純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

写真拡大

いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。


幕末の蘭癖

17世紀初頭、北米東岸は、オランダ東インド会社の植民地だった。しかし、英蘭戦争(1665〜67)で大英帝国に割譲。ところが、独立戦争(1775〜83)後、その戦費返済のため、中立だったオランダ系米国人たちに、良好な元英国派領地が破格の安値で払い下げられた。これを元手に、19世紀には、鉄道王ヴァンダービルト家やガラス王ルーズベルト家など、オランダ系米国人が経済の中心に躍り出る。かれらの多くが熱心なカルヴァン系オランダ改革派教会を信奉しており、莫大な資金を注ぎ込んでアジア進出を目論んだ。

一方、日本では、1716年、第8代将軍吉宗は、享保の改革の一つとして、洋書の輸入を解禁。第8代薩摩島津家重豪(しげひで、1745〜1833)は、「蘭癖(オランダかぶれ)」のはしりで、長崎まで出向き、オランダ語を学んでいる。また、豊前中津の奥平家も、長崎警備を命じられ、蘭学に力を入れていた。1774年には、その江戸屋敷で、侍医前野良沢らが『解体新書』を翻訳出版し、中津奥平家第3代昌鹿は、彼に「蘭毛(蘭学のバケモノ)」との号を下賜した。重豪の次男で奥平家に養子に入った第5代昌高(1781〜1855、29歳)に至っては、江戸屋敷に「オランダ部屋」を作って買い集めた文物を飾り、また、みずからオランダ語を学んで、1810年には『中津辞書』を作らせ、フレデリックヘンドリックと名乗った。

1823年、長崎出島オランダ商館医としてシーボルト(1796〜来日1823〜帰国30〜再来日59〜再帰国62〜66、27歳、じつはドイツ人密偵)が来日、島外で塾をつくって西洋医学を教えた。26年には、島津重豪(81歳)、奥平昌高(同次男、45歳)、島津斉彬(同孫、1809〜58、17歳)の蘭癖三代がシーボルトのもとを訪れ、オランダ語で会話し、弟子となることを願った。しかし、28年、シーボルト事件として、所持品に御禁制の地図などがあることが問題になり、翌29年、国外追放。オランダに大量の日本の文物のコレクションを持ち帰り、『NIPPON』(1832〜51、全20回分冊配本、蘭語、図版多し)を自費出版。これによって、にわかに日本が諸外国に注目されるところとなる。

松代真田家の下士、佐久間象山(1811〜64、31歳)は、江戸で佐藤一斎に学び、儒学者となったが、中国のアヘン戦争(1840〜42)で、幕府から真田家が海防係を命じられたため、その当主顧問に抜擢され、急遽、蘭学を修得。48年には、大砲を鋳造。51年には、江戸で五月塾を開き、勝海舟(1823〜99、28歳、下級幕臣)や吉田松陰(1830〜59、21歳、長州毛利家中)、坂本龍馬(1836〜脱藩61〜67、土佐山内家中)らを教えた。

51年、ジョン万次郎(1827〜98、24歳)ら三人の土佐漁師が帰国。十年前の41年、五人は漁労中に難破し、米国捕鯨船に救助され、ハワイに。ひとり万次郎は、船長の養子となって、さらに本土に渡り、マサチューセッツの漁師町のバートレット私塾で数学や航海術を学んで、みずからも捕鯨船員になった。しかし、帰国の念やまず、ゴールドラッシュのカリフォルニアで金を採掘して資金を得、ハワイの同僚二人とともに上海行き商船から小舟で琉球に。同地を管理する薩摩の島津斉彬(42歳)を経て、土佐に戻り、藩校教授に取り立てられ、後藤象二郎や岩崎弥太郎などを教える。


蘭学から英学へ

53年、黒船来航。昌高(72歳)は、すでに隠居の身ながら、当然に開国論を説き、同家砲術顧問の象山(42歳)に蘭学塾を開くことを打診。ところが、翌54年、松陰(24歳)が黒船密航に失敗し、師の象山も連座させられ、松代に蟄居。代わって、薩摩蘭方医の養子、寺島宗則(1832〜93、23歳)に委ねられた。また、55年、幕府も、艦船購入とともにオランダ海軍の指導を仰ぎ、長崎に海軍伝習所を開設。勝海舟(22歳)、佐野常民(1823〜1902、22歳、佐賀鍋島家中)、五代友厚(1836〜85、19歳、薩摩島津家中)、榎本武揚(1836〜1908、19歳、下級幕臣)ら、述べ128名が教育を受けた。一方、中津奥平江戸屋敷の蘭学塾の寺島(25歳)は、島津家に侍医を命じられ、57年、薩摩に連れ帰えられてしまう。さらに人を探したところ、中津奥平家の下士、福沢諭吉(1835〜1901、23歳)が自力で長崎に行って蘭学を学び、いま、大阪の緒方洪庵の適塾にいる、とのこと。58年、さっそくこれを呼び寄せ、江戸の蘭学塾を任せた。

黒船は、蘭語から英語に切り換える必要を生じさせた。この移行過程で蘭語と英語の両方ができるオランダ系米国人を語学教師などとして雇い入れるようになる。フルベッキ(1830〜来日59〜98、29歳)は、もともとはエンジニアだったが、大病の後、蘭改革派教会宣教師となり、59年に来日。しかし、いまだ日本ではキリスト教が禁止されていたので、長崎の私塾で英語を教え、副島種臣(1828〜1905、佐賀鍋島家中)、大隈重信(1838〜1922、佐賀鍋島家中)らを感化する。また、フルベッキは、その後、数百名もの日本人を各藩から蘭改革派教会ニュージャージー州ラトガース大学に留学生として送り込んだ。

60年1月、通商条約批准のため、幕府は正使の新見正興ら90余名を米軍艦で派遣。これに、長崎海軍伝習所教授方頭取の勝海舟(37歳)ほか、ジョン万次郎(33歳)、福沢諭吉(25歳)ら、90余名も咸臨丸で随行。咸臨丸一行は、サンフランシスコから往復140日、5月にで帰国。新見らは、パナマ鉄道で大西洋に出て、ワシントンで大統領に謁見。大西洋を渡り、喜望峰を経て、11月に帰国。また、62年1月には、外国奉行竹内保徳ほか、寺島宗則(30歳、医師)や福地源一郎(1841〜1906、30歳、英語通訳)、福沢(26歳)ら、計36名が英艦でヨーロッパ歴訪。駐日英国公使の日本コレクションが展示されたロンドン万国博覧会(62.5.1〜.11.1)などを見学し、63年1月に帰国。

