純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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1867年12月の明治維新の王政復古に先だって、その年の秋、日本中でわけのわからない狂乱の踊りが流行した。ええじゃないか、で知られる事件。尊皇派による京都での大衆扇動のように言われてきたが、史実は、もっと奥が深い。

始まりは、東海道の吉田宿(三四番、現豊橋駅)の南西、牟呂村大西。いまの牟呂小と牟呂中の間の北の天王社(現素戔嗚(すさのお)社)あたり。1867 年7月14日七ツ(16時)頃、屋敷裏の竹垣に伊勢外宮の御札が落ちていたとか。ところが、これを拾った男の息子が頓死。翌15日晩には天王社でも伊雑宮 (いざわのみや、志摩別宮)の御札が見つかり、村の女がまた頓死。大騒ぎになって、探してみたら、村のあちこちからいろいろな御札が出てくる、出てくる。 これらをすべて牟呂八幡宮に納め、18日から年改めの「勝手正月」ということにして、三日に渡って村を総出で、災厄払いの乱痴気騒ぎ。

驚いたのは近隣の村々。大西村で払った災厄がやってくるのでは、と恐れていると、案の定、そこら中から、あれやこれやの御札が出てきた。これは大変、とのことで、吉田宿だの、北隣の御油宿だの、どこもかしこもすぐに「勝手正月」で災厄払い。厄が取り憑かないように、男は女装し、女は男装し、その他、身分もなにもなく、デタラメな格好で飲み食いし、踊り歩く。こんな無茶苦茶な連中に押し入られた方も、うちに災厄を置いていかれてはたまらん、と、惜しみなく饗応。これが瞬く間に東海道を西へ東へ伝わって、京都や大阪、江戸でも、わけのわからない事態に。


いまでこそ牟呂大西町は内陸だが、当時は伊勢湾の海沿い。夏の台風の季節ともなれば、対岸から飛ばされた紙の札がほんとうに大量に降って来ても、なんの不思議もない。また、このころ、使用人や若い衆が力をつけてきており、盆暮れ以外にも休みを主人や名主を強引に要求する、それどころか勝手に休みにしてし まうことが横行していた。とくにこの秋は、例年にない豊作で、その相応の分け前を要求するのは、下の者、若い者としても当然、と思われた。くわえて、開港のせいで経済は悪化したと感じられており、また、外国人が疫病をもたらしていると信じられていた。そして、それらのもろもろがあいまって、世直しええじゃないか、の囃子言葉となっていく。

話は変わって、この現代。先日の若い連中の馬鹿騒ぎに眉をしかめる向きも多いだろうが、根は、数年前の国会前の騒動と同じ。政治も、経済も、文化も、世襲だらけ。テレビは、ドラマも、バラエティも、どこか知らない高校の同窓生たちの馬鹿騒ぎのような、同じメンツの馴れ合いばかり。一方、自分たちは、アベノミクスだかなんだか知らないが、いくら働いても正社員にもなれない、結婚もできない、家族も作れない、子供の面倒をみることもできない。体裁良くあしらわれているだけで、日本の繁栄の恩恵に与っていない、国や社会からネグレクトされている、と思っている若者は少なくあるまい。昔なら新興宗教あたりが村に代わって共同体に抱え込み、面倒をみてやったのだろうが、今は、それらすら老人たちの集会の場となり、世代的に断絶。

ええじゃないかが始まった7月14日は、まさにフランスの革命記念日。しかし、この国は、フランスや全学連のような暴徒の武装闘争ではなく、ええじゃないか、ええじゃないか、で、若いやつらが仮装して踊り歩き、誰が誰だかわからないまま、ニヤニヤと愛想笑いを浮かべつつ、無理デタラメをあちこちでゴリ押しし、酒食の飲み喰い、金品の巻き上げ、ゴミのまき散らしを続けているうちに、結局、国も社会もひっくり反ってしまった。現代もまたそのうち、少子化に乗じた仕事やバイトのスッポカシ、ゴマカシ、手抜き、屁理屈で、既存制度は内実から失われていくのではないか。連中をうまく操って、ガス抜きして、抑え込んでいる気になっていると、最後に痛い目に遭うのは誰か、もうすこしまじめに考えてみた方がいいのではないか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)