昭和9年3月27日朝、田中角栄は夢見ていた上京への一歩を踏み出した。新潟の柏崎駅から信越線回り上野行きの鈍行列車であった。夕方、高崎駅下車。折りから高崎競馬場で持ち馬を走らせていた父・角次と待ち合わせ、一晩、一緒に宿を取って久し振りに父子の時間を過ごした。翌日、上野駅着。晴れての東京、15歳の人生の冒険の始まりだったが、田中にとってこの地はとんでもないところであった。
 まず、上京に際して紹介された日本橋区本石町の井上工業という土建会社の東京支店を訪ねるため上野駅からタクシーに乗ったのだが、番地を書いた紙を運転手に見せたものの、15分程で着くはずが1時間走っても目的地に着かなかった。田舎から出て来た子供と見た運転手は適当にぐるぐる走り回り、結局、ガマ口に入れておいた5円の大金をすべて払わされ、日本橋の上で放り出されたのだった。あえてタクシーに乗ったのは、母・フメの「東京は物騒なところ。初めは電車やバスに乗らず、タクシーに乗って行き先の住所を書いた紙を運転手に見せなさい」の言葉を守ったものだったのだが…。

 その晩は井上工業の支店長の紹介で旅館に泊まり、翌日、本来の目的である理研コンツェルン創始者の大河内正敏子爵の住み込みの書生になり上級学校に通わせてもらえるということで下谷区の邸宅を訪ねたが、ここでも大わらわの展開であった。バスに乗ったが車掌が早口でどこを走っているのか分からず、やむなく適当なところで降りたら上野・不忍池の手前。大雪の中を歩いてようやく大河内邸にたどり着いたのだった。
 ところが、折りから大河内子爵は不在、応対した女中の東京の早いテンポの言葉がさっぱり理解できず、またまた大雪の中を宿に引き返すはめに。結局、どうしていいか分からず、井上工業に頼み込んで“小僧”としての住み込みでようやく職を得たのであった。
 このときの窮地を、田中はこう言っている。「世の中は案ずるより産むがやすし。捨てる神あれば拾う神もまたあるものだ」と。世の中はどうあれ、何とかなるものだ、捨てたものでは決してないと実感したということだった。

 井上工業では朝は5時起きで掃除などを済ませ、昼間はリヤカーを引いたりの工事現場手伝い、職人の手配、沖仲仕まがいの建築用材の船からの荷揚げなどをこなす一方、向学心に燃える田中は夜は神田猿楽町にあった私立中央工学校の土木科に通った。これまでの中学講義録での独学修学が役立ち、工業英語には少々苦労したが、数学などは教師の代講を務めるほどの勤勉ぶりであった。
 田中は「私の勉強法は徹底した暗記が中心だ。国語の辞書は暗記してはページを破って捨てた。英単語も同じだ。数学はもともと得意だった。大蔵省の数字の羅列の資料なども、パッと見ただけで頭に入った」と、後年、語っているくらいであった。

 学校の授業は午後6時から9時過ぎまで。仕事が終わるのを待って自転車を飛ばすのだが、夜、無灯火で警官に捕まったこともあったのだった。また、昼間の疲れから授業でウトウトすることもあり、そのたびに切り出しナイフ、尖った鉛筆の先を手のひらに当てて眠気を防いだものだった。田中の右手親指の内側は後年でも黒ずんでいたが、鉛筆の芯が刺さった跡だったのである。
 一方、井上工業の月給は5円の薄給、本や学校の教材を買えば生活の余裕はまったくなかった。あるとき、校友会費として納める1円ほどのカネがなく、神田神保町で「一番勝てば50銭」というフレコミの大道五目並べに挑戦した。二、三番勝てば校友会費が払えるとの読みだったがサクラに取り込まれて大負け。揚げ句に脅かされて有り金にプラス上京の際に姉が買ってくれた7円ほどの腕時計もむしり取られるなどの失態もあった。「勝負事でカネをもうけること自体が間違っていることを知ったのが収穫だった」との“述懐”がある。

 やがて、こうした井上工業での職は1年足らずで失うことになった。
 全身全霊を打ち込んでの屋根工事で、スレートを破損させたことで現場監督と大ゲンカ。これが原因でここにはいられないとの判断だった。田中は正義感が強い一方で、「ワカッタの角さん」といわれたように短気、なかなかの癇癪持ちでもあったということである。
 こうした一所懸命な働き、ドタバタ続きの東京での第一歩を、田中は次のように語っている。「母が1年中愚痴ひとつ言わずに働いていたのを思えば、この程度の自分の苦労などは何のことはなかった。人に馬鹿にされても結構。“踏まれても踏まれても、ついていきます下駄の雪”の姿勢でやってきた」と。
 行き先の見えない田中の職探しが始まった。
(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。