これと前後して、62年6月には、幕府は、蕃書調所の津田真道(1829〜1903、33歳)と西周(1829〜1897、33歳)、海軍伝習所二期生の榎本武揚(26歳)ら、計15名をヨーロッパに留学させる。長州毛利家も、63年5月、井上馨(1836〜1915、27歳)、遠藤謹助(1836〜93、27歳)、山尾庸三(1837〜1917、26歳)、伊藤博文(1841〜1909、22歳)、 井上勝(1843〜1910、20歳)の「長州五傑」を英国へ密航させ、ベンサムが造ったオープンなロンドン大学の聴講生とする。また、64年6月には、幕府の築地軍艦操練所の学生、新島譲(1843〜90、21歳)も、函館ロシア領事館司祭ニコライの仲介で米国に渡り、カルヴァン系の神学校で洗礼を受け、また、マサチューセッツ州アマースト大学で化学者クラーク(1826〜86、38歳)に学ぶ。

しかし、巷では攘夷論が広まっていた。62年9月、横浜近くの東海道生麦村で島津久光の帰国行列四百名に、騎馬の英国人四名が乱入、これを斬り殺すという事件が起きる。第121代孝明天皇(1831〜即位46〜67、31歳)は、幕府に攘夷を迫り、幕府もこれを了諾し、長州毛利家に関門海峡封鎖を命じる。これを受け、63年5月10日、23日、26日、毛利家家臣の久坂玄瑞(1840〜64、23歳、吉田松陰の弟子)らが航行中の米仏蘭船を砲撃。6月1日、米軍艦が下関港内の毛利家軍艦三隻を撃沈。5日、仏軍艦が前田と壇ノ浦の砲台を破壊、上陸して民家を焼き払う。しかし、長州毛利家は、関門海峡封鎖を解かない。8月15日、英国艦隊7隻が鹿児島湾に突入、島津家蒸気船3隻を拿捕放火。これに対し、島津家側では大久保利通(1830〜78、33歳)が七ヶ所の砲台から反撃。城下を焼かれるも、英国艦を大破し撃退。故郷長州の危機を知り、井上(28歳)と伊藤(23歳)の二人は、英国から急遽、帰国。(他の三人、遠藤(28歳)、山尾(27歳)、井上(21歳)は、英国に残留。)英国公使らとの交渉に当たるが、64年8月5日、英仏蘭米連合艦隊、計17隻が関門海峡を総攻撃。毛利家は完敗。

弱腰の幕府は、薩摩島津家に和睦を勧め、島津家はやむなく、新たに蒸気船を買うということで賠償金(船の代金)を払うことにするが、その金も幕府からの島津家の貸付とし、結局、そのまま踏み倒す。一方、長州毛利家は、伊藤を通訳にして高杉晋作(1939〜67、25歳)が講和に出、関門海峡の外国船の通行、通商、上陸を認めたが、賠償金については、毛利家は幕府の命に従っただけ、として、幕府に請求するように、とした。このため、翌65年11月、連合艦隊は兵庫港に迫り、幕府に賠償金の支払を求め、幕府もやむなくこれに応じる。しかし、孝明天皇(34歳)は、長州毛利家に激怒。幕府に長州征伐を求め、幕府はこれを実行。ところが、薩摩島津家は出兵を拒否。征討軍は瓦解。

大久保(35歳)は、西郷への書状で、「非義勅命は勅命にあらず」と、孝明天皇の蒙昧を切り捨てている。その後、時代錯誤の尊皇攘夷の連中を倒幕に利用するが、彼の考えは、もとより公儀開国。愚かな天皇など、激動する世界にあって、まったく使いものにならないことを痛感。新時代に備えるべく、すでに65年1月、寺島宗則(33歳)や五代友厚(29歳)らに引率させ、森有礼(1847〜1890、18歳)ら、計20名を英仏米に留学させた。彼らは、現地で、長州毛利家留学生の遠藤(29歳)、山尾(28歳)、井上(22歳)と交流し、親交を深める。

幕府もまた、66年、御用儒者の中村正直(まさなお、1832〜91、34歳、佐藤一斎の弟子)を監督として、外山正一(まさかず、1848〜1900、18歳)ら14名を英国に送る。また、幕府旗本に取り立てられた福沢(31歳)は、66年から『西欧事情』(全6冊)を出版。政治から文化、社会、技術までを細かく紹介。その中には、米国独立宣言全文翻訳も含み、その平等と自由、幸福追求権や悪政革命権が示されている。68年1月に始まる戊辰戦争においても、福沢(32歳)は、中津奥平家蘭学塾を浜松町に移して慶応義塾とし、学生たちを関与させず、講義を続けたという。同年10月(旧暦9月)、明治に改元。


維新当初の大学構想

明治維新の直後から、日本にも大学構想はあった。元となったのは、京都御所内の学習院(1847〜)。これは公家のための儒教漢学の学校であり、和学も講じられていたのだが、維新で勢い付いた尊皇派の国学者たちが、神道国学を主軸に据え、政経、文化、医芸、洋学の五学部体制にしろ、と騒ぎ出す。しかし、この構想はまとまらず、68年10月、学習院を漢学所、約130名とし、新たに皇学所、約108名を設置することとなった。

これに対し、徳川将軍家は、旧幕領の駿府藩(静岡・浜松・三河)70万石に。かれらはまだお家再興を考えていた。その人材育成のため、68年11月、津田真道(39歳)を筆頭に、中村正直(36歳)らを教授として、静岡学問所を開講。この学校は、身分にかかわらず入学することができた。

新たに参与となった大久保(38歳)は、時代錯誤の尊皇派が強い京都を棄て、江戸に遷都することを計画。68年8月27日の即位が終わると、あくまで一時的な行幸として、明治天皇を江戸に移し、10月13日、ここを東京と改める。同年末、京都に戻り、春また東京へ。以後、天皇が京都に戻ることはなかった。

