デジタル・ネイティブやデジタル・ディバイドについて考えてみた!

筆者はファミコンやPCエンジンといった古いゲームが大好きで、今でも時々秋葉原に行ってはレトロゲームショップに立ち寄りファミコンのゲームソフトなどを買い漁っているのですが、そんなある日のお話。

いつものように某レトロゲームショップに行くと、そこには6〜7歳くらいの欧米系の男の子。外国人観光客が秋葉原で買い物をすることは珍しくありませんが、小さな子どもがレトロゲームショップに来ることはあまりないので「どのゲームも初めて見るものばかりだろうな」と微笑ましく思っていたところ、その男の子が懐かしいブラウン管テレビに映されていたファミコンのデモプレイを見つけ、不意に画面に表示されていた「START」の文字に指を置いたのです。

男の子はゲームが始まらないこと確認すると残念そうに離れていきましたが、その様子を見ていた筆者は「これが今のデジタル・ネイティブの反応なのか!」と小さくない感動を覚えてしまいました。

生まれた時からスマートフォン(スマホ)やタブレットに慣れ親しむ世代にとって「画面に触って反応するかどうかを確かめる」という行為は当たり前の行動ですが、筆者のようなオジサン世代にはとても興味深い反応に感じます。恐らくこの“違和感とも違う想像外のものを見た異質さ”こそがデジタル・ディバイド(もしくはITリテラシー格差)というものの本質なのだろうと感じた次第です。

感性の原点からテクノロジーの特異点を俯瞰する「Arcaic Singularity」。今回はそんなデジタル・ネイティブとデジタル・ディバイドについて、つらつらと書き綴ってみたいと思います。


この様子に異質さを感じるか、それとも当たり前と見るかで世代が分かる……?


■デジタル・ネイティブとは何か
そもそも、デジタル・ネイティブとは何を指す言葉でしょうか。古くは2001年に米国の作家、マーク・プレンスキーが著書内で定義したことが始まりとされており、その言葉自体が日本で聞かれるようになったのはその数年後くらいからだと記憶しています。

著書では生まれた時からITに慣れ親しんでいる世代をデジタル・ネイティブと呼び、またIT技術が普及する以前に生まれ、のちにIT技術を習得した(もしくは習得しようとしている)世代をデジタル・イミグラントと呼んでいますが、筆者はこの定義からするとデジタル・イミグラントに分類される世代のようにも感じます。しかしのちの人々による研究や定義を探ると、日本においては1976年前後に生まれた世代を「第1世代デジタル・ネイティブ」と呼ぶ研究者も存在し、筆者はまさにこの世代に相当するようです。

IT業界の歴史を紐解いてみれば1976年に国内で東芝やNECからマイコンが発売され、1977年に米国でApple IIが登場し、1978年には国内でもシャープや日立などが民生用の8ビットパソコンを発売、その後爆発的にパソコンは普及と高性能化を繰り返し現在に至ったわけで、まさに1976年がITのターニングポイントであったことは疑いようもありません。

とは言え、日本国民の多くがその恩恵を受けていた時代ではなく、この世代をデジタル・ネイティブと呼んで良いのかは少なからず疑問符が残ります。しかしその後の1982年のPC-98シリーズ発売、1983年のMSXおよびファミリーコンピュータ発売など、少なくとも1970年代後半世代が幼稚園や小学校に入る頃にはさまざまなコンピュータ機器が一般家庭にも浸透し始めていたのは事実で、現在一般的に言われるデジタル・ネイティブとは少し意味合いが違うものの、デジタル・ネイティブとデジタル・イミグラントを分ける“境界の世代”であるという点は間違いないでしょう。


ファミコンを遊んで育った世代とそれ以上の世代では、IT機器への理解度という点で決定的な差があるのは事実だろう


デジタル・ネイティブの定義は研究者や著書によって意見がさまざまで明確な世代分けができませんが、筆者的には家庭用ビデオゲーム機やPC-98シリーズに代表される国産パソコンが日本中沸き立たせていた1985年前後、携帯電話が普及し始めPHSが発売された1995年前後、そして初代iPhoneが発売された2007年が大きなターニングポイントとなっている気がします。いずれも10年〜11年程度の周期で訪れている点は面白いところです。

それぞれの世代でデジタル・ネイティブの定義や常識、そして反応は変わります。最初の世代やゲーム・パソコン普及世代であれば「お母さんはファミコンでもパソコンでもなんでも『ピコピコ』って呼ぶんだ」とぼやき、携帯電話世代は「携帯電話がない時代ってどうやって待ち合わせしてたの!?」と驚き、スマホ世代では「え、テンキーでポチポチって。普通フリックでしょ」と笑うのです。

もしかしたらこの先の世代には「まだフリック入力とかしてるの?フツー音声入力でしょ」と笑われているかもしれません。そこまで突飛な話ではなくとも、一昔前であれば「会議中にパソコンを開くんじゃない!」と怒られたり、今であれば「会議中にスマホをいじるな!」と怒られた経験がある人は少なからずいるでしょう。それらのデバイスで議事録を取ったり会議に必要な情報の確認をする行為は、それが「当たり前」ではない世代にとって異質で理解し難いものと映るのです。そしてそれがデジタル・ディバイドへとつながります。


