとに「ふざけんな!」という戒めの言葉が続いている点が、ほとんど考慮されない。

さらに、これら一連の言葉が、どのような映像と合わせて提示されているかの検討もない。作品の他の部分と合わせて見れば、この作品に福島を貶めようという狙いがないことは明らかだ。

B)制作背景を考えない。

表面的な批判をする者たちは、その作品がいつ、どこで制作され、誰が関わっていたのか、という点も考慮しない。《気合い100連発》は、震災直後から被災地に通い復興活動を支援していたChim↑Pomのメンバーが、震災2ヶ月後に被災地の若者たちと一緒に作り上げた作品である。

そこに描かれているのは、原発事故の詳細も明らかにならない中で現地の若者が感じていた現実の不安と、その不安をなんとか払拭したいという皮肉めいた叫びである。これは被災地にコミットしない者が、外から現地を描いた作品ではない。

C)作品の狙いを考えない。

批判の中では、なぜ「放射能最高!」のような誤解を招きかねない発言がそのまま提示されているのか、といった制作・展示の意図も考慮されない。この作品の音声部分は「一発取り」で撮影されており、ホームページでの作品解説でも「彼らによるリアルな叫び」という言葉が使われているが、円陣の様子を撮った映像には編集上のさまざまな工夫が見られる。映像は、陸上に投げ出された漁船(1ページ目の写真参照)など、被災地の無残な様子が映りこむさまざまな角度から撮られているし、途中部分では、水没した被災地を車窓から撮った別の映像なども差し込まれる。

こうした被災地映像とあわせて提示される若者の威勢を見て、どうやったら「福島をバカにしている作品」として解釈できるのだろうか。私にはまったく理解できない。

仮にこの作品に対して、百歩譲って「被災した人々への配慮に欠ける」という批判がありえたとしても(私はこうした評価にも同意しないが)、この作品を「福島ヘイトの主張を出そうとして成功している作品」として見ることは不可能だ注3。

現代アート嫌悪からくる「失礼な解釈」

このように解釈の不適切さを指摘していくと、「芸術はよくわからん!」という芸術嫌悪の声も聞こえてくる(念のため述べておくと、Chim↑Pomの《気合い100連発》は、現代アートの中では意図や狙いが非常に読み取りやすい作品なのだが)。

その「アートうぜえ」的な気持ちもわからないではない。芸術、とりわけ現代芸術には、狙いや目的が分かりづらい作品も多いし、作品提示のさいに意図をはっきり説明してくれないものもたくさんある。現代芸術の展覧会で、一部の専門家向け、いわば「内輪受け」的な雰囲気が出されがちなのは、否定しがたい事実だ。

だが、解釈が難しい作品だからといって、表面的な部分だけをみて恣意的に解釈していいということにはならないし、作品の狙いを考慮しなくていいということにもならない。難しい問題だからといって、誤答がなくなるわけではないのと同じだ。

芸術作品は自然物とは違って、何らかの意図をもって提示される。だからこそ芸術は「楽しい」「美しい」といった評価軸だけでなく、「成功」「失敗」といった評価軸でも見られるのだ。「これは何をやろうとしている作品なのか」という観点は、作品を正当に評価しようとするのであれば、切っても切り離せないのである。

目的を考慮しない表面的な解釈や、目的を勝手に設定し直しての自分勝手な解釈は、間違った解釈というだけでなく、ときに失礼な解釈にもなりうる。そもそも人が何かを行ったときに、狙いや目的を無視してその行為を勝手に評価することは、失礼なことだ。それは人の行為を意図から切り離し、こちらの所有物として見るふるまいだからだ。

〔PHOTO〕iStock

とはいえ、ここで私が言いたいのは、作者の意図どおりに作品を読まねばならない、ということではない。芸術の領域では作者の意図を超えて作品を見る「解釈の自由」が、ある程度容認されている。

「お前が何を思いながら作っていようが知ったことか」「私はお前が思いつきもしなかった評価軸を勝手に当てはめ、好きなように称賛・批判するのだ」。芸術の場では、こうした暴力的な失礼さがある程度認められているのである。これはある意味で驚くべきことだ。芸術以外の場でこのような「失礼さ」がまかり通っているところはほとんどない(あるとしても、たいていは「芸術的」な見方が受け継がれている領域だ)。

だがこの失礼さの容認も、出し手と読み手、お互いの敬意の上に成立するものだということを忘れてはならない。自由に意味を読み込む、とか、作者本人には思いもよらない解釈を持ち込む、といったやり口が許されるのは、あくまでそのベースに相互理解と尊重があるからだ。

この枠から外れる、リスペクトを欠いた解釈は、悪意ある解釈にしかならない。作品や作者に最低限の敬意も払わない者は、「自由な解釈ゲーム」を始めるためのスタートラインに立てていないのである。悪意ある表面的な解釈は、たんに間違っているだけでなく、言葉どおりの意味での「失礼な」解釈として批判されねばならない注4。

あいちトリエンナーレの騒動がつきつけた分断

だが今回の騒動では、悪意ある解釈をあえて採用する人たちが一定の割合でいる、という事実が明らかになった。これはつまり、芸術作品をもはや芸術の枠内で見ない人達がそれなりにいる、ということだ。