東京では、69年8月15日、接収した幕府の昌平黌、開成所、医学所を統合、これを「大学校」とし、それぞれ本校(現お茶の水湯島聖堂)、南校(神田一ツ橋)、東校(下谷御徒町)とし、この本校に京都の漢学所と皇学所を吸収。京都でもまとまらなかった漢皇の争いが本校に持ち込まれ、くわえて、両学本校は、洋学南校とも対立。一年を待たず、翌1870年8月8日には早くも、学制改革を名目に、本校を廃止。もとより明治新政府は、漢学はもちろん、国学も必要とはしていなかったのだ。くわえて、南校にしても、学生の水準が低く、西欧型の法文理三学部に相当する専門科を放棄し、普通科(予備外国語科)のみとなり、蘭系米国人フルベッキ(40歳)を教頭とするも、「開成学校」と改称することになってしまう。

一方、ヨーロッパでは、普仏戦争(70.7〜71.5)において、辺境の小国プロシアがフランスに圧勝、バイエルンやヘッセンなどを吸収して、ドイツ帝国となった。すでに68年から青木周蔵(1844〜1914、26歳、長州毛利家蘭学医養子)が現地に留学しており、品川弥二郎(1843〜1900、27歳、長州毛利家下士、松陰の弟子、新政府軍参謀)も、この戦争を視察し、独英に留学。フランスが共和制とは名ばかりの階級社会であったのに対し、プロシアは、絶対王政でありながら、ナポレオンに敗退した直後の1819年から、国家のための人材育成として、義務教育、国民皆兵、参謀抜擢、を徹底してきていた。英国はフランスと似たり寄ったりの階級社会であり、また、米国も教育を私的な受益者負担でしか考えていなかった。

71年7月、静岡学問所教授の中村正直(39歳)が、スマイルズの『自助論』(1959)を翻訳し、『西国立志編』として出版。一大ベストセラーとなり、72年9月の学制発布で全国に小中学校が設置されると、多くの学校で教科書として使われるようになる。また、このころ三田に移り、300名を超える学生を抱えるようになった慶應義塾の福沢諭吉(37歳)も、72年5月、『学問のすゝめ』を出版。封建的な五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)を重んじる儒教を退け、絶対的な平等と独立を訴えて、民間知識人主導の学術や産業の振興と社会契約説に基づく民主政治を説いた。

つまり、このころ、尊王の国学は、もはや天皇にも見捨てられた京都の一角に封じ込まれていた。一方、徳川家は、あいかわらず幕府が薩長に代わっただけとしか考えておらず、いずれ元に戻そうと試みていた。新政府の大久保にしても、はなから天皇親政など考えておらず、公家たちもお飾りにすぎなかった。まして、福沢は、英国流の立憲君主制、それどころか、米国式の天皇無き共和大統領制を目指していた。


殖産興業と不平士族

ただでさえ不平等条約を課せられているうえに、急務である富国強兵のための大量の機械や武器の輸入で、日本経済は破綻寸前だった。維新を賄った太政官札は、信用を失って暴落。一方、英植民地銀行オリエンタルバンクを中心として、外債が大量にあり、その金利は15%以上。にもかかわらず、大蔵大輔大隈(32歳)はさらに外債を増し、70年には国債も発行。太政官の年収2億円相当を上回る年収2億5千万円相当で、鉄道経営者キンダー(1817〜1884、53歳)を造幣寮首長に迎え、「長州五傑」のひとり、遠藤謹助(34歳)とともに銀貨を鋳造させ、国内経済を安定させる。

しかし、外債については返済の目途が立たない。輸出品といえば、生糸か、せいぜい陶磁器くらいしかなく、それも粗製濫造で価格を落としていた。英人技師モレル(1840〜1871、31歳)の助言を受け、「長州五傑」の伊藤(30歳)と山尾(33歳)は、71年、工部省を興し、工部大学校を計画する。また、山尾(34歳)が、71年4月、英銀オリエンタルバンクからの借入で幕府の仏銀債務を返済し、担保になっていた作りかけの横浜造船所を接収し完成。。また、モレル(32歳)を「長州五傑」の井上勝(29歳)が補佐し、72年10月、新橋〜横浜に鉄道を開業。さらに、72年11月、大隈(34歳)が中心となって、フランス式で官営の富岡製糸場を作った。これらの新規機械設備は、さらに財政を圧迫し、悪循環に陥らせた。

72年、慶応出の少壮文部官僚、九鬼隆一(1852〜1931、20歳)が開成学校の監事として赴任。彼は、二万石にも満たない兵庫綾部藩(いちおうは官軍)家老の養子で、薩長土肥を中心とする藩閥政府を憎んでいた。当時、教育予算の4割近くが260名の留学費用に充ており、旧幕臣や薩長土肥の子弟の利権と化していた。文部省は、効率化のため、教員招聘に方針を転換。ドイツ留学生、青木(27歳)との連携で、医学は、早くもオランダ式からドイツ式に切り替えられ、大学校東校(医学部)は、71年、プロシア軍医のミュラー(1824〜93、47歳)とホフマン(1837〜94、34歳)を招いて、教育カリキュラムを改革。かれらに続いて、73年には古生物学者ヒルゲンドルフ(1839〜1904、34歳、ベルリン自然博物館員)が来日し、同校で動植物学や鉱物学を講義。また、73年、少壮の文部官僚、九鬼(21歳)が渡欧し、現地留学生の帰国を促した。青木(29歳)は、いったん帰国したものの、すぐ外務省に入り、74年、外交官としてふたたびドイツに赴任。

これと並行して、函館戦争後も北海道開拓次官となっていた黒田清隆(1840〜1900、31歳、薩摩島津家下士の出)も、71年1月から5月まで、米国およびヨーロッパを歴訪し、お雇いにふさわしい外国人を探索。また、71年12月、大久保(41歳、士族派)や木戸孝允(桂小五郎、1833〜77、38歳、皆兵派)、伊藤博文(30歳)、津田梅子(1864〜29、7歳、幕臣蘭学者の娘)を含む計107名の岩倉使節団が米国や、ドイツを含むヨーロッパ各国を訪問。米国では神学生新島(29歳)に会い、これを通訳としてヨーロッパにまで同行させる。また、オーストリアでは、大隈(35歳)と佐野常民(40歳)が小シーボルト兄弟(息子のアレクサンダーとハインリヒ)の助けを借りて日本館を出したウィーン万国博覧会(73.5〜.10)にも立ち寄った。この使節団の最大の目的は、かつて江戸幕府が結んでしまった不平等条約の改正。けれども、この交渉で、まずキリスト教容認を押しつけられてしまう。また、帰路では、スエズ運河を経て、セイロン(現スリランカ)、シンガポール、サイゴン(現ホーチミン)、香港、上海などの英仏植民地も見学。

