純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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/歴史の教科書では、こんなえげつない皇室の恥は、まず語られまい。それで、明治の御親政以来、あたかも武家が政権を乗っ取ったがごとく言われるが、実情は、皇族の醜態こそが武家を戦乱に巻き込み、取って代わらざるをえない事態を引き起こした。/


摂関政治の緩み(645〜1087)

中大江皇子(第38代天智天皇、626〜即位68〜72)と中臣鎌足が蘇我家を倒した645年の大化の改新の後、皇統内紛の壬申の乱(672)はあったものの、その後は安定した統一国家となり、開発奨励のための墾田永年私財法(743)による税収悪化もあって、792年には桓武天皇が軍団や兵役を廃止。藤原家(中臣氏)と皇室が縁戚を結び、天皇の下、藤原家が大臣(摂政(幼帝補佐)や関白(成帝補佐))として実務に当たる、という権威と行政の分離によって、藤原道長(966〜1028)を頂点とし、平和で安定した平安時代が築かれた。

ところが、墾田の私財化によって、私有の荘園が拡大。とくに寺社は、法外な敷域を擁した。くわえて、これらの私領間の土地紛争も頻発し、それぞれが武装。奈良興福寺や京都延暦寺、熊野三山(本宮・速玉・那智)、その他、地方支配の大寺社は、自前の戦闘大集団を抱え、焼討のような大規模な私闘を繰り広げ、政治への圧力も強める。くわえて、関東や東北は、いまだ「まつろわぬ民」で荒れていた。陸奥では土着豪族の阿倍氏が朝廷への貢祖を絶って独立勢力となり、1051年、清和系河内源氏の源頼義(988〜1075、63歳)を陸奥守を送り込むが、力足らず、前九年の役(1051〜62)となってしまい、出羽清原氏に援軍を頼み、ようやく治める。

第72代の白河天皇(1053〜即位73〜上皇87〜法皇96〜1129)も、閑院流藤原家の母(茂子、公成の娘)を持ち、71年、北家御堂流養女の賢子を中宮(第二皇后)として、当初は摂関政治を踏襲。京都で、1081年、滋賀園城寺の僧兵が暴れため、白河天皇(28歳)は、81年、頼義の子、義家(八幡太郎、1039〜1106、42歳)に、これを追討させる。しかし、その復讐を防ぐべく、以来、源義家らは、無位無冠ながら、白河天皇の親衛隊として近侍することになる。

出羽と陸奥の清原家で内紛。義家(44歳)が陸奥守として送り込まれ、阿倍家の生き残りで連れ子養子となっていた藤原清衡(1056〜1128、27歳)側に肩入れして、後三年の役(1083〜87)となる。ただし、ここにおいてもいまだ朝廷に軍は無く、近畿や美濃、関東、そして、南東北から掻き集めた義家の私兵が活躍して鎮圧。

この間、朝廷では、84年に、中宮賢子(27歳)が死去してしまい、義父の関白、藤原御堂流師実(もろざね、1042〜白河関白75〜堀川摂政87〜堀川関白90〜94〜1101、42歳)は、名目ばかりとなってしまった。この機に、白河は、継承予定の異母弟たちではなく、自分の実子の第73代堀川天皇(1079〜即位87〜1107、8歳)に皇位を継がせるべく、87年、34歳で位を降りてしまい、下級貴族の側近を集め、官職任免権を恣意的に駆使して、敵対者を排除し、追従者を登用、藤原家に代わってみずから幼帝の後見を執る「院政」を始める。


白河乱交院政(1088〜1129)

白河上皇は、結果、奥州が阿倍家系藤原氏に帰したことを心よく思わず、また、義家が貢祖を流用していたとして、これに恩賞せず、戦費さえも踏み倒して、88年、むしろ陸奥守を解任。それでも、義家は、参集した地方武士たちに私財から恩賞を出し、関東東北において、いよいよ巨大私兵軍団としての結束を固める。それで、よけい河内源氏は、上皇に疎まれるところとなる。また、91年、白河上皇は、自分の行き遅れの妹、篤子内親王(とくし、1060〜1114、31歳)を、名目だけいったん関白藤原御堂流師実(49歳)の養女として、実子の堀河天皇(12歳)の中宮とし、摂関藤原御堂家を退けた。

