「戦える選手と戦えない選手、使える選手と使えない選手の境界線がはっきりとした」
その後、二度とこのチームに呼ばれることはなかった。

07年と言えば、鹿島にオズワルド・オリヴェイラが就任した年でもある。この年から鹿島は黄金期を築くわけだが、所属クラブでもポジションを得ることはできなかった。2列目では本山雅志と野沢拓也に、ボランチでは海外から鹿島に戻ってきた小笠原満男や中田浩二の厚い壁を越えられず、青木剛や中後雅喜の後塵を拝し、内田篤人が怪我をして穴が空いた右サイドバックを埋めるなど、本職以外の場での活躍が目に付くくらいだった。出場機会を得るため、オフのたびに移籍の話題が浮上する。夏場にレンタル移籍を真剣に悩み、気持ちの整理が付かないままクラブ関係者の前で30分も静かに泣き続けたこともあった。

■静かに闘志を燃やす、遅れてきた北京世代のひとり

しかし、そこから男は這い上がる。2010年にモンテディオ山形へ期限付き移籍を果たすと、序盤こそ守備意識の違いに戸惑い、ポジションを得られずに苦しんだものの、中盤戦以降はチームの中心の一人として、同じくレンタルで山形に加入していた田代有三とともに、J1残留へ大きく貢献した。

そして2011年、鹿島に復帰した増田はオリヴェイラ監督の信頼を勝ち得る。リーグ戦22試合で先発を果たし、ボランチで最も先発が多かった小笠原の23試合に次ぐ数字を残してシーズンを終えている。

そして、2012年、最初招集となったアイスランド戦だけでなく、2月29日に予定されているウズベキスタン戦にもメンバー入りを果たしたのである。

「前半はちょっと失敗が多かったですね。バランス的に前に行きすぎということを言われていました。自分はもうちょっと前に行きたいという思いはありましたけど、ボランチの役割は、サポートが一番だとハーフタイムに言われたので、後半はそのバランスについては良くできたかと思います。ただ、後半は日本の時間帯というのが少なかった。相手の時間帯をどう自分たちの方に持ってくるのかはボランチの仕事だと思うので、そこでなにもできなかったな、という思いもあります」

そう言って、アイスランド戦をふり返る増田。「厳しいでしょ」という自己判断とは裏腹に、冷静に試合を見つめ足りなかった部分を分析していた。代表のボランチは、遠藤保仁と長谷部誠という抜群の連携を持つ二人が君臨し、そのバックアップとして阿部勇樹、細貝萌が控えている。そこに割って入るのはかなりのインパクトが必要だろう。

「もっと積極的にやりたい」
遅れてきた北京世代のひとりが、静かに闘志を燃やしている。

■著者プロフィール
田中滋
鹿島アントラーズおよび東京ヴェルディを取材しているサッカーライター。掲載媒体は「J'sゴール」「エルゴラッソ」「SportsNavi」など。著書に「鹿島の流儀」「ラクロス即上達バイブル」「ジャイアントキリングを起こす19の方法」他がある。