同じころ、72年、駐米代理公使森有礼(1847〜89、25歳、元薩摩藩士)が、日本人留学生が多くいる改革派教会系ラトガース大学から、逆に、学校経営で実績のある哲学教授モルレー(1830〜1905、42歳)を招聘。73年2月、キリスト教解禁。フルベッキ(43歳)は、開成学校教頭のポストをモルレーに譲り、みずからは宣教活動を開始。

73年9月、霞ヶ関に工部大学校ができる。これは、1学年数十人で、土木、機械、電信、造家、鉱山、化学、冶金、造船などを教えるものであり、辰野金吾(1854〜1919、19歳、唐津小笠原家下士の子)や高峰譲吉(1854〜1922、19歳、加賀前田家侍医の子)らが一期生として入学。外務省も、開成学校から語学課程を引き継ぎ、73年11月、東京外国語学校を創設。英仏独中露を教え、通訳を養成。74年12月、人数の多い英語科を東京英語学校として分離独立させる。

しかし、経済状況の悪化は、旧来の武士、とくに幕府敗軍方を困窮させた。殖産興業が間に合わない。留守居政府の西郷隆盛(1828〜77、44歳)や黒田清隆(32歳)らは、その対策として、北方警備を兼ねて北海道を開拓する屯田兵を考え、72年、函館戦争以来、投獄されていた榎本(36歳)を特赦で解放。5月、東京芝増上寺の一画を開拓使仮学校として、志願者120名を養成する。ここにおいて、現地調査で石狩平野(空知・夕張)に良好な炭田が見つかり、一同、開拓に期待を膨らませる。

73年9月、使節団が帰国。しかし、この留守中に、朝鮮が遅れて鎖国攘夷に傾き、日本とさえも断交。西郷隆盛らが強行交渉を試みようとしていた。また、71年末に漂流した琉球民54人が台湾原住民に殺害される事件があり、台湾を統括する清に抗議したが、原住民については責任外としていた。帰国した大久保らは、朝鮮については両国ともに欧米の餌食となることを恐れ、反対。西郷下野。しかし、翌74年4月、台湾には、大隈(36歳)、西郷従道(隆盛の弟)らに命じて、約六千名を出兵。木戸(41歳)は、この対応の矛盾を是とせず、下野。

このころ、すでにカトリック系パリ外国宣教会、ロシア正教会などの聖職者も、自国居留者のためと称して函館や横浜、長崎などに入り込んでおり、語学教育を名目に、以前からひそかに信者を増やし続けていた。そして、73年の解禁とともに、クリスチャンは爆発的に増大。だが、その入信は、少なからず打算欲得に基づいていた。彼らの多くは、敗北没落した旧幕軍側諸藩の武士やその子弟。海外と結びつくことで、再浮上しようと考えた。また、彼らの中には、武士の習いで民衆を導く宣教師になった者も少なくなく、豊富な海外教会資金を背景に、キリスト教は劇的な速度で日本に裾野を拡げていく。しかし、これは幕藩政府を震撼させた。彼らは不平士族そのものであり、西郷や木戸の下野もあり、政治運動化するのは時間の問題だったからだ。実際、クリスチャンは、天帝を信奉し、天皇を否定。とくにプロテスタント系は、士族の革命的な自由民権運動を鼓舞。

先に大ベストセラー『西国立志編』を出した徳川家駿府藩静岡学問所教授中村正直(40歳)は、ミルの『自由論』(1859)を翻訳し、72年2月、『自由之理』としてを出版。これは、個人と文明の発展のために、他者に危害を与えないかぎり、政府が干渉すべきではない、とするものであるが、同時に、粗雑な民主主義において、多数が少数の自由を圧迫することを危惧している。政府は、この徳川家の学問所が士族の自由民権運動の拠点となることを恐れ、同年6月、中村は政府に登用、主だった教授や学生たちも引き抜く。そして、8月の学制発布で、全国の私塾を禁止。静岡学問所も廃校とした。

70年から73年まで米国の代理公使を務めていた森有礼(27歳)は、学術や政策の意見交換をする学会の必要性を感じ、帰国後、西周(45歳)、津田正道(45歳)、中村正直(42歳)、福沢諭吉(39歳)、加藤弘之(1836〜1916、38歳、洋学侍講)ら、留学経験者や洋学者たちにに呼びかけ、「明六社」を設立し、不平士族による佐賀の乱暴発の後、74年3月から雑誌を発行。このころ、清を含む七カ国に、すでに380名以上が留学していた。

74年6月、下野し帰郷した西郷隆盛(46歳)が私財を投じ、旧鹿児島城内に私学校を創設。これは、銃兵や砲兵を養成する軍事専門学校で、定員800名にもなったが、入学は士族に限られた。これと対になる北の屯田兵も、75年5月、琴似(現札幌の東北1駅目)に入植。開拓使学校も札幌(現時計台北)に移す。かつて新島譲も習った、マサチューセッツ農科大学学長クラーク(50歳)を教頭に招き、76年8月、札幌農学校とする。また、同75年、改革派教会宣教師となった新島(33歳)が帰国し、11月、米国で集めた寄付を元に、京都の公家屋敷別邸で、同志社英学校を開く。当初は生徒8人たらずだったが、翌76年10月には、海老名弾正、徳富蘇峰ら、熊本のクリスチャンの若者35名が合流。旧薩摩屋敷に移り、規模を拡大。