また、白河上皇は、そこら中の女に手を付けた。そして、これらの自分の愛人たちを、名目上のみ、側近たちに娶らせ、自分の周辺に侍らせ続けた。くわえて、荒ぶる各地の僧兵たちを抑え込むべく、96年(43歳)、みずからも仏門に入ったのが大きく災いした。これをきっかけに男色にも走り、屈強な美丈夫たちを集め、河内源氏に代えて、新たに「北面武士」という精鋭三十名の私的親衛隊(現職天皇の公式の近衛隊とは別)を結成。つまり、下げ渡した女たちだけでなく、その女を下げ渡した男たちとも交わった。いまで言う病的な性依存症だ。

当然、貴族たちはこぞって反発していたが、98年、白河法皇は、中宮篤子(38歳)に加えて、堀川天皇(19歳)の女御に、閑院流藤原家の姪(実母の妹の娘)苡子(いし、1076〜1103、22歳)を女御として娶らせ、御堂流藤原家をさらに遠ざけた。くわえて、御堂流藤原家では、故賢子の兄の関白師通(もろみち、1062〜堀川関白94〜99、37歳)が99年に、同父師実(59歳)も1101年に死去。もはや白河方法を止められる者は無い。しかし、女御苡子(27歳)は、03年、宗仁親王(1103〜即位07〜退位23〜56、鳥羽)を産んですぐに亡くなってしまう。その面倒は、堀川の乳母でもあった藤原徳大寺家の光子(1060〜1121、43歳)が看ることになる。

さらに、白河法皇は、さらに幼女たちにも手を出す。宗仁親王の乳母、藤原徳大寺家の末娘、璋子(1101〜45、待賢門院、2歳)を祇園女御のところの養子として引き取り、性的な関係さえ結ぶようになる。だが、この璋子本人からして、幼くして素行悪しく、あちこちの男に手を出す。もはら白河法皇の周辺は乱れに乱れ、その乱れに紛れて、怪しい連中が蠢いていた。故師実の子で御堂流藤原家を継いだ忠実(ただざね、1078〜堀川関白1105〜鳥羽摂政07〜鳥羽関白13〜21〜1162、27歳)が、ようやく堀川天皇(26歳)の関白となるも、白河法皇の専横を前にしては有名無実。

このころになると、北面武士は、上(諸大夫)と下(下郎)、あわせて八十名にもなっており、法皇に近づくための売官のネタとなっていた。見栄え良く馬や弓をこなしたが、ウラなりの見かけ倒しで、武士とは名ばかり、もとよりだれひとり実戦経験など無い。ここに入り込んだのが伊勢平氏。それこそ実戦経験豊富な伊賀の山賊。寺などから強奪した領地を白河法皇に寄進し、平正盛(?〜c1121)が下北面武士となる。おりしも、1105年、出所不明、正体不詳の怪しい女、「祇園女御」が法皇(52歳)の愛人の頂点に立ち、京都祇園社に一大御堂を建て、これに屈強な正盛が法皇の愛人の愛人として仕える。

堀川天皇(38歳)が1107年に崩御。白河法皇(54歳)は、孫の宗仁親王を第74代の鳥羽天皇(1103〜即位07〜23、四歳)とする。御堂流藤原家忠実(29歳)が、これを名ばかりの摂政として補佐、13年には関白(35歳)になる。14年、白河法皇(61歳)は、藤原御堂流忠実(36歳)の息子、忠通(1097〜鳥羽関白21〜崇徳摂政23〜崇徳関白29〜近衛摂政42〜近衛関白50〜58〜1164、17歳)の嫁に、法皇のお手つきで、幼ながら淫乱という訳あり養女、璋子(13歳)を押しつけようとするが、御堂流藤原家は、これを断固として拒否。その報復で、姉の泰子(1095〜1156、19歳)の鳥羽天皇への入内の話も、白河法皇に潰された。

