GMOインターネット代表取締役会長兼社長・グループ代表 熊谷正寿(くまがい・まさとし)1963年、長野県生まれ。81年、國學院高等学校中退。その後放送大学に第1期生として入学するも除籍に。91年ボイスメディア(現・GMOインターネット)を設立、代表取締役就任。95年インターネット事業をスタート。2005年6月東京証券取引市場第一部に上場。

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■高校を出ていない分、異常なほどに本を読む

【弘兼】現代アートの作品が社内の至る所に飾ってあります。太めの輪郭線が特徴的ですね。

【熊谷】イギリスのジュリアン・オピーという作家の描いたものです。必要最小限の要素でインパクトを残す彼の作品は、膨大な情報を0と1の組みあわせで処理するインターネットに近い。本能的に惹かれ、収集していたものを展示しているんです。

【弘兼】熊谷さんがインターネットを知ったのはいつですか?

【熊谷】1993年頃でしょうか。日経流通新聞で存在を知り、そして秋葉原で初めてインターネットを実際に体験しました。そのときに「これが世界を変えていくんだろうな」と思って、身を投じる決心をしました。

【弘兼】インターネットを体験して将来の技術だと感じた人は多かったことでしょう。ただ、そこからビジネスに繋げるのはまた別の話ですよね。

【熊谷】僕は学校を出ていない分、自分自身で勉強しようと思って、財閥グループの歴史や起業家の書いた本を異常なほど読み、成功するビジネスの構造をずっと考えていたんです。

【弘兼】高校を中退されたのは、何か思うところがあったのですか。

【熊谷】僕は高校には首席で入って、入学式では新入生総代でスピーチをしました。ところが入学してからというもの、「自分はやればできる」と自惚れて勉強をしなくなってしまった。そこからどんどん成績が落ちていって、同学年の生徒600人中500番台になってしまい、先生にものすごくいじめられて……。

【弘兼】イヤになってしまった。

【熊谷】自分はここにいるべきではないと思ってしまったのでしょうね。

【弘兼】高校を中退した後、17歳で熊谷さんのお父さんが経営するパチンコ屋の店長になった。お父さんは手広く事業をやられていたとか。

【熊谷】父は戦争で満州に行っていました。戦後、日本に戻ってきたときに軍からサッカリンという人工甘味料を持ち帰り、汁粉屋をはじめたそうです。その利益で映画館、喫茶店、パチンコ屋などを展開していました。子どもの頃から、レストランに一緒に行ったときには、その店の客単価や回転率の話をよく聞かされていた。

【弘兼】通常の親子とはずいぶん違う会話ですね。熊谷さんが店長になったのは、長野のパチンコ屋でした。

【熊谷】夜中に「長野の店が上手くいっていなくて困っている」と、隣の部屋で両親が話していたのをたまたま聞いたのがきっかけでした。父はパチンコ屋をチェーン展開していて、長野にある母の実家の近くにお店をつくっていました。郊外型の店舗で、千何百坪の土地があり、車を100台以上停められるような規模の店だった。

【弘兼】そこで熊谷さんは、自分が立て直してやろうと思った。

【熊谷】父からすれば、店の立て直しのために僕を送り込んだという面もあるでしょうし、僕が高校を中退してフラフラしているように見えたということもあるでしょう。当時、僕としては、ディスコのDJや喫茶店など様々なアルバイトをしていたので、特にフラフラしているつもりはなかったのですが(笑)。

【弘兼】年上の部下からの反発はありませんでしたか?

【熊谷】東京の店で1、2カ月の研修を受けた後、長野に向かったのですが、17歳の若造のうえにド素人です。誰も言うことは聞いてくれなかった。マネジメントの「マ」の字もなかった。ゼロから揉まれて勉強することになりました。

【弘兼】学んだこととは何ですか?

【熊谷】3つあります。まずは、「どのように人を動かすか」というマネジメント。次に「計数管理」。パチンコ屋というのは、確率の世界です。釘を少し動かすと出玉率が変わる。すべてのパチンコ台の数字を記録して、確率の中に経営を落とし込んでいくのがパチンコ屋です。

■パチンコ屋を経営し地域ナンバーワンに

【弘兼】当時からコンピュータで数字を管理していたんですか?