伊藤博文(35歳)は、76年11月、工部大学校付属として工部美術学校を開く。イタリアから洋画家フォンタネージ(1818〜82、58歳)、彫刻家ラグーサ(1841〜1927、35歳)、家屋デザイナーのカペレッティ(1843〜87、33歳)を招き、山本芳翠(1850〜1906、26歳)、浅井正(1856〜1907、20歳)、小山正太郎(1857〜1916、19歳)ら、60名近くが入学。また、この学校は女性の学生もいた。しかし、この美術学校は、あくまで工部大学校の付属であり、殖産興業の一環として、輸出可能な美術品製作を目指していた。


東京大学とイカサマ外国人教授たち

このころ米国では、南北戦争に敗れた南軍残党の西部移住とともに鉄道網が拡大。しかし、教育は行き届いておらず、字が読めないため、鉄道で巡回してくる教養講演会(TEDのもと)が庶民の娯楽として人気を博した。たとえば、『トム・ソウヤーの冒険』(1876)を出すまでのマーク・トウェイン(1835〜1910、41歳)は、ハワイやヨーロッパを旅行し、その記事を新聞に連載した以上に、現地の体験談をおもしろおかしく語る講演会で生計を立てていた。また、発明もブームになっていた。貧しいオハイオ州生まれのエジソン(1847〜1931、30歳)は、電信係の経験を生かし、株式相場表示機を発明。77年には、蓄音機を商品化して財を成し、ニュージャージーに自前の研究所を作り、エンジニアたちを集めて、企業化に乗り出す。

一方、日本では、造幣寮首長キンダーの銀貨や技師モレルの鉄道が、英国植民地規格であることが問題となった。これでは、これからいくら苦労して不平等条約を改正したとしても、その後も永遠に英国支配を抜け出ることはできない。すでにモレルは71年に横浜で死去していたが、キンダーについても、75年に解任し帰国させ、日本が独自にドイツを範とする必要性が強まる。

内務省の新宿農事修学場を移転し、77年2月、駒場農学校として開校。札幌農学校が米国式大規模農法であるのに対し、これはドイツ式畜産混合農法をめざす。それゆえ、農学科20名だけでなく、より大きな獣医学科30名が置かれた。ただし、施設が間に合わず、従来の新宿の寄宿舎に寝泊まりしながら、駒場野5300坪を自分たちで開墾しなければならない。

同77年2月、西郷の私学校が挙兵、西南戦争となる。そのさなか、4月に東京大学が開校。これは、先行してドイツ式に切り替えられていた旧大学校の医学東校(本郷)はそのままながら、予備教養課程しかなくなってしまっていた洋学南校の開成学校(一橋)に、ようやく上位専門課程の法文理三学部に整え直すもので、皇室洋書侍講の加藤弘之(41歳)が三学部総理として事に当たった。三学部の学生は、157名。うち理学部が102名を占め、法文は、合わせても55名にすぎない。

ここでは、英人とクリスチャンを教員から排除することが喫緊で当然の前提だった。文学部は、第一科洋学(哲学・史学・政治学)と第二科和漢学からなり、開成では米国聖公会老宣教師エドワード・サイル(1812〜90、65歳)が哲学(道義学)も教えていたが、東大第一科では、前年にミシガン大学留学から戻ったばかりの気鋭の外山正一(1848〜1900、28歳、元旗本、勝海舟の弟子)が、これに代わって哲学を担当。老サイルは史学にシフト。政治学については担当教授は空席のまま。まして、細分化された理学部については、専門教授がおらず、たとえいてもかなり怪しい連中だらけ。

理学部では、駐独公使青木周蔵(33歳)の推薦によって、ミュンヘン大学で学位を得たばかりで、人格にも問題の多い独人青年ナウマン(1854〜1927、23歳)を地質学教授に大抜擢。これが英人工部大学校教授ミルン(1850〜1913、27歳、リバプール鉱山技師)とともに、若さと体力に任せて日本中の山野を駆け巡り、全国測量と地質調査。海岸線のみだった伊能忠敬の地図を、内陸の等高線まで完成させる。じつは、彼らは、文字通りの山師。政府は国防上の理由から正確な日本地図を必要としていただけでなく、殖産興業のために鉱物資源の発見と開発を急いでいた。

また、同77年6月、モース(1838〜1925、39歳)なる男が来日。貝の採取許可をとるため、文部省に向かう途中、横浜から乗った汽車の車窓で大森貝塚を発見した、とか。もともと高校中退の貝オタクで、マサチューセッツ州ハーバード大学教授の助手にすぎなかったにもかかわらず、漫談のような巡回教養講演で荒稼ぎ、メイン州ボウディンカレッジに潜り込み、米国科学振興協会(当時はまだ南北戦争後に再発足したばかりで、入会資格審査も無く、田舎者の俗物シロウト好事家の集まりだった)の幹事となっていた。それが、かつてミシガン大学の巡回講演で外山と面識を得たので、日本まで研究調査に来た、などと言う。その口のうまさに載せられ、外山は、これを月俸370円(年収約5000万円相当)で理学部動物学教授のポストを与え、江ノ島に実験所まで作ってやってしまう。

モースの推薦で、翌78年、メンデンホール(1841〜1924、37歳)を呼び寄せ、理学部物理学教授とする。オハイオ出身の彼は、エジソン同様、独学で教養を身に着け、地元の小学校教師となり、73年からオハイオ農業・機械カレッジの物理教授に抜擢され、同校の名誉学位を得たばかりだった。これもまた、およそアカデミックな経歴ではないが、努力家ではあった。

もう一人、モースが推薦したのが、フェノッロサ(1853〜1908)。スペイン系船上移民楽師(つまり「ジプシー」)の子ながら、ハーバード大で哲学を学び、神学校に進むも、棄教して中退。こんどはボストン美術館付属美術学校に入るが、父の自殺で、就職先を探していた。およそ政治学とは関係がなかったが、78年8月、これが東大の政治学の教授になった。月俸300円(年収3600万円相当)。

もっとも、文学部の中心となるべき哲学教授外山からして、ひどかった。講義は、社会進化論を語るスペンサーの著作を、原文で学生と輪読するのみ。モースは、ダーウィンの進化論に基づいて、天地創造説を採るキリスト教を批判。フェノッロサに至っては、モースや外山に媚びてダーウィンやスペンサーの名を使い、極端な国家主義で流行の自由主義を揶揄して、客いじりをする寄席の落語まがいの放談放題。学生を飽きさせはしなかったが、学生たちにまで、「才あまりあって学識の積貯無し」と侮られる始末。