一方、平正盛は、同14年、鮮鳥を献上し、息子の忠盛(1096〜1153、20歳)を下北面武士に押し込み、ともに祇園女御に仕える。17年、白河法皇(64歳)は、行き場のない璋子(16歳)を孫の第74代鳥羽天皇(1103〜即位07〜譲位23〜56)に中宮として娶らせて始末。その政所別当として忠盛(21歳)が付き従い、祇園女御の妹とか称する、またもって正体不明の女(じつは法皇の愛人のひとり)を嫁に宛がわれる。それゆえ、翌年に生まれた忠盛と祇園女御妹の間の子、清盛(1118〜81)も、じつは法皇(65歳)の御落胤と目された。同様に、法皇と孫妃の璋子との関係も、その後も続き、19年に生まれた顕仁親王(1119〜即位23〜廃位42〜64、崇徳)は、もっぱら法皇の子とウワサされ、鳥羽天皇さえも、これを「叔父子」(父の弟)と呼んだ。

祖父白河法皇(70歳)の専横に嫌気して、鳥羽天皇も、23年、20歳で、名目上の実子、じつは祖父の実子、第75代の崇徳天皇(顕仁親王、4歳)に位を譲ってしまう。しかし、その白河法皇も老いた。これに乗じ、藤原御堂流忠通(32歳)は、25年、実弟の頼長(1120〜56、5歳)を後継として自分の養子に入れ、29年、娘の聖子(1122〜82、7歳、皇嘉門院)を逆に崇徳天皇(10歳)の中宮に押し込む。一方、同29年、老白河法皇(76歳)は、死を目前に、最晩年の御落胤、清盛を、わずか11歳で叙官し、北面武士に組み入れ、後継者にしようとする。同年夏、ようやく白河法皇が亡くなるも、こんどは鳥羽上皇(26歳)が伊勢平氏の忠盛を中心とする北面武士を引き継いで実権を執り、祖父と同じ院政を始めてしまった。


鳥羽院政の白河汚泥(1130〜42)

ところで、遡ること二百年、藤原道長の時代よりすこし前、940年に平将門の乱があった。下総(茨城)の豪族で、上京し、藤原摂関家に私的に仕えるも、望む官職は得られず、帰京。おりしも皇族の興世王が武蔵権守(権=代理)として赴任してくるが、豪族たちの臣従を得られず、将門が苦労して調整に当たっていた。ところが、ここに正規の武蔵守として百済王貞連(難波の百済系帰化人、関東も百済系帰化人が多い)が送り込まれたため、将門は挙兵、みずから「新皇」を名乗り、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いて、関東の独立を宣言した。これを、下野(栃木)の豪族、藤原秀郷がおさめ、下野守、武蔵守、陸奥鎮守府将軍などの地位を得た。

このとき、下野藤原家は、褒賞として紀伊にも広大な領地を得た。これを引き継いだ一系は、同地で莫大な財を成し、五代目の季清(すえきよ)に続き、六代目の康清も、北面武士となっていた。しかし、1112年、失脚蟄居。藤原家に近づきすぎたことを疎まれたらしい。だが、六代目、義清(のりきよ、1118〜出家40〜90、西行、15歳)は、北面武士の中心である平忠盛(37歳)の妻にして、白河法皇の愛人であった璋子(34歳)の実家、藤原徳大寺家に再出仕。藤原御堂流忠通(36歳)も、33年、徳大寺家の璋子の姪(兄の娘)幸子(1112〜55、21歳)を、実弟で養子の頼長(16歳)の嫁に迎える。

ところが、このころ、鳥羽上皇(32歳)は、祖父の押しつけた中宮璋子(34歳)を避けるようになっていた。そこで、藤原御堂流忠通は、同33年、かつて故白河法皇に潰された縁談をぶりかえし、行かず後家のまま残っていた姉の泰子(1095〜1156、39歳、高陽院)をむりやり、より上位の皇后として鳥羽上皇に押し付け、結婚したばかりの実弟で養子の頼長(16歳)を皇后宮太夫とする。しかし、鳥羽上皇は、魚名流藤原家の得子(1117〜60、18歳、美福門院)を女御として寵愛。

下野藤原義清(17歳)は、35年、絹一万疋(約五千万円)で、下北面武士の地位を買い戻したものの、頼っていた徳大寺家は、中宮璋子(36歳)が鳥羽上皇(34歳)に疎まれ、衰運にあった。おまけに、ただでさえ色狂いの中宮璋子は、いよいよそこら中の男に手を出す。義清も、年上の女の色香にほだされ、妻子がありながら、璋子の毒牙にかかる。とはいえ、璋子は、次から次へと男を乗り換え、義清を弄ぶのみ。後に『百人一首』(第八六番)に入る「嘆けとて、月やは、ものを思はする、かこち顔なるわが涙かな」の歌も、このころのものか。40年、煩悶する義清は、ついに出家。すがりつく妻子を煩悩と呼んで縁側に蹴り倒し、鞍馬へ隠棲して、西行を名乗る。