【熊谷】はい。出玉管理だけを行う、非常に原始的なコンピュータでした。パチンコ屋の経営で大切なのは、いかに席を埋めるか、なんです。暇な店というのは、利益管理ができていない。つまり、玉が出る台が限られていて、それ以外の台にお客様が座ってくれない。

【弘兼】暇な店であれば、「どの台が出るのか」とじっくり見ることができますものね。

【熊谷】一方、稼働率が高いと、席が空くのを、みんなやりたくてうずうずして待っている。釘を読まれて出る台ばかりに人がつくと、パチンコ屋は赤字になってしまう。だから、出る台、出ない台でいかにお客様に等しく遊んでもらえるか、が大切になる。パチンコ屋って売上高はものすごいんですけれど、利益率は低い。たくさん利益を取っているようなところにはお客様は来ません。稼働率を高めて、数%の利益でやっている店にお客さんがつくんです。

【弘兼】先ほどから「釘」という言葉が出てきていますね。今のパチンコはコンピュータで玉の出方を制御していますが、かつて玉の出方を調節していたのは釘師という職人だった。

【熊谷】僕も釘の調節をしていましたよ。初めてこういう取材で明かしますが、釘師だったんです。

【弘兼】えっ、本当ですか?

【熊谷】トンカチを叩いて、ミリ単位の調節をしていました。お客様も必死だから「仕事の後、晩ご飯に行こう」とか、釘師を買収しようとするんです。もちろんそういう誘いには乗りませんでしたが。いまだに当時の道具を持っていますよ(写真参照)。

【弘兼】これは年季の入った道具ですね。熊谷さんの原点がまさか釘師だったとは驚きました……。そのほか、パチンコ店で学んだ3つ目とは?

【熊谷】3つ目は「顧客心理」ですね。どうすればお客様が喜んでくださるか。つまり、あの店は玉が出ると印象づけることでした。朝一番から打ち止めになるほど玉が出るビックリ台というのをつくってみたり、宣伝活動で他の店よりも玉が出ると印象づけたりして、「出るから人がいる」という好循環をつくりました。

【弘兼】そして短期間で地域ナンバーワンの店にした。

【熊谷】あそこで学んだことが今のベースになっているといえます。パチンコ屋というのは、それぞれの台が一つひとつの店みたいなもの。数百ものチェーン店舗を経営しているようなものですから。

【弘兼】熊谷さんはパチンコ屋の店長として成功を収めた後、東京に戻ります。

【熊谷】ええ、父親が経営している東京の会社で働くことになり、江戸川橋の寮に住むことになった。それがひどい寮でした。建物全体が傾いていました。使用できる電気の容量が少なく、電子レンジとドライヤーを一緒に使うとヒューズが飛んでしまうんです。電気が使えなくなっても、ヒューズボックスが屋上にあって夜中は入れないので、朝までローソクで過ごさなければなりませんでした。

【弘兼】おいくつのときですか?

【熊谷】20歳ぐらいですかね。ある日、家に帰ってみると、妻がお金がないので明日から働くと泣いていました。彼女は毎朝、娘を保育園に預けて、ウエートレスのアルバイトをするようになりました。すると朝、預けられるのがわかっているので娘も泣くんです。それまで僕は与えられた環境で仕事を真剣にやっていて、自分の人生について深く考えたことはありませんでした。家族が泣いている姿を見て初めて、「これってもしかしたら幸せじゃないな」と気づいてしまったんです。

【弘兼】仕事に追いまくられていたのですね。

■手帳に「夢」を書いて起業〜上場を実現!

【熊谷】当時は仕事のほかに、放送大学に入学し、通信教育の学習をしていました。朝から晩まで働いて、家に帰ってから勉強を続けていた。

【弘兼】それでどうしたんですか?

【熊谷】「将来、こうありたい」というのを手帳に書いたら、胸がスッとしたんです。目の前がぱっと明るくなる、トンネルの外に光が見えたような感じでした。それから「こんな勉強をしたい」「こんな家に住みたい」「こういう生活をしたい」と、将来やりたいことを手帳に全部書き出していきました。

【弘兼】目標を可視化したわけですね。

【熊谷】次にその目標に優先順位をつけて、自分の将来をこうしたいという年表をつくっていきました。僕はそれを後に「未来年表」と呼ぶようになりました。20歳から先の35歳まで「15年計画」というのを立てたのです。

【弘兼】その未来年表に書かれたことの一つが、35歳までに自分の会社を立ち上げて、上場することだった。

【熊谷】ええ。結果としては、35歳ではできず、36歳と1カ月で上場しました。

熊谷は91年に「ボイスメディア」を創業。これが後のGMOインターネットとなる。95年にインターネット事業に参入し、インターネットのインフラ事業に軸足を置いて事業を拡大してきた。99年には独立系インターネットベンチャーとして初の上場を成し遂げた。

その後、ネット広告・メディア、ネット証券、スマートフォンのゲーム事業にも進出。2016年6月時点で、GMOインターネットグループは、上場企業9社を含む、グループ89社、スタッフ4900人超、15年の連結売上高1263億円、営業利益は148億円と過去最高を記録している。

【熊谷】34歳のとき、20歳でつくった15年間の年表があと1年で終わると思い、「55カ年計画」をつくりました。様々なケースを想定してエクセルに入れていくと、90歳までの目標売り上げは10兆円、従業員数は20万人になりました。

【弘兼】壮大な数字ですね。

【熊谷】ちょっと大きすぎるように思ったのですが、当時のトヨタ自動車とほぼ同じ規模ですので、実現可能な範囲だと思っています。

【弘兼】その予定は順調ですか?

