答えは他にもありうる/純丘曜彰 教授博士
/わかった、わかっている、と思う君自身こそが、君の思考力、想像力、共感力のリミッターになってしまっている。すべての現実を芸術作品のように、わけのわからないものとして見直すならば、そこには新鮮な発見がある。/

-->

 これ、なぁんだ? 見りゃわかるだろ、って、そりゃそのとおり。ウサギだろ。えっ、アヒルじゃないの? ウサギはアヒルじゃない、だからアヒルなんて言っているやつは、頭がおかしい。いや、そもそもアヒルだって。アヒルだったらウサギのわけがないじゃないか。政治でも、経営でも、しょっちゅう、この手の言い争い。でも、これはほんとうはウサギアヒルかも。

 ウサギはアヒルじゃない、というのは、観察に基づく事実問題ではない。君が君の頭の中でかってに言ったこと。君は、君の頭の中でそう思ったとたん、事実を観察するのを止めてしまう。ひとつのことがわかったら、それですべてだ、と君が決めつけ、それを絶対の基点にしてしまって、後はすべて頭の中だけで済まそうとする。

 1から100までの数字をすべて足せ。これなんか、もっとひどい。こんな問題を与えられても、どうせ君は読むだけで、なにもやりもしない。面倒くさい。でも、面倒くさいというのも、事実問題じゃない。君が頭の中でかってに言ったこと。逆に、あぁ、これ、ガウスの足し算じゃないか、と、すぐにわかって、101x50=5050と即答する人もいるかもしれない。しかし、こういう人も、わかってない人と似たようなものだ。100+(1+99)+(2+98)+……(49+51)+50=100x50+50という、ひとつずらした解法だって他にある。

 ようするに、人間、なにかわかると、わかった、解けた、って、そこで観察したり、考察したりするのを止めてしまう。面倒だ、とか、ムダだ、とか、できっこない、とか、わかるのも同じ。そうわかると、そこで止めてしまう。でも、わかる、なんて、そもそも事実問題じゃない。君の頭の中のできごとにすぎない。君がわかっても、わからなくても、事実の方はなにも変わってはいない。目の前に問題としてあり続けている。

 マニュアルや図解、警告音なら、読んですぐ、見てすぐ、聞いてすぐにわからないといけない。その先にやるべきことがあるから。一方、芸術は、いくら考えても、結局、むしろよくわからないものが多い。もっともらしく、わかったかのような解説をしている評論家連中がいるが、そういう連中は、そもそも芸術というものそのものがよくわかっていないのだろう。むしろ、芸術は、ありのままのわけのわからないものに向き合うことで、自分の小賢さを思い知り、自分がかってに作ってしまっている思考と感情の壁から自分を解き放ってくれる。

 面倒だ、ムダだ、できっこない、いや、もうわかっている。でも、それこそが、君をムダに苦労させている元凶だ。君がいつまでも同じことを毎日繰り返し、すこしも前に進めないのは、君自身が君自身の頭と心のリミッターになってしまっているから。君がそこに自分自身で思考と感情に壁を建ててしまっているから。たとえ、面倒だ、と思ったとしても、次には、さて、いったいどこがどう面倒なのか、じっと観察し考察を続けてみたらいい。こうして面倒の場と形がわかったら、それに触れない道を探求してみたらいい。ガウスのような面倒ではない道が他にあるかもしれない。

 すぐにわかってしまう君の小賢しさ、君の怠惰が、せっかくの君の無限の才能、君の思考力、想像力、共感力を妨げている。どんな現実からも目を逸らさず、むしろそれを芸術作品のように、むしろまさにわけのわからない問題として見直すならば、そこにはいままで気づかなかった新鮮な発見がある。いつも見慣れた通勤途中の車窓からの風景、うんざりするほど毎日、顔をつきあわせている上司や部下、取引先。君の目を曇らせてしまっているのは、君自身だ。わかったふりを止め、でも、あれは、どうしてなのかな、何なのかな、と、すこしもわかっていなかったことに気づけば、そこに新たな発見がある。

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)