純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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あなたわ、神お信じますか? なんていうのが、昔、街頭によく出没したが、最近もいるのだろうか。いまさら神もないだろ、と思うかもしれないが、神、という発想は、現代にも根深く残っている。もちろん、それは、もはや、やたら怒ったり愛したりするユダヤ・キリスト・イスラム教の神ではない。かといって、インドの鼻の長いのでも、日本のヤオヨロズのでも、まして、どこかのなにかおぞましい顔のでもない。なにかわからないが、人間を越え、世界を支配するものだ。

総称して、テイズムと言う。新旧両教の宗教戦争もすたれた、つまり、どちらも形骸化した1700年前後に、妙な神学がいろいろ出てくる。その代表的なのが、汎神論(パンテイズム)、理神論(デイズム)、知神論(反物論、インマテリアリズム)だ。スピノザは、この世界そのものが神だと言い、ニュートンは、神が世界の自然法則として支配しているとした。さらに、バークリーは、物を心に知覚させる神こそが唯一の実体だと考えた。

カトリックにしても、プロテスタントにしても、キリスト教では、人間を含め、世界は被造物であって、その創造主である人格的な神とは、絶対的な断絶相違があるとしてきた。そして、神は、創造と同様、気分次第で、いつでも被造物を消滅させることもできる、とされた。

ところが、スピノザは、汎神論として、この世界そのものが神だ、と言い出した。この唯一絶対の実体である神は、今風に言えば、電波や磁力、放射能など、きわめて多様な自然属性を持つが、それらのうち、観念と物体だけを、我々は認識する。そして、同じライヴパフォーマンスを、同時にカメラで撮って、マイクで拾えば、両者はシンクロするように、ここにおいて、観念と物体は、もとは同じ実体の属性だから、つねに並行一致していることになる。したがって、デカルト派が考えたような物心二元論の問題は起こりえない。

一方、ニュートンは、世界を死せるただの物体とし、これを生かし動かすために、神は世界に自然法則を与えた、いや、世界を支配する自然法則そのものが神なのだ、と考えた。言わば、世界はただのデータであって、そのデータを動かすプログラミング規則が神ということになる。我々、そして、世界が、どのように動かされているのか知る自然科学は、彼にと手、聖書以上に神を知る崇高な神学だった。

さらに、バークリーは、デカルトの「我思うゆえに我あり」を敷衍して、存在とは知覚だ(エッセ・エスト・ペルピキ)、と言う。だから、知覚される物体や観念ではなく、知覚する我こそが存在である、ということになる。ここを持って、彼の考えは、反マテリアリズム、と呼ばれる。がしかし、彼によれば、我もじつは知覚させられているにすぎず、この背景に、物体や観念を我に知覚させる神が、真の能動的実体として存在している。つまり、知覚させる神だけが真に実在し、知覚する個々の我、その我に知覚される物体や観念はまぼろしにすぎない。そして、この発想によって、彼はデカルトの独我論問題を解決できたと信じた。

もっと斬新な発想を考え出したのが、ライプニッツだ。彼からすれば、デカルト派の物心二元論問題などというのは、モノに大きさがあるとするところから間違っている。また、ニュートンのように、大きさを微細に分割していく必要も無い。点が二つあれば、それはもう空間なのだ。我々ががさつにあれこれを大きさのあるモノと思っているだけで、それはじつはすかすかの点の集合にすぎない。おまけに、その点は、それぞれまったく独立に思惟し、表現を変化させる。これを名付けて「モナド」と言う。

古い教科書だと、微粒子、などと、わけのわからない説明が書いてあるが、微粒子もなにも、モナドは、粒子というような量的な大きさをまったく持たない。点としての位置でしかない。いや、現代の我々の方が、むしろライプニッツを理解しやすいだろう。経済などと言っても、それはマクロの見方で、実際は、ミクロに個々の取引があるだけ。それを我々ががさつに総和してしまうから、量になるだけ。

テレビの画面も、いかに細かいにせよ、液晶の三色の点が明滅しているだけで、ほんとうは、そこでなにも動いてはいない。洋服なども、見た目では一つの布だが、実際は、細かな繊維の集まりで、布目も、糸も、スカスカ。金属ですら、電子などが通り抜ける。実際、薄く叩き伸ばした金箔なんか、向こうがふつうに透けて見えてしまう。ようするに、量を分割するから、いくら微細にしても量なんで、逆に最初から、ばらばらな点の集まりが量だ、と考えてしまえば、すっきり解決。

ただ、ライプニッツのすごいのは、この個々の点が、眠っているだけのものから、記憶や反省し、思惟して欲求するものまで、いろいろだ、としたこと。ここでまた、奇妙な神が出てくる。これらの点は、他の点と独立離存で相互干渉しない、とされる。にもかかわらず、全体で一つの量的なマクロになるのは、このミクロの点が、それぞれに、神が思念する同じ最善の世界を内的に反映しているから。たとえば、時計は、砂や水、機械やクオーツなど、仕組みもさまざまだが、それぞれの場所で、それぞれ独立に動いて、地球の回転を反映している。経済なども、別に全員が連絡を取って示し合わせなくとも、それぞれが同じ成るべき世界を思って行動するなら、大きなトレンドを成す。

また、興味深いのは、スピノザやニュートン、バークリーの神が現実に関与するのに対し、ライプニッツの神は、モナド相互と同様、モナドに対して直接は干渉しないのだ。そうではなく、モナドの方が、神の考える「最善」の世界をプラトン的なイデア(理念)として、それぞれかってにそれを考えて行動する。だから、モナド相互に連絡しなくても、あたかも示し合わせたかのように、一致する。予定調和だ。

スピノザやニュートン、バークリー、そしてライプニッツの奇妙な神学が、ドイツ観念論のヘーゲルなどにつながっていく。そして、それが地上に引きずり落とされ、資本論や唯物論に展開する。つまり、神を否定することを含めて、近代になっても、結局、人は神の観念から逃れられなかったのだ。宇宙は生命体だ、とか、世界は緻密に設計されている、とか、歴史的発展は偶然ではない、とか。合理的、論理的に考えれば、こうするのが当然だ、とか言うのは、つまり、ライプニッツの神のような理想的な思考者と一致するのが、個々人として正しい、と言うのと同じこと。それは、そういう完全理想の思考者が存在すると信じているに等しい。いくら神の名を表面から消しても、テイズムは、現代の我々にも染みついている。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)