今回、作品を恣意的に読んで政治的な主張につなげた人たちは、一方では「成果物を作り手から切り離して読み解く」というふるまい(これは非常に近代芸術的と言える)をしつつ、その一方で「芸術業界の小難しいルールなんて知るか!」と文句を言い、さらに気に入らないところがあると、いったんは視界から消したはずの作者や展示者を呼び戻して攻撃している。

これは一見複雑な立場だ。ある面では、「文脈から切り離された対象を自由に読み解きましょう」という極端な芸術観を採用しているだけのようにも見えるが、その一方で、より良い解釈を目指すとか、より良い鑑賞経験を目指すといった、芸術文化を支える態度はほとんど見られない。こうした態度にはおそらく「わがままな消費者」という理解が一番ぴったりくる。だからこそ、気にくわない作品を見たときに「税金返せ」といった発言が出るのだろう。

もちろんすべての来場者に、芸術なんだから芸術鑑賞の作法で見ろ、と鑑賞態度を押し付けるのも無理な話だ。すべての人が芸術に理解あるわけではないし、市民参加を求める大規模芸術展では、普段美術館に来ないような人もたくさん来場する。

こうしたお祭りでは、芸術文化に慣れてない人を引き込む工夫・戦略が、展示側には少なからず求められるし、ゴリゴリの玄人向け表現が「場を読めてない失敗作」と批判されることもあるだろう(もっとも、こうしたケースでの批判も、「もっと工夫しろ」といった、あくまで見せ方の失敗に対する批判であるべきだが)。公的な芸術イベントでは、芸術の領域外の人々への配慮が強く求められるのである。

今回の騒動において、展示者側からの配慮がそこまで欠けていたとは私は思わない(とりわけ騒動が起こったあとでは、ボランティアやアーティストたちが、展示再開に向けてさまざまな対話の努力をしていた)。

今回の騒動を加熱させていたのは、芸術の評価軸を採用しない批判、つまり、芸術を芸術として見ようとしない者たちからの批判である。芸術として提示されたものを芸術として見る者たちと、見ない者たち。あいちトリエンナーレがつきつけたのは、この合間を本来埋めるべきであるはずの相互尊重が思いのほか断絶されていた、という点である。

この現実が可視化されたことは、ある意味では良かったのかもしれない。だが憂慮すべき点もある。今回の騒動を機に、学生たちの意見をさまざまな場で聞いてみたところ、少なくない若者たち、とりわけ美大に通うようなアーティスト志望の若者たちが「このような時代に芸術をつくることにどういう意味があるのか」という不安に陥っていたのだ。表現者たちが余計な懸念に囚われ、自由で思い切った表現、観客を信頼した複雑な表現を出しづらくなってしまった今の状況を、私は素直に喜ぶことはできない。

悪意ある解釈は誠実につぶしていかねばならない

今回のように誤解や悪意ある解釈が広まったとき、作家やキュレーターに自己弁明的対応を求めるのもひとつの手だが、すべての対応を作家側に求めるのはあまり良策ではない。こうした揉め事のさいに作家が下手に発言や声明を出すと、解釈に方向性が出てしまい、豊かな読みが妨げられてしまう。ふだん公の場に姿を見せない作家や、作品の見方をできるだけ開いておきたい作家も、こうした揉め事の中で余計な色を出したくはないだろう。

よって重要なのは、まわりの人々、つまりは一般の鑑賞者のわれわれが、不適切な作品解釈に対してはっきりNOを突きつけることだ。「解釈は自由」とか「芸術は好きに見ていい」とか言っていてはダメなのだ。悪意ある不適切な解釈はしっかりと批判し、丁寧な説明によって誠実につぶしていかねばならない。こうした揉め事のときには、鑑賞者たる我々が、文化を支えていかなければならないのである。

意見の多様性はそれだけでは価値がない。重要なのは、多様な意見から議論や検討が起こり、より豊かで、より強靭な考え方につながることだ。そのためのきっかけを作ることは、現代芸術に求められる役割の一つですらある。反論があれば、論争すればいい。適切な論争は文化の成熟にとって必要なことだ。恐れるべきは、「芸術の自由」というお題目の下に批判を避ける空気がはびこり、ただ声の大きい主張と、根拠不透明な権力行使が跋扈する状態である。

(注1)「表現の不自由展・その後」では《気合い100連発》は、その4年後に制作された《耐え難き気合い100連発》と並べて展示されていた。《耐え難き〜》は、いわば《気合い100連発》の検閲バージョンである。2014年のアジアン・アート・ビエンナーレのさい、国際交流基金(外務省の外郭団体)から《気合い100連発》に対して「放射能」「福島」といった言葉がNGだと注文が入り、それを受けてChim↑Pomは翌年、元の映像から「放射能最高!」などの掛け声を消す形で《耐え難き〜》を再制作した。この作品はグッゲンハイム美術館に収蔵が決まっているという(卯城竜太・松田修『公の時代』、朝日出版社、2019年、p. 82)。
(注2)詳しくはロバート・ステッカー『分析美学入門』(勁草書房、2013)の第7章、および、こちらの解説ブログ、松永伸司「作者の意図と作品の解釈」を参照。
(注3)今回の騒動で目立っていたもうひとつの批判パターンとしては、作品の一部の素材だけを取り上げて「不謹慎だ!」と批判するやり口がある。この種の批判については、別媒体でまた検討記事を書く予定であるので、関心ある方はそちらもお読みいただきたい。
(注4)ここで述べた論点は、以前他のところでも述べたものだ(森功次「失礼な観賞」『エステティーク』Vol.1, pp.72-76.)