川口 雅裕 / 組織人事研究者

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河合隼雄先生は、日本の社会を「母性社会」と呼んだ。ごくかいつまんで言うと、以下のような意味だ。

母親は、自分の子供であれば皆同じように可愛いし、全員に同じように期待する。たとえ成績や素行が悪い子がいても、大器晩成型だと思って期待しつづける。どんな子であっても諦めはしないし、もちろん決して見放したりもしない。子供それぞれの適性や個性や意思に応じて成長すればよいという発想ではなく、自分の子には皆同じような道を同じように歩んでもらいたいと願うし、だから差が生じないようにと同じように扱う。

母親は、場を重視する。それぞれが言いたいことを飲み込み、やりたいことを抑え、場を平穏に保つために、「みんないい子」であることを暗黙的に要求し、何もない平穏な状態を良しとする。場を均衡に保つには、序列も重要になる。兄は兄らしく、弟はそれらしく振舞うようにすることで場が均衡する。タテの関係を作ることで、場が保てるという原則を学ばせる。もちろん、父親も母親が作ったこの均衡の中に取り込まれている。父親は、タテの関係の一員であり、それらしく振舞うことで均衡を保とうとする。父親が家長のように、亭主関白のように見えたとしても、それはあくまで“見せかけ”の強さであり、母親が作り出した場の均衡にとって都合がいいからに過ぎない、

同じように日本の社会では、それぞれが能力や個性の違いを発揮しようはせず、属する組織や場がつつがなくまわっていくように振舞おうとする。個性的な振る舞いや予定と調和しない言動は、自分勝手と評価されてしまうので、皆が抑制的になる。組織や場は、母親が子に対してするように、すべての人を包み込み、すべての人に同じような期待をし、不公平がないよう同じように扱う。場の均衡を保つためにはやはり序列が重要で、年齢や先輩・後輩といったタテの関係が幅を利かせる。抑制的言動を強いられるのはストレスではあるが、一方で、たとえ失敗したとしても、場や組織から切り離されることはなく、いつまでも期待をしてもらえるから安心だ。

これに対して、欧米の社会は「父性社会」であって、生来の能力差や様々な個人差を前提にしており、したがって期待の内容は人によって異なる。母性のように皆を取り込んでいくのではなく、各々に自立を求め、個性に応じて生きよと切り離していく。結果に対しては、信賞必罰を明確に行う。学校に「飛び級」があるのも当然のことであるし、エリートは真のエリートとして(日本のような単なる高学歴者という意味ではなく)、現場の職人はその専門性を活かして、それぞれが個性を活かして自分らしく生きることを求められるから結果として人生は多様になる。

●母性的な日本企業

このような社会だから、日本の会社が母性的であるのも当然だろう。処遇システムは、「同一属性・同一期待・同一処遇」となる。同じ属性(性別、職階、年次など)であれば、同じように期待をされ、同じように処遇される。能力にも適性にも個人差があるのだが、それは軽視され、多少の失敗を犯してもそれまでと変わらず期待されつづける。「皆がかわいい」「皆がいい子」という母性的な処遇システムである。正社員という日本独特の無期雇用制度は、母親がすべての子供にいつまでも期待し続けるのと似ている。「無限定な働き方」も同様だ。場の均衡を保つことに価値を置いているのだから、個々の職務や責任を明確にする自立した働き方よりも、そのときどきの状況に応じて皆が助け合い、言われれば何でもやる、どこへでも行くような働き方が奨励されるのは自然なことだ。年功的処遇も、場の均衡を保つための序列づけとしては合理的である。