女御得子(22才)は、39年に、体仁親王(1139〜即位42〜55、近衛)を出産。鳥羽上皇(36歳)は、「叔父子」崇徳天皇(20歳)に、これを養子として押しつけ、後継者にしようとする。ところが、翌40年、崇徳天皇(21歳)と女御との間にも重仁(しげひと)親王(1140〜62)が生まれた。その継承を退けるべく、41年、鳥羽上皇は、崇徳(23歳)を廃位、代えて、その異母弟の体仁親王を、わずか2歳で第76代の近衛天皇として即位させた。

もっとも、廃位された崇徳院は、もとより和歌に興じており、実甥である「父」鳥羽法皇が支配する政治を離れて、むしろ清々したようにも思える。十三人の歌人とともに『久安百首』(全千四百首)を編む。後の『百人一首』(第七七番)に入る「瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の、われても末にあはむとぞおもふ」(ゆきなやみ、岩にせかるる谷川の、が原型)は、このために作られた。ただ、百首歌は、季節や恋歌など、題を定めて歌うもので、西行と違い、崇徳院に具体的な想う相手があったわけではなさそうだ。

近衛が天皇になると、その生母得子(25歳)が女御では体面が整わぬということで、同年末、得子を皇后に格上げ。しかし、これと前後して、滋賀日吉大社と西宮広田神社で皇后得子に呪詛をかけさせた者があるとの話が広まり、その大元が嫉妬した中宮璋子(43歳)とされ、42年、法金剛院(右京区)に出家を強いられ、その取り巻きたちも土佐に配流。一方、鳥羽上皇も、同42年、出家して法皇となり、宗教界をも支配しようとする。


男色魔道内覧藤原頼長(1143〜56)

西行(25歳)が東北を遊行しているころ、43年、同じく下北面武士の高階通憲(たかしなみちのり、1106〜60、37歳)も出家して、信西と名乗る。彼は、もともとは藤原南家貞嗣流で、祖父以前は大学頭を務めていたが、高階家の養子になったため、家格が合わなくなった。それで、徳大寺家出の中宮璋子に仕えていた女官、朝子を嫁にし、これが27年に中宮璋子の子、雅仁親王(1127〜即位55〜58〜92、後白河天皇)乳母となって、機会を伺ったが、中宮璋子が鳥羽上皇の寵愛を失い、望みを絶たれた。鳥羽上皇(41歳)は、信西の出家を留めようとしたが、ムダだった。しかし、彼の場合、在野から政権中枢に入り込む機会を虎視眈々と狙っての出家にほかならない。

同43年、関白の藤原御堂流忠通(46歳)に実子、基実(1143〜66、近衛家)が生まれる。こうなると、自分の養子にした弟の頼長(23歳)が疎ましい。その嫁も、失脚した中宮璋子の徳大寺家では、将来が無い。だから、養子縁組を切って、弟に戻した。ところが、頼長は、美丈夫を駆使し、皇后に上がった得子(26歳)の実家、魚名流藤原家の面々を男色で取り込み、切り崩していく。また、彼は陰陽道にも親しみ、朝廷内に渦巻く呪詛と祈願を、あえて一手に引き受ける。そして、これらの男色と陰陽の趣向を生かして、自力で徐々に出世していく。

おりしも45年、出家させた中宮璋子(44歳)が病死。鳥羽法皇(43歳)は、これを強く悔い悼み、皇后得子(28歳)にも近づかなくなる。ところが、これを機に皇后得子は俄然として権力欲に目覚め、実家の魚名流藤原家とともに政治に介入を強める。これにつれ、それらの男たちを手玉に取る御堂流藤原家の頼長(25歳)も出世。魚名流や弟頼長の台頭で、相対的に、その兄の関白、御堂流忠通の権勢は低下。また、48年、鳥羽法皇の腹心、藤原勧修寺流顕頼(54歳)が無くなると、信西(42歳)がその後釜に転がり込む。