通俗的進化論

しかし、外山が輪読のみで自説を語らなかったのは、理解できないではない。ダーウィンの『種の起源』が出版されたのが1859年。スペンサーの『総合哲学体系』(第一原理・生物学原理・心理学原理・社会学原理)が62〜96年。当時、人間はサルから進化した、というセンセーショナルなテーゼのみが世界を席巻したが、海外では、原本がわかる人、そもそも本の字を読める人が、まだほとんどいなかった。それで、中身も知らず、生存競争だの、自然淘汰だのという言葉だけが独り歩きした。それを煽ったのが、モースのような半端な巡回教養講演師だった。

進化論そのものは、もともと、王政から共和政を経て帝政に至るフランス革命期の激動から得られた知識人の一般的な実感だった。革命かぶれのドイツ人哲学者ヘーゲル(1770〜1831、37)は、思いつきの空虚な観念が、現実社会での実証的実験を経て、単純で抽象的なものから複雑で具体的なものへ進化していく、と考え、これを『精神現象学』(1807)として発表。また、フランスの自然学者ラマルク(1744〜1829、63歳)は、無脊椎動物の実証的研究から、種は固定されたものではなく、要不要で器官を発展退化させ、その獲得形質を継承させることで進化する、とし、これを一般向けの『動物哲学』(1809)で紹介した。

フォイアーバッハ(1804〜72、37歳)は、ヘーゲルの観念論を反転し、社会の現実が空虚な観念を生み出し、かえってそれに支配されるようになる、という疎外論的唯物論を『キリスト教の本質』(1841)で唱え、キリスト教を批判。1844年、『創造の自然史の痕跡』が出て、国際的なベストセラーになる。著者は匿名。じつは、別の出版社のオーナー、チェンバース(1802〜71、42歳)。これは、キリスト教の天地創造説を科学的に辿ろうという野心作。宇宙の星雲から太陽系ができ、さまざまなできそこないを経て、人間が生まれてきた、と言う。奇妙な生物の化石や、現存するサルのような下等生物は、その過程の痕跡とされる。(ただし、すでに分岐説であり、サルはサルなりに進化したものであって、サルから人間が進化した、とはしていない。)

マルクス(1818〜83、41歳)は、『経済学批判』(1859)において、フォアーバッハの疎外論を徹底して地上の問題とし、生産力の進化によって、逆に人間が生産力に支配され、階級闘争が生まれて、いずれ共産主義に至る、とした。ダーウィン(1809〜82、50歳)は、測量船ビーグル号での世界航海(1831〜36)で、世界各地の種の多様性を痛感し、『種の起源』(1859)として、要不要ではなく、自然発生的な個体差が、その時、その場での環境適応の如何で世代淘汰され、種として分岐し固定していく、と主張した。また、スペンサー(1820〜1903)は、『総合哲学体系』(1862)において、社会全体をひとつの生物的な有機体と捉え、ヘーゲルのように、単純な集団から複雑なシステムへ、つまり、強制的軍事社会から自発的産業社会へ進化する、と考え、自由放任によってこそ自然淘汰、適者生存が図られるとした。

つまり、ダーウィンの学説は、種の直線進化論ではなく、種の多様分岐論であり、人間がサルから進化した、などというのは、もとより彼の思想ではない。また、ダーウィンにしても、スペンサーにしても、個体差こそが環境適応の如何で自然淘汰を引き起こし、それぞれの場で異なる適者生存を可能にする、と考えており、天賦の平等均一や環境の全土統一を根本から否定している。くわえて、両者とも、人為的で強制的な関与は、自然淘汰による多様性への分岐進化を撹乱阻害する、と考えている。だが、福沢のような平等人権思想家、大久保(78年暗殺)や伊藤のような有司専制政治家の下では、これらは、東大にあっても外山が表立って主張できるような思想ではなかった。

一方、講義録を見るに、モースやフェノッロサが説いた通俗的進化論は、ダーウィンやスペンサーの先進の多様性思想を正確に模したものではなく、それらより古い、『痕跡』の聞きかじりに、フォイアーバッハの唯物論的なキリスト教批判と、マルクスの階級闘争を帝国主義競争にすりかえたものを混ぜ合わせたような体裁で、自由放任を主張するスペンサーとはむしろ真逆に、国家無くして権利無し、と主張し、強制的軍事社会としての国民団結の必要性を説くものだった。しかし、これこそが、地租改正(73、金納税制)で不平士族のみならず地方豪農を巻き込んで隆盛する自由民権運動と対抗するために、政府が必要としていた思想にほかならない。

フルベッキや慶応に学び、ニューヨークのコロンビア法律学校を卒業して東京英語学校教諭となった江木高遠(1849〜1880、29歳)は、78年6月、米国風の庶民向け教養講演会を企画。モースを呼び、通俗的進化論を語らせ、浅草に500人以上の客を集める。この成功を受け、9月にはこれを会員制の江木学校とし、モースやフェノッロサだけでなく、福沢諭吉(43歳)や加藤弘之(42歳)なども巻き込んで、錚々たる文化人を揃えた。


日本美術品とドイツモデル

西南戦争の負担と、東京大学の創設は、国家予算をさらに傾けた。経費節減のため、各省庁は、法外に高額な報酬を必要とするお雇い外国人たちを半分以下にまで減らす。工部美術学校の洋画家フォンタネージ(60歳)も、78年9月に帰国。その助手となっていた小山らも退学。とはいえ、当時、洋画は人気で、小山たちは、いくらでも喰っていくことができた。新政府の官僚はもちろん、新興の財界人たちが、次々と洋館を建て、そこに洋画を飾ったからである。功遂げ、名を成せば、みずからの肖像画も依頼。

