時代に踊らされるな:ドイツ観念論と革命/純丘曜彰 教授博士
フィヒテとシェリンク
フランス革命の時代、カントは、認識理性の限界の向こうに実践理性の沃野があることを示した。何であるかに答えは無い。問題は、何にするかだ、と。これを受けて、フィヒテは、自分と対立するものを克服していってこそ、その克服の仕方に独特の自分が定立する、つまり、この事あしらい(タートハンドルンク)こそが自我を作るとした。
たとえば、営業で断られる。断られたから、諦める、というのも、一つの答えだ。だが、答えは、それ一つではない。断られたから、断った理由を聞き出す、という答えもある。それどころか、断られたから、また訪問する、という答えだってある。つまり、答えは問題にあるのではない。自分にある。問題にぶつかったときこそ、自分がどういう人間であるか、答えを出すことになる。
ここにおいて、実在的な自然は、観念的な自我に対立するものであり、実践の永遠の地平線となる。ところが、シェリンクは、スピノザの汎神論やライプニッツのモナド論を踏まえて、奇妙な全体主義的観念論を唱える。すなわち、彼によれば、実在としての全体的自然から観念としてのモナド的自我まで、質として連続で、実在性と観念性の量的相違にすぎない、という。たとえば、植物がある、野菜がある、食料がある、食堂がある、食券がある、カネがある、は、一連の存在の質的な帯を成す。
したがって、すべての存在は一体であり、汎神論的な絶対同一者こそが、万物の本質として存在する。だが、彼によれば、フィヒテの言うように、個々の存在は、この絶対同一者の中で、自分勝手に自己定立して、これらが元の同一者を否定する。当初、同じ自由・平等・博愛の革命をめざしていた民衆が、来たるべき政権のありようを巡って、ばらばらな主張をし、革命の精神そのものが失われていったように。
だが、シェリンクによれば、個々の存在は、共通の同一者があったからこそ、その中に、それぞれの自己定立もできたのだ。つまり、それらは、それら自身には根拠を持っておらず、そのモナド的な断絶は、理論精神や実践精神のばらばらの自己定立では解決しない。そこで、シェリンクは、天才を通じ、美的精神によって、絶対同一者へ、モナド以前の共通精神へ回帰することが求められる、とした。実際、革命末期には、「理性の祭典」などという奇妙な疑似宗教が生まれ、ドイツでもシラーやベートーヴェンが「歓喜の歌」を作り、みんなで合唱している。
ヘーゲルの弁証法
二人に対し、ヘーゲルは、二人の考えを合わせて取り込んだ。シェリンクの言うように、抽象的な観念は、さまざまな具体的な実存となるが、それらは、たしかに、それらを生み出した元の観念を否定する。しかし、フィヒテの論じたように、観念は、これらの具体化した実存との対立を再克服していく弁証法的な自己定立によって、内実を得て発展し、ついには絶対精神に至る、とする。だから、世界とは、精神の成長の歴史そのものだ、とされる。
ヘーゲルの弁証法は、シェリンク抜きには理解できない。集合と要素、汎神論的な観念と、モナド論的な実在の対立であって、同等のものの正反とその統合ではない。たとえば、最初、女の子は、自分の頭の中だけでかっこいい男の子を夢見て妄想する。これが、即自。でも、そのうち、実際にいろいろな男の子とつきあってみると、いつも予想外の失望ばかり。これが、対自。そして、いいかげんすると、男というものを等身大で現実的に理解する。これが、即対自。
革命の時代にあって、ヘーゲルは、世界もまた、同じような経験的学習をして発展していく、ということに気づいた。革命の前には、人々には、自由・平等・博愛の希望が溢れていた。ところが、実際の革命は、血みどろの恐怖政治で、処刑や暗殺、暴動だらけ。それで、結局、国王に代えて、皇帝を戴き、それが自由・平等・博愛を体現して、民法典などを整えることになる。
革命に限らない。世界は、民主主義、資本主義、帝国主義、鉄道や自動車、ラジオやテレビ、インターネットや仮想通貨、と、次々、なにか魅力的なものを思いつく。そして、それを実際にやってみるが、現実は甘くはない。でも、こうして世界は、現実的に学習して、すこしづつ賢くなっていくとされる。
ただ、ヘーゲルによれば、世界理性が人々を使って実験しているのであって、その観念を主導する人間は、自分でやっているつもりでも、じつは世界理性に踊らされているだけ。その人でなくても、別のだれかでもよかった。時代の舞台に登って英雄になる人がいないではないが、ほとんどすべての人は、ムダな流行に酔わされ、大切な本来の自分の人生を失うことになる。戦争や災害、バブルなど、すこしは一人一人が学習した方がいい。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学 、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)