閉塞の時代にこそ大学で哲学を/純丘曜彰 教授博士
/今年、萩本欽一さんが大学に入ったとか。人生や社会の当たり前を疑って、よくわかっていないということがわかると、そこから新しいパラダイムが見えてくる。賢ぶって無理な見栄を張り続けているのを止め、大学でちょっとバカに学んでみることも、ときには大切。/

 プラトンはこう言った、カントはこう考えた、って、いまさらそんな現実離れした昔の人の変な話ばっか並べられても、なんの役にも立たないよ、現代科学だけやっていれば十分、そもそも大学なんかよりネットの情報の方がずっと詳しい、大学の先生は世間知らずのバカばっかだ、って言うけど、そりゃそうだよ。大学って、バカばっかだよ。バカのためにこそ大学はあるのだから。

 古代ギリシアの昔から、オレはなんでも知ってる、なんでも聞いてくれ、君に人生を教えてやろう、これで勝てる、これで成功できるという、とっておきの秘訣を伝えてあげよう、という自己啓発のグルみたいなのがいっぱいいた。彼らは「ソフィスト(知恵者)」と呼ばれ、街々で法外に高額の講演会をやって、人々から大金を巻き上げていた。でも、それ、ホントか、よくわかんないぞ、と言って出て来たのが、ソクラテスみたいな「フィロソフィスト(知恵渇望者)」。つまり、もともと知恵が無いから、バカだから、哲学者。

 「パラダイム」なんていう言葉を聞いたことがあるだろう。野球とかサッカーとかいうのは、みなパラダイム。同じトランプで、七並べもできれば、ポーカーもできる。人生や社会も同じこと。体力が有り余って、なんでも冒険してみたい若者と、家族を守り、仕事をやり遂げたい大人、残り少ない余生を最後まで深く味わいたい老人とでは、同じ人生でもゲームがまったく違う。生まれながらの身分世襲社会と、どんな方法を使ってでもカネを儲けたヤツが勝ちの資本主義社会、組織の中で他人を蹴落として昇進すれば身分もカネも手に入る立身出世社会もまた、それぞれ別のゲーム、別のパラダイム。

 あるパラダイムが主流になり、そこでさまざまな工夫が試されると、やがておおよその必勝法ができあがってくる。こうなると、その必勝法を徹底的に磨き抜いた連中の最先端の戦いになるが、ゲームの競争からこぼれた連中の方の不満が高まり、こんなの、つまんねぇよ、なあ、みんな、別のゲームやろうぜ、って、パラダイムの大転換が起こる。

 問題なのは、あるパラダイムにどっぷり染まると、そのパラダイムでの必勝法は当然絶対のもので、それ以外の可能性はありえない、考えられない、となってしまうこと。しかし、そこには、そのパラダイムの中であれば、という大前提があって、じつはそのパラダイムの方はすこしも当然絶対ではない。

 地球から夜空を見ていた時代、その動きを再現するために精緻複雑な天球儀が探求された。しかし、ガリレオが出て来て、地動説という新パラダイムになると、地球の方が太陽のまわりで自転、公転している、という話になった。ニュートンが、天界も地上も運動法則で理解できる、と、二つの研究ゲームを統一。そしてアインシュタインは、時間も空間も互換性がある、と、さらに統一。じゃ、最新最先端の現代科学だけ勉強すればいいじゃん、と思うかもしれないが、世界がのっぺりとエネルギーで満ちた空間なのか、それとも、粒々と真空の隙間でできているのか、いまだに両方の研究ゲームが連携しながら並立していたりする。人生だって、世襲ゲーム、資本ゲーム、昇進ゲームのように複数のものが絡み合って同時進行している。

 それぞれのゲームの中で、どうすれば最適最善か、なにが必勝法か、みたいな話は、企業が命運を賭けてやればいいし、巷に溢れる有名なソフィストの「先生」に習えばいい。一方、大学でやっているのは、理系でも、文系でも、根本はみな一種の哲学。いま○○ということになっているけれど、根本的な見方を変えたらXXなんじゃないだろうか、って、バカみたいなこと考える。生物と物質、情報と道徳、歴史と現在、個人と社会、等々、ぜんぜん別のパラダイムと思われているけれど、一つのゲームに統一できるんじゃないだろうか、とか。

 オレは頭がいい、大学の先生なんかより、歴史のことなら、映画のことなら、ずっといっぱい知ってるぞ、ぜったい勝てるぞ、というような秀才は、せいぜい世間で評論家でもやっていればいい。それは、わかっている、のではなく、わかっていると思っているだけ。あくまでも、現行パラダイムの中でのソフィスト。一方、うーん、やっぱりよくわかんないんだよなぁ、と、わかっていないことをよくわかっていて、ぼやいている天才肌の「バカ」な人だけが、現行のパラダイムの隙間やアラに、まったく別の新しいパラダイムに抜ける突破口を開く。

 だから、大学の先生方に「バカ」はむしろ褒め言葉。数学バカ、化学バカ、歴史バカ、文学バカ、大学は「研究バカ上等」の業界。べつに世間がなんと言おうと、同時代同分野の凡百の研究者がどう評価しようと、業績の意義は、業績の結果、そこから見え、そこから切り拓かれてくる新しい時代、新しいパラダイムによってのみ決まる。もちろん最近は、大学の中でも企業化してしまって、パラダイム内での研究開発競争に明け暮れている分野も少なくないが、たとえどんなに隅っこに押しやられていても、本筋はあくまで研究バカ。みんな、それぞれに研究を楽しんでいる。

 時代に決められ、人に与えられたゲームの中で、あれこれのソフィストのビジネス書で、その必勝法を極めるのもいいけれど、べつにそれだけが唯一絶対のゲームじゃない。人間、年齢や健康とともにゲームを乗り換えていかなければならないし、世の中も、同じゲームがいつまでも続くわけじゃない。旅をして他の国の他の生き方、暮らし方を知るように、大学でバカな研究を知るのも、人生を豊かにする方法のひとつ。

 若いくせに、すでに狭いパラダイムの中に頭も心も凝り固まり、なんの伸びしろも無いなんて、あまりに情けない。いったん大学の先生のバカさ加減に本気でつきあってみれば、こんなバカなことをやって生きてる変なやつらもいるんだ、と驚くだろう。フルタイムの学生に戻るほど、カネや時間や体力の余裕は無いという人でも、昨今、どこの大学でも聴講生という手がある。オレはもう功遂げ、名を成したなんていう、どこかの終わったパラダイムでのつまらないプライドなんか放り出して、若い連中に混じって、近所の大学にでも、毎週、遊びがてら勉強に行ってみてはどうだろう。年寄り同士が集まって昔の自慢合戦ばかりしているより、よほど新鮮で刺激的だ。

 人生、いつでもまだ、なにも終わってはいないし、なにも始まってもいない。ちょっと大学にでも行って、いったんバカになって、世界の常識の方を疑ってみれば、いくらでもまた他の生き方、考え方、仕事の仕方の可能性はある。

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)