マネジャーは、母親のようになる。どのメンバーも同じようにかわいいし、全員に同じように期待し、全員にチャンスを与え、全員に成長してもらいたいと思っている。仕事の与え方や接し方は、能力差や適性ではなく、年次や属性などによって決まる「序列」に応じて変える。場の均衡を保つことに高い価値を置いているからだ。多様であるより、同質であるほうが場の均衡を保ちやすいから、違いには焦点を当てないようにする。メンバーの一人ひとりが落ちこぼれないように気を配るのが大切であると考えるので、高い目標は掲げないし、違いによって生じるシナジーも生まれにくい。マネジャーの目線は、常に下向きであり、力は常に底上げのために使われる。

●母性的であることの結果

このような日本企業においては、抑制的言動を強いられることによるストレスが大きい。各々の違いによる軋轢がストレスとなる欧米の組織とは、対照的だ。思ったこと、言いたいこと、やりたいことをそのまま言動に移せない状況がストレスとなる。どれだけ優れた能力であっても結果を残しても、母親が他の子供に配慮して褒めすぎないようにするのと同じで、飛びぬけて良い評価をしたり選抜的な処遇や育成をしたりはしない。本人にも、胸を張って「どうだ」と言ったりはせず、喜びを顔に出したりもせず、謙虚に「まだまだです」「みなさんのお蔭です」と言う姿勢が求められる。

コミュニケーションも複雑になる。全員が同じように期待され、皆で場の均衡を保ち続けるためには、同じ情報を皆で共有している状態を作らねばならないから、報告・連絡・相談の量が非常に多くなる。同じ部署だけでなく、関係する部署や担当者などにも伝えなければならないし、その順序や伝え方にも気を配らねばならないから、相当に高度な“仕事”であったたりする。情報流通の達人になることが、出世の近道だったりするのはそのせいだ。職務や責任が明確にされている結果、誰に何を伝えればいいかがわかりやすい欧米企業とは対照的である。

一方で、母親が自分の子供たちを包み込んで守るように、従業員全員を包み込んで守っているのに、日本企業の従業員はモチベーションもエンゲージメントも高くない(と言われている)のは不思議である。安心・安定を与えてくれる母のような存在である会社に所属しているのに、忠誠心ややる気が湧いてきにくいのは何故か。これも河合隼雄先生の「日本の男は永遠の少年だ」という指摘によって説明できる。

日本の男は、心理学で言う“母親殺し”(母という存在に依存する状態から脱し、精神的に自立し一人前になること)ができない人が多いという。同様に、日本企業の多くの社員は“会社殺し”ができず、いつまでも会社に依存したままであるのだろう。母親への本当の感謝や心からの恩返しは、依存した状態の少年にはできない。“母親殺し”に成功し、自立した個となって初めて母への本当の感謝の念が湧き、恩返しという行動に移せるというものだ。(一人暮らしを始めたり、子を持ったりして、はじめて母親への感情や視点が大きく変化する。)忠誠心ややる気が湧いてくるのは、これと同じで、“会社殺し”に成功し、自立した個となったときだ。母性型の企業であればあるほど(社員をかわいがり、包み込めば包み込むほど)、社員が自立から遠のきがちになる。その結果、いつまでも依存して甘えている子供のように、本当のやる気や心からの忠誠心が高まらないということになってしまう。

ダイバーシティが進まないのも、母性的であるがゆえだろう。すべての成員を平等に包み込み、場の均衡を重視し、そのために属性による序列をつけて、能力差や個性といった違いの発揮ではなく、同質的で抑制的な言動を求めるのが母性の特徴であるから、母性的とは、すなわち逆ダイバーシティのようだ。(日本の企業の「母性的」な仕組みやマネジメントが、「女性」の活躍を阻んでいるのは逆説的で興味深いが。)

とはいえ、社会も企業も「父性的」に変わることはほとんど無理だろうし、それによって失うものも小さくはないはずである。河合先生も、「母性社会・日本の病理」という著書名ではあるが、父性的に変わるべきだとはおっしゃっていない。大切なのは、企業組織の変革や処遇制度改革などの検討に際しては、変えることが出来ない我が国の「母性的な部分」に対する十分な自覚が欠かせないということだろう。

【つづく】