IT関連企業であれば当たり前の会議の様子も、それ以外の業種や業界ではあり得ない光景に映ることが多々ある


■日本を覆うデジタル・ディバイドの暗鬱
デジタル・ネイティブとデジタル・ディバイドの関係は非常に根が深く、そして解決し難い“溝”があります(だからこそ「ディバイド」なのである)。デジタル・ディバイドの定義もデジタル・ネイティブ同様に幅が広く意見が分かれるところですが、現代の感覚でざっくりと言うならば「インターネットを使いこなせる世代かどうか」が大きな分かれ目になるようです。

端的な例はFAX(ファクシミリ)です。世界的に見ても日本ほどにFAXが現在まで普及している国は非常に珍しく、もはや日本企業の因習と呼んでも差し支えのない時代にまで突入しています。筆者の場合メール(E.メール)で取材の案内などが送られてくることが多くありますが、その返答をFAXで送るようにと用紙のPDFファイルが添付されていることが未だにあります。「そのままメールで返答すれば済む話では……」と頭を抱えそうになりつつ先方へ取材申込のFAXを送るのです。


パソコンで作成した会議の資料を人数分印刷し、会議で決まったことを再びパソコンへ入力する、などという無駄は多くの企業が未だにしている


デジタル・ディバイドと言ってもパソコンやスマホが全く使えない人々のことだけを指すわけではありません。前述したような会議の様子やFAXの例を含め、今の技術を導入すれば短時間で終わることを旧態依然とした体制と道具で行っている事自体が既にデジタル・ディバイドだと言っても過言ではないでしょう。そしてその原因は世代交代されない企業の体制にあります。

日本の場合団塊世代やその後のポスト団塊世代が企業の上層を永く務め、さらにデジタル・ネイティブの第一世代と目される1976年前後の世代がいわゆる就職氷河期世代となってしまったことから企業内での役員比率が極端に低く発言権が弱かったこともまた、日本企業のIT化が遅れた理由の1つではないかと考えます。

子どもたちの世代に目を移してみても、かつてのゆとり教育をはじめ英語教育やパソコン教育が遅れたことで、世界で戦える人材を育てる教育が成されてこなかったことは現実が物語っています。


これからの時代、子どもたちにIT教育は必須である


■デジタル・ネイティブの「興味」を大事に
では、日本におけるデジタル・ディバイドは今後も払拭できないのでしょうか。筆者はそうは考えません。

数年前から団塊世代やポスト団塊世代の退職時期が訪れ、現在各企業は「大世代交代期」に入っています。昨今の求人の増加や新卒採用が売り手市場となっているのも、景気の回復以上に団塊世代の大量退職による穴埋めを行う必要があるからです。もちろんその新人が即戦力になるわけでも企業体質をすぐに変えるわけでもありませんが、少なくとも企業間や企業内の連絡にFAXを使う企業は数年以内に激減するでしょう。

教育の世界でもようやく英語教育の見直しやプログラミング教育といったITを活用する動きが見え始めています。プログラミング教育そのものは論理的思考を養うためのものでありプログラマーを養成するような類のものではありませんが、早くからパソコンやタブレットに慣れ親しむことで操作や原理に興味を持ち、各種デバイスを使いこなせる層が拡大するという点では大きな意義があります。


NECが1月に行った学生向けノートパソコンの発表会では、日本の学生の「パソコン離れ」を危惧しそこにターゲットを絞った製品が発表された


日本が今後IT分野において再び世界に通用する技術と進化を手に入れられるかどうかは、私たちデジタル・ネイティブ世代にかかっています。とくに現在30代のゲーム・パソコン世代、20代の携帯電話世代、そして10代のスマホ・タブレット世代は今後の日本の動向を占う重要な世代となるでしょう。

団塊世代やポスト団塊世代の大量退職によって日本が1つの大きな時代の転換を迎える中で平成という元号が終わるというのも、何か運命的なものを感じさせます。次の元号はまだ決まっていませんが、その時代が日本にとって輝かしい時代となるためにもデジタル・ネイティブの育成とITリテラシーの啓蒙を怠ってはいけません。デジタル・ネイティブが日本を動かす時代に日本が沈没している状況だけは今から防がなければいません。

ブラウン管テレビに映されたファミコンの画面を指で触れて操作しようとしていた子どもの反応は大切にしなければいけないのです。その「触ってみよう」を伸ばし興味や関心を引き出すことこそが今の大人に託された使命です。デジタル・ネイティブの子どもたちは時に大人が想像もしなかった反応を見せますが、大人たちはその反応に拒絶することなく追従し理解していくことこそが何よりも大事なのだと筆者は考えます。


子どもたちの「興味」こそが日本を救うだろう


記事執筆:秋吉 健


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