【熊谷】07年度に大失敗し、だいたい7年前後遅れています。今はその失敗をする前の状態にまで立て直したという状況です。

【弘兼】05年に買収した消費者金融会社の過払い金返還の件ですね。引当金積み増しが経営を圧迫して、金融事業から撤退。結果、約400億円の損失を出し、倒産の危機にあったようですが、どう乗り越えたのでしょうか?

【熊谷】それもやはり手帳でした。その日のスケジュールの一番上に“弱気にならない、諦めない”という言葉をおよそ2年間、毎日、写経のように書き続けていました。本当に会社が潰れそうになりましたから。

■「ナンバーワン」でなければならない

【弘兼】熊谷さんはインターネット企業を率いながら、アナログな手帳を使い続けているところが面白い。

【熊谷】スマホ、パソコンでもスケジュール・目標管理をしていますが、想起デバイスとしては紙の手帳が一番です。夢を実現するには繰り返し、思い返すことが必要。潜在意識に叩きこまなければならない。自分で繰り返し書いた文字や写真を手元に置いて見るには手帳しかない。

【弘兼】GMOが倒産の危機を乗り越えて、今も生き残って成長しているのはなぜだと思いますか。

【熊谷】人には寿命があり、時間というのは命そのものでもあります。会社というのはスタッフの命を捧げてもらって成り立っています。だからこそ僕は、会社は続かせなければならないものだと考えています。20代の頃から、競合相手が現れても負けないためにはどうしたらいいのか、競争力を失わないためにはどうしたらいいのかを考え続けてきました。その結果、電気やガスと同じように消えてなくなることのない、インターネットのインフラやサービスインフラに経営資源を集中させてきました。また、生き残るためにはナンバーワンでなければならない。現在展開している、ドメイン事業、レンタルサーバー事業はシェア数、決済事業は決済額の規模で、国内ナンバーワンです。これらのサービスは一度契約してもらうと、継続的に収益が入ってくるストック型のビジネスなので経営も安定します。

【弘兼】長く続く会社にするために、インフラ、ストック型、ナンバーワンであることにこだわった。今度は、あおぞら銀行と提携してネット銀行を運営されるそうですね。いわゆる「フィンテック」と呼ばれるIT技術を使った新たな金融サービスに乗り出すわけですが、これも「長く続く会社にする」という考えに沿ったものなのでしょうか。

【熊谷】金融事業というのはインターネットと非常に親和性が高い分野です。僕らが強みにしてきたドメイン事業、レンタルサーバー事業では、必ず決済が必要になるからです。また、インフラ事業と同じで、経済のインフラにあたる銀行がなくなることもありません。さらに、融資や決済で収益を上げることは、ストック型のビジネスでもある。――実は、金融事業は今までGMOの手がけてきた事業の延長線上にあるのです。この分野を今後はさらに強化していきます。

■弘兼憲史の着眼点

▼足腰が衰えないように仕事中も足首に鉛

熊谷さんは、いわゆる「イケメン」経営者として知られています。ただ、ビジネスの世界では、イケメンというのは実は不利。格好がいいだけで仕事ができないと思われがちだからです。

今回、熊谷さんと対談して、端正な顔の向こう側にある凄みの根源を知りました。かつて、柳井正さんから、経営を勉強するには、小さな店でいいから、自分でやることだと聞いたことがあります。熊谷さんはそれを17歳のときにパチンコ店で実践していた。

もう一つの強みは、自己管理力の高さです。熊谷さんはこう言いました。

「夢のベースになるのは健康なんです」

多忙な中でも、必ず週に2日はパーソナルトレーナーの指導のもと、専用のジムでトレーニングを行っているそうです。ベンチプレスに至っては、100キロを上げるとも聞きました。

加えて、座りっぱなしで足腰が衰えがちなので、くるぶしに鉛――アンクルウエートをつけて仕事をしているそうです。「漫画を描いていると筋力が衰えます、アンクルウエートを付けたらどうですか」と勧められたのでした。

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弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。

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(田崎健太=構成 門間新弥=撮影)