一方、日本画や工芸品は、危機的な状況だった。もともと江戸時代において、もはや所領の加増の余地が無かったため、幕府や家中から褒賞は美術品で行われた。転封(国替え)も頻繁に行われたため、動産の美術品は、武家にとって好都合でもあった。豪農にしても、都市の頻繁な経済変動を避けるべく、美術品で蓄財。これらは、金貨以上に価値が安定した現物貨幣として、広く全国に流通していた。ところが、明治になると、かろうじて陶磁器のみが訪日外国人たちの土産となり、わずかに輸出品となったくらいで、その他の大量の美術品が行き場を失う。没落した武家、とくに敗軍幕府方の士族が生活のために換金しようにも、値が付かないほどの投げ売り。廃仏毀釈で檀家を失って困窮した寺からも、多種多様な美術品が放出された。くわえて、税を金納させる地租改正は、美術品で蓄財してきた豪農たちをも窮地に追いやり、政府に不満を持つ士族や豪農の自由民権運動は、ますます強まった。

だが、洋行帰りの講演興行主、江木高遠(30歳)は、日本の美術品は米国で売れる、と目を付け、安値で買い集めた。それを知って、講演者のモースやフェノッロサも、学生の岡倉天心(1863〜1913、16歳、横浜貿易商の子)を通訳にして名家に取り入り、全国を巡り、ありあまる給金で日本画や工芸品を買い漁った。ここに、パリ万国博覧会(78.5.20〜.11.10)のために渡仏していた少壮文部官僚九鬼(25歳)が、現地でのジャポニズム人気を知り、79年5月に帰国すると、モースやフェノッロサと合流。だが、モースは、79年8月で契約満了となり帰国。日本話の巡回講演で、また荒稼ぎ。79年末、江木は、外務省書記官となり、翌80年、ワシントンに赴任。しかし、美術品密輸出が発覚し、6月に公館内で拳銃自殺。一方、同80年、東大を卒業した岡倉天心(17歳)は、文部省に入り、九鬼(26歳)の腹心となって、師フェノッロサの強引な買付を支援。

67年のパリ万博、73年のウィーン万博に関わってきた佐野常民(58歳)は、西南戦争直後の77年8月に上野公園で第一回内国勧業博覧会(8.21〜11.30)を開き、殖産興業に努めてきたが、81年の第二回(3.1〜6.30)は、第一回の4倍もの出品に、82万人以上の来場者を集め、大成功した。ここにおいて、日本の美術品の価値が見直され、その振興保護のため、愛好家の龍池会が結成され、翌82年までに260名を越える組織となる。

このころ、政府は、もはや自由民権運動に抗しきれず、国会開設と憲法制定に舵を切る。大蔵閥の大隈(43歳)や福沢(46歳)慶応一派は、いまだに米英べったりで、さらに外債を増やしてでも、結託する財界を盛り上げ、早期に民主化すべきだ、とした。しかし、その米英こそが、不平等条約の改正を強硬に拒み、財貨を流出させ、日本を窮地に陥れている元凶にほかならない。

一方、故大久保から内務卿を引き継いだ伊藤(40歳)は、財政窮乏のため、費用膨大な北海道開拓使の払い下げ民営化を計画。これに大隈や慶応一派が、民業圧迫として噛みついた。81年8月31日、伊藤は大隈と慶応一派を追放。明治14年政変と呼ばれる。文部官僚九鬼(29歳)は、慶應出ながら、反福沢として残留。同年10月、勅諭によって、国会開設は十年後の1890年に先送りされ、翌82年、伊藤は、ドイツを訪問。以後、絶対帝政のドイツを範とする国会と憲法が模索される。

この影響は、ただちに東京大学にも現れた。81年6月、法文理三学部に医学部も統一され、その総理(学長)に加藤(46歳)が就いたが、彼は、蕃書調所のころからもとよりドイツ派で、一時は天賦人権説に傾いたものの、82年、『人権新説』を出版。スペンサー風の国家有機体説を唱えながら、モースやフェノッロサなどと同じような通俗進化論に基づき、キリスト教的利他主義を虚妄として、むしろ同時代のニーチェを先取りし、利己主義を是認、その生存競争による適者進化の現実を見据え、国家無くして権利無し、として、下野した大隈らの自由民権運動の批判にまわった。

また、フェノッロサ(29歳)の政治学は、あまりに休講が多く、あまりに内容がひどいかったため、82年秋の新学期から政治学教授は、新たに招聘したドイツ人ラートゲン(1856〜1921、25歳)に代えられてしまうことになる。彼は、ベルリン大学等で学び、国家司法試験にも合格し、『ドイツにおける市場の成立』という研究論文でストラスブール大学の正規の法政治学の博士号を取得したという正統アカデミズムの経歴を持つ人物。正体不明のフェノッロサとは較べものにならない。


国粋派と洋化派の対立

後が無いフェノッロサは、82年5月、龍池会で、独自の美学論に基づいて、徹底的に洋画を攻撃し、日本画を礼賛する講演をぶち上げ、その講演録がベストセラーになる。おりしも、6月、巡回公演師モース(44歳)が御大尽ビゲロウ(1850〜1926、32歳)を連れて再来日。内科医の祖父が薬草学に通じ、ヘロインで巨万の富を築いた。本人もハーバード大で医学を学んだが、パリ留学後に止めてしまい、パリで知った日本美術品のコレクターとして遊び暮らしていた。まだ東海道に鉄道はできていなかったが、7月、彼ら三人は、駅馬車や駕籠を乗り継いで、関西を旅行。名家や寺院から多種多様な美術品、果ては仏画まで、を叩き値で買い漁り、国外に持ち出した。

このとんでもないケタ外れの御大尽をパトロンに得て、フェノッロサは東京でも勢いづいた。一介の教授、それも馘首予定にも関わらず、10月の卒業式で総長加藤らと並んで登壇し、卒業生が政治関与することを厳格に戒める演説をぶつ。その一方、自分自身は政治的なコネを駆使し、哲学科に移って、かろうじて大学に残る。米人のくせに、やむなくドイツのカントなどを語ったようだが、学生は数名もいない惨憺たるありさまだった。

同82年10月に農商務省が開いた内国絵画共進会も、文部官僚の九鬼(31歳)や岡倉(20歳)の策謀で、直前になって洋画の出展が禁じられ、財政悪化、お雇い教授の帰国、学生の離反、フェノッロサの洋画攻撃などあって、工部美術学校は、82年12月、閉校に追い込まれてしまう。一方、山師フェノッロサ(30歳)の日本画追従に乗せられた龍池会は、83年6月、パリで展覧会を開き、日本画150点を展示するが、失敗。これに懲りず、翌84年5月にも、開催。200点を越える出品にもかかわらず、1点も売れない。