藤原御堂流頼長(30歳)は、50年、義理方の徳大寺家から多子(1140〜1202、10歳)を養女とし、これを近衛天皇(11歳)の女御として入内させる。一方、兄の忠通(53歳)も、これに対抗して、鳥羽上皇寵愛の女御、得子の養女となっていた呈子(1131〜76、元は中御門流藤原家の娘、19歳)をいったん自分の養女に降ろして、より上位の中宮として鳥羽上皇の元に送り戻す。

頼長は、兄弟の実父、忠実(72歳)に泣きつき、兄忠通との縁を切らせ、自分が家督を継ぐ。鳥羽法皇(48歳)は、この摂関家の兄弟喧嘩に関わりを避け、翌51年、兄忠通(54歳)を関白に留めたまま、弟頼長(31歳)を「内覧」(関白とほぼ同権)の位を与えた。とはいえ、近衛の関白が忠通であり、その中宮が忠通側の呈子であるかぎり、兄の忠通に対して、弟の頼道に勝ち目は無い。それゆえ、頼道は、得意の陰陽道を使い、天狗信仰で知られる京都西北山頂の愛宕神社の天公像の眼に釘を打ち付け、近衛天皇を呪詛したとか。

鳥羽皇后得子(35歳)は、内覧の藤原御堂流頼長(32歳)とともに、当然、故中宮璋子の実家、徳大寺家の出の近衛女御多子(12歳)よりも、もともと養子だった近衛中宮呈子(21歳)に肩入れしていた。ところが、期待されすぎた呈子は、52年、想像妊娠の騒ぎを起こした。これに嫌気して、得子は、むしろ関白の藤原御堂流忠通(55歳)の側に寝返る。他方、内覧で男色の頼長は、マッチョイズムで旧儀復興、綱紀粛正を徹底し、「悪左府」と呼ばれ、信望を失っていく。

55年、鳥羽皇后得子(38歳)の実子、近衛天皇(16歳)が眼病で死去。もとより、得子は鳥羽法皇の寵愛を失っており、立場が危うい。故近衛の口寄せを行ったところ、自分は頼長の呪術で殺された、と言う。はたして、愛宕山の天公像の眼の釘が見つかり、住僧によれば、五年ほど前の夜中にだれかが打ち付けた、と言う。その犯人として、陰陽道を使う藤原御堂流頼長(35歳)が疑われ、驚いた老父忠実(77歳)が蟄居させて鳥羽法皇(52歳)に取りなすも、内覧の位を降ろされてしまう。

結局、鳥羽法皇が最後に愛した故中宮璋子の子、雅仁親王(28歳)が第77代の後白河天皇として即位。その乳母の夫である信西(49歳)が勢力を増し、また、関白の藤原御堂流忠通(58歳)も権力を取り戻す。だが、こんどは北面武士が問題になった。その中心だった故平忠盛が、以前、今回の継承から外された重仁親王(崇徳上皇(36歳)の子、15歳)の後見だったからである。おりしも翌56年、鳥羽法皇(53歳)は病床に伏せってしまったが、平清盛(38歳、忠盛の子)や源為義(1096〜1156、60歳、河内源氏頭領)など、主だった北面武士たちから誓詞を取って、皇后得子に預けさせた。


保元平治の乱(1156, 60)と血書大蔵経

同56年7月2日、鳥羽法皇崩御。数日をおかずして、崇徳上皇(37歳)と藤原御堂流頼長(36歳)が挙兵するのではないか、とのウワサが流れ、8日、新天皇後白河は、無冠の源為朝(1139〜70、17歳、為義の子)らに命じて、留守中の藤原御堂流家屋敷(東三条殿)に押し入らせ、財産と所領を没収。翌9日夜、崇徳上皇も、兵衛佐局(ひょうえのすけつぼね、重仁親王の実母)や重仁親王(16歳)を置いて、伏見の鳥羽田中殿を脱し、北面武士や平氏を頼るべく、京都白河御所(現平安神宮付近)に立て籠もった。10日、宇治から頼長が戻り、白河御所に合流。故鳥羽法皇が懸念していたとおり、ここに北面武士の源為義、清盛叔父の平忠正らも集結。しかし、為義の子の源為朝や、北面武士の中心、平清盛は、後白河側に留まり、後白河は近隣武家に総動員を掛け、圧倒的な人数で白河御所を取り囲む。

