「コミュニケーション」が変容している。過去にも当サイトにおいて人々のcommon senseの移ろいや、コミュニケーション不全について述べてきたが、もはやコミュニケーションという言葉そのものを考え直さねばならない時がきているのだ。


現代の家族関係を考えるときに「家族のコミュニケーションが減っている」は、問題点の定番として頻出するキーワードだ。教育問題では「学校と家庭、教師と生徒、生徒間のコミュニケーションのありよう」が取り上げられる。ビジネスの世界では「上司と部下、社内全般のコミュニケーション」がなかなか取りづらいということが問題視される。
では、そもそもコミュニケーションとは何なのか。
広辞苑(第5版)をひもといてみる。「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達」とある。
とすれば、コミュニケーションの本質は「伝達」であると解釈できる。
では、「伝達」とは何か。「命令・連絡事項などを伝えること。つぎつぎに伝え届けること」とある。この時点でおや?と思う。

様々なシーンで指摘されているコミュニケーションの問題点は、端的に言えば、「伝わらないこと」である。
コミュニケーションの本質である「伝達」をしても、伝えても伝えても伝わらない。それが今日のコミュニケーションの問題点なのである。だとすれば、コミュニケーションの本質を「伝達すること」ととらえることが間違いなのではないだろうか。
「伝えようとすれば伝わる」と考えることは、島国の単一民族が育んできた極めて日本的な発想であるといえる。言葉を発せずして意思伝達をする。当たり前なこととして言葉を発生ない「言わずもがな」の発想だ。「阿吽の呼吸」という言葉などもこの思想が現れている。
しかし、もはやそれは「幻想」に過ぎないのだ。


「伝わるはずが伝わらない」ことから、昨今の様々な対人トラブルが起きている。

続きはこちら