しかし、内務卿伊藤(42歳)の方針は、急務の条約改正のため、もとより国粋主義などではなく、ドイツ式の洋風近代化だった。長州五傑以来の同僚、外務卿井上馨(47歳)に命じて、83年11月には、鹿鳴館を作らせ、芸妓たちにダンスを踊らせて、外交官たちを接待。また、日比谷にドイツ風の官庁街を計画。これに呼応して、東大哲学教授外山(35歳)も、漢字を廃止してローマ字化することを検討。85年12月、太政官制が内閣制に切り替わり、伊藤(44歳)が初代総理大臣になると、井上(49歳)を外務大臣とし、その腹心で、帰国した駐英公使森有礼(38歳)を文部大臣に据える一方、文部省をぎゅうじっていた国粋主義の九鬼(33歳)をワシントンに左遷。

とはいえ、伊藤の洋化政策に反発する国粋主義者たちに担がれたフェノッロサ(31歳)の権勢もなかなかで、ろくに哲学も教えられないのに、84年、東大教授の契約を再度更新。年俸6000円(6000万円相当)をもらいながら、講義をさぼって美術品の買い集めに奔走。同年7月には、九鬼(32歳)や岡倉(21歳)、ビゲロウ(34歳)とともに、法隆寺に押しかけ、政府調査と称して、秘仏の夢殿救世観音の封を解いてしまうなど、やりたい放題。また、日本の美術品千点以上をボストンの収集家ウェルドに売っ払い、28万ドル(56億円相当!)を稼ぐ。

85年9月、東京大学の理学部から工芸学部を分離し、翌86年3月、これに工部大学校を統合して、帝国大学と改称。慶応出ながらオーストリア外交官(つまりドイツ派)を務めた渡辺洪基(1848〜1901、38歳)が総長となる。また、86年9月、総理大臣伊藤(45歳)は、東京美術学校設立のための調査としてフェノッロサ(32歳)と岡倉天心(24歳)を欧米に送り出す。が、じつは、その留守中に帝大哲学教授外山(38歳)に諮問し、美術学校の構想を練らせる。外山は、これを日本画と洋画の並立とする。


洋化派の敗北と国粋派の自滅

87年3月、上野公園で東京府工芸品共進会(3.25〜5.25)開催。ここでは、洋画が再び展示された。鹿鳴館接待が功を奏し、条約改正はあと一歩だった。同年4月20日、伊藤総理(46歳)官邸に英国公使夫妻ほか400名を招き、一大仮装舞踏会「ファンシーボール」が開かれる。伊藤はベネチア仮面貴族、外務大臣井上(51歳)は三河万歳。政治家だけでなく、東大総長渡辺は西行法師、法学部長穂積は恵比寿様、植物学教授矢田部は大黒様、と大いに努力。

しかし、この媚び過ぎた乱痴気騒ぎは、国粋主義者たちの逆鱗に触れ、新聞は、鹿鳴館の華とされた戸田伯爵夫人と伊藤総理の関係を騒ぎ立て、老勝海舟(64歳)も「淫風の媒介」と伊藤に苦言を呈する。結果、外遊中で舞踏会に参加していなかったった黒田清隆(47歳)に期待が集まる。くわえて、条約改正案に外国人判事任用などの屈辱的条件が残っていることがわかると、いよいよ洋化派(長州閥)に対する批判が高まり、井上は、9月、外務大臣を辞任。伊藤(47歳)も、翌88年4月に辞任して、代わって黒田(48歳、薩摩閥)が第二代総理大臣に。

フェノッロサ(33歳)と岡倉(25歳)は、九鬼の妻を連れて、87年10月に帰国。遅れて88年2月、九鬼(36歳)本人も帰国。森有礼(41歳)は文部大臣に残ったが、全国の学校巡視に追いやられ、黒田新総理の下で、九鬼は宮内省図書頭となり、帝国博物館の準備のため、臨時全国宝物取調掛を設置して、フェノッロサや岡倉とともに、5月から9月、10月から翌88年2月にかけて近畿の美術品を調査。一方、森は、全国巡視の途中、礼を尽くして各地の寺社にも参拝したが、11月に訪れた伊勢神宮外宮で、土足で殿に上がり、ステッキで神簾を上げて覗き込んだ、と、神官たちが話をでっちあげ、檄文を流した。連中は、森がクリスチャンだと思い込み、全国の学校がキリスト教化されるのではないか、と恐れていた。しかし、世間のほとんどの人々は、だれもこのあまりに安っぽいウソを相手にしなかった。

89年2月、東京美術学校が開校。フェノッロサ(35歳)の意向どおり、日本画を中心とするものだった。だが、初代校長は、彼ではなく、岡倉(26歳)。文部官僚の九鬼(37歳)と愛弟子にハシゴを外されたのだ。フェノッロサは、激怒。とはいえ、国粋主義者たちが、日本の美術品を安値で買い叩いて国外に大量に売り払うような不逞外人をいつまでも担ぎ上げているわけがないのは、当然。

90年2月11日、大日本帝国憲法発布。家で式典に出る支度をしているところを訪れた男に、森有礼(43歳)は刺し殺された。6月、フェノッロサは、帰国し、年俸2500ドル(6000万円相当)でボストン美術館の東洋部長となる。同年、九鬼(38歳)も、帝国博物館総長となり、上野の東京博物館(旧美術館)に加え、京都と奈良にも博物館を建設。

だが、その後、フェノッロサ(43歳)は、ボストン美術館の収蔵品である浮世絵の目録をかってに出版して、96年4月に馘首。日本に再来日するも、もはや仕事は無い。東京美術学校で、同年、ようやく洋画科、図案(デザイン)科が設置される。しかし、学長岡倉は、かつてのフェノッロサばりに、あいかわらず学校で好き勝手をする一方、新学科に対しては、冷たく蔑んだ。翌97年3月、怪文書が出回る。87年に上司九鬼の妻、はつを先に日本へ連れ帰って以来、岡倉がはつと不倫関係にあることを暴露。騒ぎは収まらず、98年、岡倉(35歳)は学長辞任に追い込まれ、99年、九鬼(47歳)も離婚。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)