中の崇徳頼長方は、奈良興福寺、比叡延暦寺などの僧兵の援軍に期待を繫いでいた。だから、時間がたてば、状況が変化しかねない。11日午前4時、襲撃。六百騎をもってしても、攻略は容易に進まない。そこで、西の藤原家成邸(鳥羽皇后得子の伯父)に火を放つ。これが延焼し、8時には、崇徳上皇方は総崩れになって、四散。これを追って、次々と屋敷を焼き払う。昼までに戦闘は終わったが、首謀者の崇徳と頼長は逃亡。崇徳は、東山に隠れたものの、剃髪出家し、13日、洛西の仁和寺に出頭。頼長は、奈良興福寺に近い木津まで逃げたが、傷深く、14日、死去。いったん埋葬された死体は、掘り返され、再確認された。重仁親王も出家し、仁和寺に。23日、崇徳法皇は、兵衛佐(ひょうえのすけ)局(重仁親王の実母)ほか数名のみを伴って、讃岐(香川)に配流され、一棟一門のみの「雲井御所」(坂出市)に監禁された。

忠通(59歳)は、藤原御堂流の家督を取り戻したが、その財産や所領は、すでに没収されていた。そうでなくても、後白河天皇の乳母の夫として勢力を得た生臭坊主の信西(50歳)は、故頼長なみに復古主義的であり、貴族や寺社の私的荘園を公領に戻そうとしていた。また、後白河天皇(29歳)には、信西のほかにも、藤原経輔流信頼(のぶより、1133〜60、23歳)という面倒な男がへばりついていた。この男、まったくの無才無能ながら、後白河天皇の男色の愛人なのだ。おまけにマッチョイズムで、保元の乱で実力発揮した武士たちに肩入れし、とくに源義朝や平清盛を厚遇した。忠通(61歳)も、58年、このゲス男とのいざこさで失脚。

だが、当時最大の荘園領主は、故鳥羽の後家皇后得子(41歳)だった。58年、得子は、信西(52歳)を取り込んで、故中宮璋子の子である後白河天皇(31歳)を退け、その実子で、自分の養子でもある守仁親王(1143〜即位58〜65、15歳)を第78代の二条天皇として即位させ、その親政を行おうとする。一方、追いやられた父の後白河上皇は、愛人信頼(25歳)と武家たちを頼って院政を敷こうとした。ただし、北面武士の中心である平清盛(40歳)は、娘を信西の子と信頼の子の両方に嫁がせていた。

さらにここに、表沙汰にできない厄介な問題が持ち上がっていた。讃岐に配流された崇徳院(40歳)が、弟の仁和寺総法務、覚性法親王(1129〜69、30歳に鳥羽と璋子の子)に、妙な荷物を送りつけてきたのだ。中身は、三年かかって自血で書いたという五部大乗経。反省のしるしにこれを納めるので、せめて京都鳥羽殿(鴨川と桂川の合流点)あたりに戻してほしい、と言う。対応を協議したが、信西(53歳)は、にべもなく拒否。讃岐でこれを聞くと、崇徳院はいよいよおかしくなり、髪も剃らず、爪も切らず、天狗の姿となりはて、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と呪った、とか。

いずれにせよ、生臭坊主、信西は、後白河院政派はもちろん、二条親政派からも疎まれた。1159年12月9日(西暦1160年初)、清盛(42歳)が熊野詣でに行った隙に、藤原信頼(27歳)が源義朝(37歳)らとともに挙兵。東三条殿(藤原御堂流家屋敷)で後白河上皇(33歳)の身柄を確保。13日、信西(54歳)は宇治で自害。17日、大軍を引き連れ、清盛が帰京。こんどは信頼の専横が問題となる、25日深夜、二条は平家本拠地の六波羅に逃れ、また、後白河も仁和寺に移る。27日、清盛の官軍総攻撃で信頼義朝派は壊滅。信頼は、同日、六条河原で斬首。義朝は、知多まで逃れるも、頼った家臣親族に裏切られ、翌年1月3日、風呂で暗殺される。

以後しばらく、平氏の絶大な武力を前に、後白河院政派と二条親政派の両建てで、政治は小康状態となる。とくに清盛は、二条の乳母を娶ったことで、その義父としての力を得、また、後白河についても、その院庁別当として権を握った。しかし、その栄華の後、源平の戦いが起こり、武士の時代へと突入する。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)