“打率10割”で現役生活に幕 巨人・隠善、かなわなかった高橋由の“後釜”
戦力外で引退を決断、長嶋茂雄巨人終身名誉監督も惚れ込んだ打撃センス
引退を惜しむ声は多くあった。しかし、巨人を戦力外となった隠善智也外野手は決断した。
2006年の育成ドラフト4巡目で入団し、2008年に支配下登録。高い打撃センスの持ち主で、将来を嘱望された。しかし、巨人の選手層は厚く、思うように出番をつかめなかった。他球団から獲得のオファーがあっても成立することなく、今年、31歳を迎えていた。
体が万全だったなら、他球団での現役続行もあっただろう。確かに隠善は肩を痛めていた。それでもクライマックス・シリーズはバックアップメンバーとして、本拠地の東京ドームで練習していたほど。突然ともいえる戦力外通告だった。
「複雑な気持ちではいましたが、僕も新しいスタートを切らないといけないと思いました。次の人生へいいスタートを切りたい。現役にこだわりたいという思いもあり、悩みましたが、家族と話をして決めました」
隠善には妻ともうすぐ3歳になる長女がいる。そのためにも早い決断が必要だった。球団職員のポストをもらったことで、自分への踏ん切りがついた。
「僕みたいな選手がドラフトにかかったことが驚きだった。(出身の)広島で決して高いレベルでやっていたわけではないですから。僕はプロで9年間はすごい経験をさせていただいた。感謝しています」
とにかくバッティングがうまい打者だった。技術はチームトップクラス。どのようなコース、球種がきても崩されずに対応した。打撃練習を視察した長嶋茂雄巨人終身名誉監督がセンスに惚れ込んだこともあった。
少しでも高橋由に近づこうと…
しかし、なかなかチャンスがやってこなかった。2軍で打率4割近い成績を残しても、外野の枠の問題や強力なメンバーの存在で、隠善の出場機会は少なかった。やっと昇格しても代打からのスタート。2、3打席凡退してしまえば、チャンスはしばらくやってこない。ヒットを放っても長くチャンスはもらえなかった。ケガで離脱してしまうことも多かった。
レギュラークラスの能力を生かすことができない中で、隠善は高橋由伸に頼み、オフの自主トレに同行させてもらった。2008年のオフだった。最初は左打者としての極意を学びにいった。だが、高橋も晩年、代打での出場が増え始め、少ない打席でも高い成績を残すようになっていた。隠善も一打席で仕留める技術、心構えを学びにいった。
「僕のような立場の選手は最初の代打の一打席からチャンス。そこで結果を出せれば、スタメンを勝ち取れる。でも、その一打席の初球で自分の狙い球を打ち損じてファウルしたり、思いもよらない球が来たら、打席の中で劣勢になってしまう」
代打から現状を打開しなくてはチャンスはないのだが、その一打席に苦しんでいた。
「どうしたら由伸さんのようにどっしりと構えて、投手を逆に追い込めるのか。狙い球や相手投手の心理を読む術があるのだと思います」と一振りにかける男のメンタルを学び、習得していった。少しでも高橋由に近づこうと。
今年8月末。こんがりと“2軍焼け”した隠善が東京ドームへやってきた。待望の1軍昇格。「もうやるしかないですから」と気合に満ちた男は一振りで結果を残していった。高橋由伸に負けないほどの勝負強さを見せた。
尊敬する高橋由と同じタイミングで引退へ
8月28日の中日戦は代走出場だったが、30日の同カードでは今季初打席ながら代打で2点タイムリー。9月2日のヤクルト戦でも代打でヒットを打ち、2打数2安打。打席数は少ないが打率は10割。高い打撃センスは健在で、シーズン巻き返しのキーマンとしての期待が高まるほどだった。
しかし、悲運のケガが襲う。右肩脱臼で戦線離脱。2日のヤクルト戦を最後に1軍の試合に出ることはなかった。
バッティングだけなら、まだまだ1軍で活躍できるプレーヤーだった。引退を決めた年は、くしくも憧れで尊敬する左打者、高橋由伸と同じタイミングだった。
「由伸さんには電話をいれさせていただきました。『お前が決めたことだから。おつかれさん』という言葉をいただきました」
両者には痛いほどよくわかる決断の難しさ。隠善は高橋由のような代打の切り札にはなれなかった。しかし、一緒に過ごした時間は何にも代えがたいもの。1人のスタッフとして、新監督を影で支えていく。