純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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勇猛な「武士道」などというものは、近代の神話だ。明治時代、欧米人がやたら偉そうにキリスト教のモラリティを語るものだから、まともに江戸時代など知らない新参田舎クリスチャンの新渡戸稲造(1862〜1933)が、日本にだってなぁ、と、捏ち上げ、使ったこともない日本刀をヌラリと抜き、欧米人をケムに巻いて黙らせた。それを、どこでどうまちがったのか、列強と並ばんと軍国主義にかぶれた明治政府が、全国民の教学にして、太平洋戦争へと突き進む。かくして、ほんの百年前、日本人は、ありもしない「武士道」の妄想に悪酔いして、その教条に殉死させられた。

まず、ホンモノの武士は、映画で出てくるような、一匹サムライ、などいない。それは、刀を持っているだけの落ちぶれ武者であって、まともな武士の数には入らない。武士は、つねに家を単位に、生活し行動する。古代は、天皇や族長みずからが剣を振るったが、平安時代になって連中が都で貴族化してしまうと、源氏や平家のような下級貴族集団が代わってもっぱら武力的な執行を引き受けるようになる。そして、このような執行機能を恒常永続的に引き受けるために、役割は家業として親子で世襲され、その補佐もまた世襲となった。この一族郎党が「武家」だ。

しかし、中世になると朝廷の力が弱まり、武家は、一族郎党で私領を勝手支配する地方豪族へと回帰する。朝廷に代わる幕府も、これら地方豪族の調整機関にすぎず、このため、当初からすぐに武家同士の小競り合いに明け暮れるようになり、武家は、より大きな武家、いわゆる「大名」の傘下に入って、集団自衛力を強める。その最たるものが関ヶ原で勝った徳川家であり、全国を統括する江戸幕府も、強大な徳川家とその傘下の譜代旗本の私的な力を根拠としていた。

武家においては、お家存続、一族郎党としての利権絶対防衛こそが至上命題であり、幹部の合議制で運営された。公的な肩書を世襲する家長は、明治民法と違って、ほとんどなんの決定権もなく、ときには押し込めで強制的に隠居や廃嫡され、必要があれば、そのクビやハラさえ、かんたんに差し出された。また、一族郎党を統括するに足る男子がいてもいなくても、政略的な意味を含めて、頻繁に養子としてやりとりされた。つまり、武家は、家長を中心とする血縁家族というより、家業を維持するための近代的な集団経営会社に近かった。

江戸時代、ようやく平和が到来したが、それもこれも、武家は、より上位の殿様の所領安堵という御恩のおかげとされた。したがって、このような御恩に、武家は奉公として報いなければならない。それも、先に御恩を受けてしまっているのだから、奉公は無償自弁が当然。もはやさすがに合戦は無いとはいえ、城や屋敷の修繕から、道路や河川の工事、参勤交代の随行まで、その資金を自前で捻出すべく、武家は、つねにやりくりに追われていた。

このため、第一には、所領の生産性を高めることが求められた。新田開発で面積を拡げるだけでなく、市場性のある四木三草のような商品作物で現金収入を増やし、50%もの高い租税を代官や名主を使って農民から確実に搾り取った。しかし、やりすぎると、手痛い自然災害を被り、また、他家と争いになったり、農民が反乱を起こしたりして、すべて没収された。

第二は、家中で地位を得ることだった。番方や役方として重用されれば、その役目に応じて、役目の間だけ、上の身分に相当する足高(たしだか)が与えられたからだ。だから、下級武士は熱心に武芸や学問に励んだが、中級以上は、上に媚びへつらって、派閥や閨閥、付け届けに奔走し、よけいに資金を必要とした。くわえて、この家中争いがあまり露骨になると、大名家でも、丸ごと潰された。

第三は、城下町にある広大な屋敷の中を畑にしたり、周辺を商店や長屋として又貸しする方法だ。一族郎党、一丸となって独自の手工業に取り組む者も少なくなかった。しかし、これらも、あまり派手にやると、武家らしからぬ、として、世間や殿様から目を付けられ、元も子も無くなった。

いずれにせよ、江戸時代の武士は、戦士というより経営者で、それも、朱子学的な建前をはみ出さぬよう、つねに慎重に物事を進める用心深さが求められた。これが実際の「武士道」だ。刀を抜くようなら、すでに武士として失格。揉めごとを力で解決するのではなく、揉めごとにならないよう、事前の準備を重ね、慎重に事を進めていく、それが今の日本人にも根強く残っている、静かな「武士道」。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)