旅先では夕食もひとりで食べるけれど、東京にいるときは…(写真:jazzman / PIXTA)

沢木耕太郎、と聞いて真っ先に思い浮かぶ言葉は「旅」という人は少なくないのではないか。1986年に発売された旅行記『深夜特急』(最終巻は1992年発売)は、1980〜1990年代の若者、とりわけ、バックパッカーから絶大な支持を受け、その後の旅の仕方にも大きな影響を与えた。
その沢木氏の25年分の全エッセイを掲載した『銀河を渡る』が9月27日に刊行された。『深夜特急』や『一瞬の夏』などヒット作の創作秘話や後日談、美空ひばりや檀一雄との思い出話も収録されている。日本を、世界を移動しながら、自身も40〜70代へと旅していく沢木氏の好奇心はとどまるところを知らない。今回はその中から、2006年11月の「銀座の二人」を掲載する。

ひとりで酒を飲んだり、食事するのは

夏の終わりから秋の初めにかけての季節、東銀座の試写室で3時半から始まる映画を見て出てきた私は、地下鉄の日比谷線の駅に続く階段を下りずにそのまま晴海通りを銀座四丁目の交差点に向かって歩きはじめる。まだ日は暮れ切っておらず、柔らかい陽光がビルの高い階の窓ガラスに反射している。


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そこを歩きながら、ふと、ビールが飲みたいなと思う。どこかに寄って1杯飲んでいこうか……。

しかし、銀座四丁目の交差点に着いた私は、地下鉄銀座線の駅に続く階段を下り、まっすぐ家に帰ることにしてしまう。

銀座や新橋になじみの店がないわけではない。しかし、私は、ひとりで酒を飲んだり食事をしたりするということにあまり慣れていないのだ。外で飲んだり食べたりする機会は少なくないが、そういうときは誰かと一緒のことが多い。少なくとも、夜はそうだ。

旅に出るのはいつもひとりだから、旅先では夕食もひとりで食べる。しかし、東京にいるときは、なんとなくひとりで食べたり飲んだりするのが億劫になってしまう。ひとりだと、入った店の人によけいな神経を使わせそうな気がする。そしてまた、こちらもそれ以上に神経を使わなくてはならない。

要するに、私にはひとりでなじみの店に寄り、軽く飲んだり食べたりするという器量がないのだ。

私が映画についての文章を書くため試写室に通うようになったのは15年ほど前のことである。それまで、試写室という空間があまり好きではなく、通わなくてはならなくなってしばらくは憂鬱だった。しかし、いつの間にか、その憂鬱さは消えていった。

試写室に通うということは、銀座に行くということでもある。もちろん、試写室は六本木をはじめとしてほかにもあるが、銀座界隈への集中の度合いが群を抜いている。

その銀座の試写室というと、思い出す人が2人いる。

ひとりは作家の池波正太郎である。池波さんが「銀座百点」に連載していた「銀座日記」などを読むと、試写の帰りに銀座の気に入りのすし屋や天麩羅(てんぷら)屋に寄って軽く飲んだり食べたりしているところがよく出てくる。

ふらりと来て、お銚子を2本開けて帰っていった

たとえば、いまたまたま手元にある『日曜日の万年筆』には、こんな一節がある。

《昼間、映画の試写を観て、日暮れ前に立ち寄るには〔新富寿し〕がもっともよい。
なんとなれば、この店は昼前に店を開けると商売を中断しない。いったん休んで、午後5時からとか5時半から店を開けるなどということはしない。いつ行ってもよい。
そこで、まだ明るいうちに〔新富寿し〕へ入り、いかにも東京ふうのにぎりずしを食べ、酒の2本ものんで帰宅し、ひとねむりすれば、仕事をするのにちょうどよい体調となるのだ》

言うまでもなく、このとき池波正太郎はひとりである。

私が試写室通いを始めたとき、池波さんはすでに亡くなっていたから、試写室でお会いするということはなかった。しかし、このエッセイに描かれているような池波さんの姿を見掛けたことはある。

それは先に引用したのと同じエッセイの中で、池波さんが銀座の気に入りのすし屋として挙げている3軒のうちの1軒でのことだった。

私と友人とは、夕方のかなり早い時間にその店で待ち合わせていた。客は私たちだけであり、若い主人と気楽にしゃべりながら飲んでいた。そこに、ふらりと池波正太郎が現れたのだ。そして、若い主人とふたこと、みこと言葉を交わし、お銚子を2本空けると、出て行った。

私も友人も特に緊張はしていないつもりだったが、軽く会釈をして送り出すと、2人とも、ほっとしたあまり、つい話し声のトーンが高くなってしまったのがおかしかった。

池波さんには、ひとりでこうした店に入り、ひとりで飲み、食べるということに慣れている、独特の風格のようなものがあった。

銀座の試写室で思い出すもうひとりは淀川長治だ。

淀川さんとはその晩年に一度だけ対談したことがある。対談の場所は淀川さんが長期滞在していた溜池の全日空ホテルだった。その中華料理店で、酒の飲めない淀川さんに合わせて、まったくアルコール抜きで4時間以上の長い対談をしたのだ。もっとも、対談とは名ばかりで、私が言葉を発したのは4時間のうち15分もなかっただろうから、淀川さんの独演会のようなものだったのだが。

孤独の代償として手に入れたもの

そこで淀川さんが語ったことの中にはいくつも印象的なことがあったが、意外だったのは食べ物に関する次のような話だった。

淀川さんは、午後になるとテレビ局が差し向けてくれる車で試写室に行き、その車で全日空ホテルに帰ってくる。そして、夕食はホテルの中にあるレストランを「かわりばんこ」に選んでそこで食べる。毎日がほとんどその繰り返しだと言ったあとで、こんなことを呟(つぶや)いた。

「もう何年と、ひとりで環状線の向こうに行ったことがないわ」

その時の話の流れでは、環状線の向こうというのは渋谷や新宿を指しているらしかった。そして、その言葉は、ホテルの外の繁華街で気儘に食事をすることがまったくないということを意味しているようだった。


その対談以来、銀座の試写室などで顔を合わせるとあいさつをするようになったが、淀川さんの小さな体が試写室の外に出て行くのを見送りながらいつもこんなことを思っていた。

――淀川さんは、これから全日空ホテルに帰り、あそこにある大きなレストランのどこかで、ひとり食事をするのだなあ……。

おそらく、淀川さんは、そうした孤独を代償にして多くのものを手に入れたのだ。試写室からの帰り、私は池波さんのように気儘になじみの店に寄ることもなく、淀川さんのように決まりきった店でひとり食事をするでもなく、家に戻って平凡な食事をする。

そういえば、対談の最後に、淀川さんが私に質問をしてきた。沢木さんは奥さんや子どもさんがいるの、と。私が、ええ、と答えると、淀川さんがほんのちょっぴり哀れむように言った。

「じゃあ、だめね」

2006年11月