「3人が“流動的”にポジションを取っています」

 だがこれは、流動的という表現方法で済まされる問題なのか。流動的ならオッケーなのか。日本での言い回しは、肯定しているように聞こえる。だが流動的という言葉に具体性はない。様々な捉え方ができる。

 3人が自由に動き回っては統制が取れないのだ。そこには規則性が不可欠になる。真ん中のオスカルが右に開いたらウィリアンが中に入ると言うのなら分かる。アザールが右に行けば、ウィリアン、オスカルが左にスライドするというのなら、これも分かる。だが3人が、そこのところを意識せず動き回ると、3人の絶対的な幅は狭くなる。3人の流動的な動きを無条件で肯定すれば、攻撃は真ん中に偏る。問題は、流動的になった末の結果にあるが、その点に目を配っている日本のテレビ解説者に、僕は遭遇した記憶がない。

 バイエルンも流動的だ。リベリー、ロッベンの両翼は、内にもたびたび入ってくる。それぞれが同サイドに偏ることもある。だが、それでも幅は保たれている。バイエルンが、サンダーランド戦のチェルシーのような症状に陥ることは考えにくい。監督がその点に拘っているからだ。モウリーニョにもないとは思わないが、程度にはずいぶん開きがある。

 流動的は、捉え方次第で意味がいくらでも変わる画一的ではないサッカー用語だ。一方で、攻撃的サッカーか否かを分ける重要なポイントでもある。

 モウリーニョは、隙につけ込むのが巧い監督だ。試合のイニシアチブを自ら握り、相手の皮を一枚一枚剥いでいくように、丹念に攻めるスタイルではない。すなわち攻撃的サッカーのスペシャリストでは全くない。その点ではグアルディオラに劣る。その自在型といわれるサッカーが真価を発揮するのは、弱者ではなく、強者を相手にした場合だ。サンダーランド戦ではなくバイエルン戦。

 とは言っても、今季のチェルシーのメンバーは、バイエルンに負けないほど豪華だ。史上最高と言ってもいい。それでも、サッカー的にはイニシアチブをとらない弱者のサッカーをするのか。強者として、グアルディオラと同じ土俵で戦って欲しい気もするが、あの「流動的」なサッカーを見る限り、その方法論では勝てなそうな気もする。

 豪華になったメンバーと、モウリーニョとの相性はどうなのか。チェルシーとトップ4、トップ6との戦いが、待ち遠しい限りだ。